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第25話

春のやわらかな光が、バルティネス男爵家の屋敷にそっと降り注いでいる。

質素な木の床と石の壁が、どこかあたたかい色に染まって見えた。


「お嬢様、朝食のお時間です。」


柔らかな声とともに、ベアトリスがティーナの肩を優しく揺らす。

ティーナはまぶたをゆっくりと開き、寝ぼけた声で返す。


「……うん……」


ベアトリスは手際よくブラシを取り、ティーナの金色の髪を丁寧にとかしていく。

鏡の中の自分と目が合うたび、ティーナはそっと心の奥でつぶやいていた。


――今日も、誰も傷つけずに過ごせますように。


支度を終えて階下に降りると、家族の声がやわらかく響いてくる。

ダイニングの椅子には、父のクラウス、母のマルレーネ、兄エドワード、妹ソフィアが、それぞれの席についていた。


朝食の時間は、穏やかな雑談と共に進んでいく。

パンの香りとスープの湯気が、家中を包んでいた。


食後、クラウスが背筋を正して言う。


「今日は、近くの公園に行くぞ。」


その一言に、場の空気がふっと変わった。

無骨な父が自ら“外出”を提案することなど、めったにない。


ティーナは小さく首をかしげながら、ふと気づく。


――今日は、両親の結婚記念日だ。


その瞬間、マルレーネが弾かれたようにクラウスに抱きつく。

頬に情熱的なキスを落とし、耳元で甘えるように囁いている。


「あなた、だいすき……」


クラウスは何も言わず、照れ隠しのようにマルレーネを抱きしめる。

無骨な表情に、わずかにやわらかな笑みが浮かんでいた。


それを見ていたエドワードが、苦々しい顔でぼそりとつぶやく。


「……子どもの前で、恥ずかしくないのかよ。」


その声に、妹のソフィアが胸に手を当てて目を輝かせる。


「わたしも、いつか……あんなふうに“だいすき”って言ってくれる人に出会いたいな!」


ティーナはその言葉にそっと微笑み、ソフィアの頭に手を乗せて優しく撫でていた。


「ソフィアなら、きっと出会えるよ。優しくて、強くて、かっこいい人に。」


ソフィアがくすぐったそうに笑いながら、ティーナの手に頬をすり寄せる。


そのぬくもりに触れたとき、ティーナの胸の奥に、静かな光が宿っていく。


「……わたしも、この手で、誰かとつながれる日が来るのかな……」


屋敷の外では、春の陽光が空いっぱいに広がっていた。

クラウスが公園の中の大きな木を見上げ、ぶっきらぼうに言う。


「ここにするぞ。」


マルレーネは嬉しそうに微笑み、そのまま当然のようにクラウスの膝に腰を下ろす。

ふたりは周囲の目も気にせず、まるで世界に二人しかいないかのように見つめ合っている。


その光景に、エドワードが苦笑を浮かべながら剣を構える。


「……見てらんねぇな……」


クラウスと母の愛情表現を横目に、彼は静かに剣の稽古を続けていた。

剣先が陽に照らされ、きらりとひときわ強く光っている。


木の根元では、ティーナとソフィアが花を摘んでいた。

ソフィアが満面の笑みで、ティーナの頭に花冠をのせる。


「かわいい!」


ティーナは少しだけ恥ずかしそうにうなずき、そっと言葉を返す。


「ありがとう。」


森の香り、池のきらめき、家族の穏やかな声。

そのすべてが、ティーナの胸にそっと染み込んでいく。


昼どき、公園の木陰では、家族が持ち寄ったバスケットを広げていた。

パン、果物、チーズ、そして母の手作りの焼き菓子までが、色とりどりに並んでいる。


「アーン」


マルレーネが笑いながらクラウスに差し出したパンを、クラウスは少し照れたように口にする。

それを見て、ソフィアが楽しそうに笑う。


「わたしにも“アーン”ってして!」


「お前には特別大サービスだ」


クラウスは豪快に笑いながら、ソフィアにチーズを差し出す。

