●9.講演会
林原はノースカロライナ州グリーンビルにある東カロライナ大学の小講堂に来ていた。『郷に従え』の賛同者や学生が集まり、ケリーの講演に耳を傾けていた。適宜質問を交えて講演していたが、林原のスマホはケリーの英語の通訳に設定されていたので、質問の内容は、部分的にしかわからなかった。
「…というわけでアメリカにおいても、ゴウニシタガエは移民の横暴を許さない合言葉になり得るのです。ここで本日は特別ゲストとして、ゴウニシタガエの提唱者である林原氏にお越しいただきました」
ケリーは演台の裏手で待機している林原を呼び拍手で出迎えると、聴衆も拍手していた。
林原が英語で自己紹介すると聴衆はそのまま英語で話すのかと期待しているようだった。
「私のつたない英語では伝わらないこともあるので、郷に従えと言いつつも、今日はこの通訳アプリを通してお話しすることはお許しください。次回は郷に従って流暢な英語にしますので」
林原の日本語は、スマホ経由で小講堂のスピーカーから英語になって聴衆に届いていた。
「ノースカロライナ州の皆さん、こんにちは!今日はノースカロライナの美しい土地にて、我々『郷に従え』党のビジョンについてお話しできることを大変うれしく思います」
林原の言葉に聴衆たちはフレンドリーな表情になっていた。つかみはOKであった。
「ノースカロライナ州の歴史と伝統を尊重する『郷に従え』党は、先ほどケリーさんが申し上げた通り、その土地に根ざすことを基本理念としています。ここノースカロライナ州は歴史と伝統が豊かな場所です。農業、工業、そして独自の文化がこの地域の誇りであり、他のどこにもない魅力を持っています。私たちは、ノースカロライナの価値観を尊重し、この土地が未来に向かって成長するための支援を惜しみません。しかし残念なことに郷に従わない人たちがいることは確かです」
林原は一呼吸おいていた。ご当地を褒めるありふれた手法だが、聴衆の気持ちを快いのものにしていた。
「その通りだ」
「もうこれ以上移民はいらない」
「アメリカの良き伝統が廃れる」
聴衆から声が上がっていた。
この後、ノースカロライナの不法移民の数が増えているグラフや治安悪化を象徴する事件など、画像を交えて説明していた。
「では、どうするか。何が大切かです。それは教育にあるのではないでしょうか。地域との絆を深める教育をすれば、誰もがその土地に愛着を持つはずです。これは新たに加わった移民にもその教育の機会を与え、その土地の一員として自覚を持たせれば、自ずと行動は郷に従ったものになります。
地元の伝統や歴史、自然と共に生きる姿勢を持ってもらうわけです」
林原が一呼吸置く。ちょうどその時、小講堂が入っている建物近くの駐車場で車のけたたましいプレーキ音が響いていた。
「しかし、従わない者は必ず現れます。従わない者には厳しい戒めがなければなりません。安全で住みよい地域社会の実現のために警察や消防と連携し、犯罪防止や治安の向上に力を注ぐ必要があるのです」
林原の視界にいた、大学の警備員が小講堂を出て行った。
「我々が掲げるビジョンは、ノースカロライナ州の皆さんが日々感じている価値観や、未来に対する希望と重なると信じています。どうか私たちと共に歩んでみてください」
林原が言い終えると、聴衆が拍手で沸いた。
「林原さん、ありがとうございました。…、皆さん伏せてください」
司会の男が場を締めようとしていると、外で5発の発砲音がして小講堂の窓ガラスが1枚が割れた。小講堂内では女性の悲鳴が上がり、にわかに騒然とし出した。
林原とケリーは警備員に囲まれながら、控室に逃げ込んだ。警備員が無線で連絡を取り合っていた。ケリーは何事が起ったのかと警備員に聞いていた。この間も、間断的に銃声がしていた。
「ケリーさん、何が起こってるのですか」
「アラブ系の男が銃を乱射しているそうです」
「イスラム過激派組織ですか」
林原は身の危険を感じる銃声は初めてであった。
「今の所、イカれた単独犯だと言っていますが、ここに来ると言うことは、何らかの反保守派でしょうね」
「とにかく郷に従えない連中ってわけですか」
「はい。あぁ、新たな情報です。隣の別棟の階段教室に人質を取って立てこもったそうです」
