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第24話

「川、きれいですね。川の石も丸くてきれいです」


ティーナがしゃがみ込み、静かに声を漏らすと、エレオノーラとベルシアがその両脇で、やさしく手を添えて支えている。


「ティーナ、川の石はもともとまるいよ」


「いや、でもこの子の“まるい”基準、ちょっとだけ詩的なんだよね」


「はい、みんな壊れて無くて、ちゃんと“生きてる”感じがするんです」


その言葉を聞いて、ふと風の柔らかさや草の香りに、普段よりも澄んだものがあるように感じられてくる。


レオンは靴を脱いで川の中に足を突っ込み、バシャバシャと水をはねさせながら叫ぶ。


「うおっしゃーっ! やっぱ水は最高だなーっ!」


「レオンくん、それ、誕生日祝いっていうより……ただの全力入水では?」


セイルが日傘を傾けながら、やや呆れたように言う。


「体動かさないと、俺、さびる気がして!」


「じゃあ今日の誕生日会、テーマは“野生回帰”ってことにしようか」


ユリウスがクーラーボックスの蓋を開けながら、淡々と受け流している。


ゆるやかに笑いの空気が広がっていく。

川辺を流れる風は心地よく、草のそよぎや水音が、穏やかな時間に寄り添っていた。


──そのときだった。


「きゃあっ!」


ばしゃん──と、遠くで大きな水音が跳ねる。


下流から聞こえたその音に、全員が一斉にそちらへ視線を向ける。


川の流れの中に、小さな子どもの姿がある。

その身体は流れにのまれ、足がつかないようで、今にも沈みそうに揺れている。


「危ない……!」


誰かの声が上がるより早く、ティーナがすっと立ち上がっている。

そのまま、ためらいもなく川辺へと駆けていく。


「ティーナっ、まって──!」


エレオノーラの声が空へ消える。けれどティーナは、もう応えていない。


水に飛び込むかと思ったその瞬間──

ティーナの足が、水面の上にそっと着地する。


いや、正確には──沈まない。

水に沈むことなく、まるで空を歩くように、そのまま軽やかに水の上を走っていく。


「……えっ」


エレオノーラの口から、息のように声が漏れる。


「ちょ……」


ベルシアも目を大きく見開き、動けずにいる。


ティーナの姿は、すでに流されかけている子どものもとへと到達していた。

細い腕がやさしく伸び、まるで壊れものに触れるように、子どもをそっと抱き上げる。


水面にはきらめく波紋だけが広がっていく。


次の瞬間、ティーナは子どもを抱いたまま、変わらぬバランスで川を戻ってくる。

全員が息を飲んだまま、ただその光景を見守っていた。


濡れた髪からしずくを落としながら、ティーナは岸辺まで歩いてくる。

咳き込みながらも無事な子どもを、地面にそっと降ろしている。


「大丈夫……ケガ、してません」


そう告げるティーナの声には、微かな笑みがにじんでいた。

そのやさしさは、まるで空気そのものに染みこんでいくようだった。


子どもが無事であるとわかると、皆がようやく動き出す。

しばらく静止していた空気が、ようやく動きを取り戻していく。


ユリウスが、目を瞬かせながらぽつりと呟く。


「……物理的には、理論上、時速百キロ以上で走れれば──水面を走ることも不可能ではないけれど……」


「つまり、ティーナは人間をやめてるってこと?」


ベルシアの言葉は一見冷静だが、かすかに震えが混じっている。


「いや、やめてはいない。やめてはいないけど……」


セイルの口から、深いため息がこぼれていく。


「……子どもが無事だったなら、これは……夢だったってことにしておこう」


その苦笑混じりの提案に、誰も反論しない。

ただ、誰もが現実感を取り戻せないまま、静かにうなずいている。


「すごいな、俺も水の上を走るぞ!」


レオンが勢いよく川へと向かいかけるが──その足は、全員の制止によって止められた。


その時だった。


「橋が倒れるぞ! 逃げろっ!」


遠くから、鋭く飛んできた作業員の声が空気を裂く。

工事中の橋の足場が、ギィッと軋んだ音を立て、ぐらりと傾き始めている。


逃げ遅れた数人の作業員が、体勢を崩し、今にも川へ落ちそうになっている。


その瞬間──ティーナの姿が、ふっと消える。


誰もが目を凝らし、左右を見渡すが、どこにも見当たらない。

ほんの一瞬の静寂ののち、彼女はすでに橋のもとへ辿り着いている。


軋む構造材に、ティーナの両手がそっと添えられている。

彼女の小さな身体は震えておらず、表情も変わらず、ただ静かに、橋を支えている。


倒れかけた骨組みが、まるで自らの意志を取り戻したかのように、元の角度へ戻っていく。


橋の上にいた作業員たちは、ぽかんと口を開けたまま動けずにいる。

その目は“少女”ではなく、“奇跡的に崩れなかった橋”を見つめている。


「おい、危ないぞ!」


「子どもが、あんなとこ行っちゃだめだ!」


誰かが叫び、誰かが手を伸ばしかけている。

だが、誰ひとりとしてティーナが“橋を支えていた”などとは、気づいていない。


ただ心配そうに、その小さな後ろ姿を見つめているだけだった。


ティーナは何も言わず、背を向けて歩き出す。


濡れた足元からは、水音すら立たない。

いつもと同じ、凛とした姿勢のまま──その姿は、まるで空気をまとったように軽やかだった。


「……ティーナ、すげえ!」


レオンの声が、空気をふたたび動かす。

けれど、他の誰もが、ただ沈黙を保っていた。


何かを語るには、あまりにも現実離れした出来事だったから。


ティーナがふと、小さく呟く。


「……何も、壊さなくて、よかった」


その言葉に、ベルシアがそっと彼女の横顔を見つめ、わずかに目を伏せる。


そのときだった。


王子アルヴァンが険しい命令を発した。

陽の光を浴びたまま、真剣な眼差しで一同を見渡していた。


「──今、ここで見たことは……誰にも、決して伝えてはならない」


その声は強く、しかし感情に頼らず冷静に響いている。


ユリウスも、セイルも、レオンも。

エレオノーラも、ベルシアも。

誰ひとりとして逆らうことなく、ただ静かにうなずいていた。


ただ一人──ティーナだけが、小首をかしげたまま、その場に立っていた。


まるで「どうして?」と心の中で問いかけているように。


やがて、皆は川辺を静かに後にする。

無言の帰路。それぞれの胸に沈むのは、言葉にできないものだった。


──夜。


王子アルヴァンは、寝室の椅子に深く腰を預け、額を押さえたまま動かない。

部屋の灯りが揺れている。


「……あれは、人の力じゃない……」


かすれた声が、ぽつりと漏れる。


ティーナの姿が、脳裏に焼きついたまま離れない。


水を駆け、橋を支え、風のように静かに微笑んでいた少女。

その存在は、神話で語られる英雄たちよりも、現実味がなかった。


けれど、王子の胸には、たしかに小さな火が灯っている。


「……けれど、僕は……ティーナを恐れたくない」


呟くように、そう告げる。


夜の窓辺に立ち、金色の髪が静かに揺れる。


その背後では、雲間からひとつだけ、星が滲むように輝いていた。


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