「川、きれいですね。川の石も丸くてきれいです」
ティーナがしゃがみ込み、静かに声を漏らすと、エレオノーラとベルシアがその両脇で、やさしく手を添えて支えている。
「ティーナ、川の石はもともとまるいよ」
「いや、でもこの子の“まるい”基準、ちょっとだけ詩的なんだよね」
「はい、みんな壊れて無くて、ちゃんと“生きてる”感じがするんです」
その言葉を聞いて、ふと風の柔らかさや草の香りに、普段よりも澄んだものがあるように感じられてくる。
レオンは靴を脱いで川の中に足を突っ込み、バシャバシャと水をはねさせながら叫ぶ。
「うおっしゃーっ! やっぱ水は最高だなーっ!」
「レオンくん、それ、誕生日祝いっていうより……ただの全力入水では?」
セイルが日傘を傾けながら、やや呆れたように言う。
「体動かさないと、俺、さびる気がして!」
「じゃあ今日の誕生日会、テーマは“野生回帰”ってことにしようか」
ユリウスがクーラーボックスの蓋を開けながら、淡々と受け流している。
ゆるやかに笑いの空気が広がっていく。
川辺を流れる風は心地よく、草のそよぎや水音が、穏やかな時間に寄り添っていた。
──そのときだった。
「きゃあっ!」
ばしゃん──と、遠くで大きな水音が跳ねる。
下流から聞こえたその音に、全員が一斉にそちらへ視線を向ける。
川の流れの中に、小さな子どもの姿がある。
その身体は流れにのまれ、足がつかないようで、今にも沈みそうに揺れている。
「危ない……!」
誰かの声が上がるより早く、ティーナがすっと立ち上がっている。
そのまま、ためらいもなく川辺へと駆けていく。
「ティーナっ、まって──!」
エレオノーラの声が空へ消える。けれどティーナは、もう応えていない。
水に飛び込むかと思ったその瞬間──
ティーナの足が、水面の上にそっと着地する。
いや、正確には──沈まない。
水に沈むことなく、まるで空を歩くように、そのまま軽やかに水の上を走っていく。
「……えっ」
エレオノーラの口から、息のように声が漏れる。
「ちょ……」
ベルシアも目を大きく見開き、動けずにいる。
ティーナの姿は、すでに流されかけている子どものもとへと到達していた。
細い腕がやさしく伸び、まるで壊れものに触れるように、子どもをそっと抱き上げる。
水面にはきらめく波紋だけが広がっていく。
次の瞬間、ティーナは子どもを抱いたまま、変わらぬバランスで川を戻ってくる。
全員が息を飲んだまま、ただその光景を見守っていた。
濡れた髪からしずくを落としながら、ティーナは岸辺まで歩いてくる。
咳き込みながらも無事な子どもを、地面にそっと降ろしている。
「大丈夫……ケガ、してません」
そう告げるティーナの声には、微かな笑みがにじんでいた。
そのやさしさは、まるで空気そのものに染みこんでいくようだった。
子どもが無事であるとわかると、皆がようやく動き出す。
しばらく静止していた空気が、ようやく動きを取り戻していく。
ユリウスが、目を瞬かせながらぽつりと呟く。
「……物理的には、理論上、時速百キロ以上で走れれば──水面を走ることも不可能ではないけれど……」
「つまり、ティーナは人間をやめてるってこと?」
ベルシアの言葉は一見冷静だが、かすかに震えが混じっている。
「いや、やめてはいない。やめてはいないけど……」
セイルの口から、深いため息がこぼれていく。
「……子どもが無事だったなら、これは……夢だったってことにしておこう」
その苦笑混じりの提案に、誰も反論しない。
ただ、誰もが現実感を取り戻せないまま、静かにうなずいている。
「すごいな、俺も水の上を走るぞ!」
レオンが勢いよく川へと向かいかけるが──その足は、全員の制止によって止められた。
その時だった。
「橋が倒れるぞ! 逃げろっ!」
遠くから、鋭く飛んできた作業員の声が空気を裂く。
工事中の橋の足場が、ギィッと軋んだ音を立て、ぐらりと傾き始めている。
逃げ遅れた数人の作業員が、体勢を崩し、今にも川へ落ちそうになっている。
その瞬間──ティーナの姿が、ふっと消える。
誰もが目を凝らし、左右を見渡すが、どこにも見当たらない。
ほんの一瞬の静寂ののち、彼女はすでに橋のもとへ辿り着いている。
軋む構造材に、ティーナの両手がそっと添えられている。
彼女の小さな身体は震えておらず、表情も変わらず、ただ静かに、橋を支えている。
倒れかけた骨組みが、まるで自らの意志を取り戻したかのように、元の角度へ戻っていく。
橋の上にいた作業員たちは、ぽかんと口を開けたまま動けずにいる。
その目は“少女”ではなく、“奇跡的に崩れなかった橋”を見つめている。
「おい、危ないぞ!」
「子どもが、あんなとこ行っちゃだめだ!」
誰かが叫び、誰かが手を伸ばしかけている。
だが、誰ひとりとしてティーナが“橋を支えていた”などとは、気づいていない。
ただ心配そうに、その小さな後ろ姿を見つめているだけだった。
ティーナは何も言わず、背を向けて歩き出す。
濡れた足元からは、水音すら立たない。
いつもと同じ、凛とした姿勢のまま──その姿は、まるで空気をまとったように軽やかだった。
「……ティーナ、すげえ!」
レオンの声が、空気をふたたび動かす。
けれど、他の誰もが、ただ沈黙を保っていた。
何かを語るには、あまりにも現実離れした出来事だったから。
ティーナがふと、小さく呟く。
「……何も、壊さなくて、よかった」
その言葉に、ベルシアがそっと彼女の横顔を見つめ、わずかに目を伏せる。
そのときだった。
王子アルヴァンが険しい命令を発した。
陽の光を浴びたまま、真剣な眼差しで一同を見渡していた。
「──今、ここで見たことは……誰にも、決して伝えてはならない」
その声は強く、しかし感情に頼らず冷静に響いている。
ユリウスも、セイルも、レオンも。
エレオノーラも、ベルシアも。
誰ひとりとして逆らうことなく、ただ静かにうなずいていた。
ただ一人──ティーナだけが、小首をかしげたまま、その場に立っていた。
まるで「どうして?」と心の中で問いかけているように。
やがて、皆は川辺を静かに後にする。
無言の帰路。それぞれの胸に沈むのは、言葉にできないものだった。
──夜。
王子アルヴァンは、寝室の椅子に深く腰を預け、額を押さえたまま動かない。
部屋の灯りが揺れている。
「……あれは、人の力じゃない……」
かすれた声が、ぽつりと漏れる。
ティーナの姿が、脳裏に焼きついたまま離れない。
水を駆け、橋を支え、風のように静かに微笑んでいた少女。
その存在は、神話で語られる英雄たちよりも、現実味がなかった。
けれど、王子の胸には、たしかに小さな火が灯っている。
「……けれど、僕は……ティーナを恐れたくない」
呟くように、そう告げる。
夜の窓辺に立ち、金色の髪が静かに揺れる。
その背後では、雲間からひとつだけ、星が滲むように輝いていた。