ティーナも静かに笑みを浮かべ、家族のやりとりを温かな気持ちで見つめていた。


ユーモアと愛情が行き交う空の下、エドワードはただ一人、剣の素振りを続けている。

けれど、その背にただよう空気は、どこか柔らかい。

家族の笑い声を聞きながら、彼もまた、心のどこかで満ちていた。


午後になると、池の面をなでる風が涼しさを運んでくる。

クラウスがふと立ち上がり、池のほとりへ向かって言葉を投げる。


「釣りでもするか。」


マルレーネはぱっと笑顔を見せ、手を叩く。


「今日の晩御飯は、お魚ね? あなた、がんばってね」


「任せとけ」


クラウスは袖をまくり、釣り竿を構えて水辺に立つ。

すでに陽は少し傾き、池の水面は金色にきらめいていた。


「エドワードも、そろそろ休んで釣りでも……」


マルレーネの声に、エドワードは肩越しに微笑んで首を振る。


「俺はいいよ。今日は……まだ剣を振っていたいから」


その姿にマルレーネは目を細め、何も言わずに見守っている。


一方ソフィアは、草むらで四葉のクローバーを探していた。

泥がつくのを気にしていたはずなのに、夢中になっているらしく、手も膝もほんのり土色に染まっていた。


「わぁっ、釣れたぞ!」


クラウスの声が池に響く。

水しぶきとともに、竿の先には見事な大物が跳ね上がっていた。


「すごいわ、あなた!」


マルレーネが小さな歓声をあげ、弾むような足取りでクラウスに駆け寄る。

勢いよくその腕に飛び込み、喜びを全身で伝えていた。


その様子に引き寄せられるように、ソフィアもぱたぱたと走り寄ってくる。

目をまんまるにして、釣り上げられた魚をのぞきこんだ。


「きれいなおさかなさん……!」


水しぶきの余韻がまだ空中に漂うなか、

一方で侍女のベアトリスは、言葉も立てずに動き続けている。

後片付けに回り、兄エドワードの汗をぬぐうタオルを新しく取り換え、

家族の動きに影のように寄り添っていた。


その姿を目で追いながら、ティーナはそっと声をかける。


「ありがとう」


振り返ったベアトリスは、ほんのわずかにうなずきながら、いつものように短く応えた。


「私の役目ですから」


そのやりとりはとても小さく、けれど心に静かに沁みていく。


ティーナはふと顔を上げる。

笑い声が絶えず響く食卓、魚を囲む家族の輪、そばに寄り添う人たち。


その中心に自分がいることが、どこか不思議で、けれどとても、あたたかく感じられていた。


夕方。食卓には、釣り上げた魚がずらりと並んでいた。

焼き魚、フライ、蒸し物――母の手で丁寧に仕上げられた料理が、次々と皿に盛られていく。


「こんなに食べきれないよ……!」


誰かが笑いながらそう言っても、エドワードとクラウスは黙々と箸を進めていく。

やがてふたりは、最後の一皿を片づけて、椅子にもたれかかった。


「……もう食えねぇ……」


ふたりの重なった声に、食卓に笑いが広がっていく。


ティーナはフォークを持ちながら、食卓を囲む家族を見渡していた。

「おいしいね」と言い合う声が、どこまでも自然で、やさしく心に染み込んでくる。


その夜。

ティーナはベアトリスに髪をとかれながら、静かに言葉を落とす。


「ありがとう。」


「私の務めですから」


ベアトリスはいつもと変わらぬ口調で応じながらも、動きはどこかやさしかった。

二人の間に流れる沈黙は、心地よく穏やかだった。


ティーナは寝室の窓辺に立ち、星空を見上げる。


ひときわ明るい星が、夜の静けさのなかで瞬いている。

その光を胸に受けとめるように、ティーナは小さくつぶやいた。


「……誰も、壊さない。」


自分にそう言い聞かせるように、そっと目を閉じる。

胸の奥に、小さな決意が静かに灯っていた。


夜空の星々は、その決意に応えるように、やさしくまたたき続けている。


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