拳銃を構えた警察官や狙撃銃を構えたSWATたちが別棟を包囲していた。その場の指揮を取っている警察官がケリーの所に来て何か真剣な顔でいっていた。ケリーは初め首を横に振っていたが、少し考えてから林原の所に来た。
「犯人がこの集まりの首謀者を連れて来いと言っています」
ケリーの英語が訳されているスマホの声にも、ケリーの不安な気持ちが伝わってくるようだった。
「首謀者か…、私になるのかな」
「いえ、林原さんだとしても、犯人の前に出る必要はないのよ」
ケリーが念を押す感情が、訳された日本語の言葉の端々に漂っていた。林原は、こんな時にも関わらず、スマホの翻訳機能に感心していた。
「でも、それで犯人の注意を引くことができれば、狙撃がしやすくなるのでは」
「警察側もそのように言っていたけど、危険過ぎます」
「私が行きましょう」
林原は警察官の方へと歩み寄っていた。
林原は両手を上げながら、警察官たちの囲みの中から歩み出ていった。階段教室をゆっくりと近づく。スマホは汎用型の男性の声で訳されるように設定していた。
「おい、もう少し近くに来なさい」
犯人の声は裏腹に紳士的な声になっていた。ちょっと拍子抜けする林原。
「私がきたのだから、人質の女性は解放しろ」
林原の声はすぐに英語になっていた。
「そう言うことではありません。あなたと話がしたい。その結果によってはあなたを殺さなければなりません」
「わかった。話をしようじゃないか」
林原は階段教室に入ってすぐの所で立ち止まった。犯人は人質に銃を突き付けながら、階段教室の奥に陣取っていた。
「あなたは日本人のなのに、どうしてアメリカ人の肩を持つのですか。どうして我々イスラム教徒の信仰の自由を奪うのですか」
「私は特定の人々の肩を持つのではなく、その地域に居る人達の文化や習慣を尊重しているだけです」
「暴力で押さえつけることは、何とも感じないのですか」
「怒りの感情が増しているのは好ましくありませんが、ガス抜きとしてある程度は黙認します。しかし一方であなた方が彼らに異質な宗教観や文化を押し付けてはいませんか。そこの住人でもないのに権利とか主張してです」
「そんなことはない。アメリカに偏見と差別が蔓延っているからです」
「憎しみでは何も解決しません。双方にリスペクトがなければ、和解はできないのです」
「リスペクト…」
「私はあなた方のイスラム教の国に行けば、その習慣に則り行動します」
「やはり、あなたの言っていることは、わからないし、屁理屈です。死に値します」
犯人は銃口を林原向け引き金に指をかける。
「待ってくれ。死ぬ前に新鮮な空気を吸わせてくれ」
「どうして」
「これが日本人の宗教観だからだ」
「それぐらい認めてあげます。しかしゆっくりと窓際に行って欲しい」
「ゆっくりだな。わかった」
林原は、ゆっくりと慎重に窓際に行く。
「少し待て。窓を開けて狙撃させるつもりか」
「そんなことはない。気になるなら1インチだけ開ける。これなら狙うことはできない」
林原は少しだけ窓開け、深呼吸した。
「よし、良いだろう。地獄へ落ちろ」
大きな銃声が周囲から轟いた。林原は音にふらつき、体中を触っていたが特に痛みはない。犯人の方を見ると、犯人の頭は血まみれになり、その返り血を浴びた女性は腰を抜かして呆然としていた。警察官たちが階段教室になだれ込んできた。
林原は警察官たちと共に動かなくなった犯人の所へ行った。間近で犯人を見ると、窓、換気ダクト、天井の羽目板の隙間、廊下側の配線口など多数の方向から狙撃されたようだった。
林原とケリーは、警察の感謝の言葉と簡単な事情聴取を終え、東カロライナ大学の近くのクリスピークリーム・ドーナツで休憩していた。
「林原さん、普通のアメリカ人だったら、あんな無防備であぶないことはしません」
「これも平和ボケですかね」
「でも、妙な会話に引き込まれて犯人は判断が鈍った感じでした。これで地方紙にこの一件は載りますから、『郷に従え』党の宣伝になるでしょう」
「瓢箪から駒という表現が日本にあります。これですよ」
「ちょっとニュアンスがしっくりと来ませんが、その日本語も流行らせますか」
ケリーは笑いながらキャラメル・アーモンド・クランチ・ドーナツを食べていた。林原もニヤニヤしてシナモンシュガー・ドーナツを口にしていた。