春のやわらかな光が、バルティネス男爵家の屋敷にそっと降り注いでいる。
質素な木の床と石の壁が、どこかあたたかい色に染まって見えた。
「お嬢様、朝食のお時間です。」
柔らかな声とともに、ベアトリスがティーナの肩を優しく揺らす。
ティーナはまぶたをゆっくりと開き、寝ぼけた声で返す。
「……うん……」
ベアトリスは手際よくブラシを取り、ティーナの金色の髪を丁寧にとかしていく。
鏡の中の自分と目が合うたび、ティーナはそっと心の奥でつぶやいていた。
――今日も、誰も傷つけずに過ごせますように。
支度を終えて階下に降りると、家族の声がやわらかく響いてくる。
ダイニングの椅子には、父のクラウス、母のマルレーネ、兄エドワード、妹ソフィアが、それぞれの席についていた。
朝食の時間は、穏やかな雑談と共に進んでいく。
パンの香りとスープの湯気が、家中を包んでいた。
食後、クラウスが背筋を正して言う。
「今日は、近くの公園に行くぞ。」
その一言に、場の空気がふっと変わった。
無骨な父が自ら“外出”を提案することなど、めったにない。
ティーナは小さく首をかしげながら、ふと気づく。
――今日は、両親の結婚記念日だ。
その瞬間、マルレーネが弾かれたようにクラウスに抱きつく。
頬に情熱的なキスを落とし、耳元で甘えるように囁いている。
「あなた、だいすき……」
クラウスは何も言わず、照れ隠しのようにマルレーネを抱きしめる。
無骨な表情に、わずかにやわらかな笑みが浮かんでいた。
それを見ていたエドワードが、苦々しい顔でぼそりとつぶやく。
「……子どもの前で、恥ずかしくないのかよ。」
その声に、妹のソフィアが胸に手を当てて目を輝かせる。
「わたしも、いつか……あんなふうに“だいすき”って言ってくれる人に出会いたいな!」
ティーナはその言葉にそっと微笑み、ソフィアの頭に手を乗せて優しく撫でていた。
「ソフィアなら、きっと出会えるよ。優しくて、強くて、かっこいい人に。」
ソフィアがくすぐったそうに笑いながら、ティーナの手に頬をすり寄せる。
そのぬくもりに触れたとき、ティーナの胸の奥に、静かな光が宿っていく。
「……わたしも、この手で、誰かとつながれる日が来るのかな……」
屋敷の外では、春の陽光が空いっぱいに広がっていた。
クラウスが公園の中の大きな木を見上げ、ぶっきらぼうに言う。
「ここにするぞ。」
マルレーネは嬉しそうに微笑み、そのまま当然のようにクラウスの膝に腰を下ろす。
ふたりは周囲の目も気にせず、まるで世界に二人しかいないかのように見つめ合っている。
その光景に、エドワードが苦笑を浮かべながら剣を構える。
「……見てらんねぇな……」
クラウスと母の愛情表現を横目に、彼は静かに剣の稽古を続けていた。
剣先が陽に照らされ、きらりとひときわ強く光っている。
木の根元では、ティーナとソフィアが花を摘んでいた。
ソフィアが満面の笑みで、ティーナの頭に花冠をのせる。
「かわいい!」
ティーナは少しだけ恥ずかしそうにうなずき、そっと言葉を返す。
「ありがとう。」
森の香り、池のきらめき、家族の穏やかな声。
そのすべてが、ティーナの胸にそっと染み込んでいく。
昼どき、公園の木陰では、家族が持ち寄ったバスケットを広げていた。
パン、果物、チーズ、そして母の手作りの焼き菓子までが、色とりどりに並んでいる。
「アーン」
マルレーネが笑いながらクラウスに差し出したパンを、クラウスは少し照れたように口にする。
それを見て、ソフィアが楽しそうに笑う。
「わたしにも“アーン”ってして!」
「お前には特別大サービスだ」
クラウスは豪快に笑いながら、ソフィアにチーズを差し出す。
ティーナも静かに笑みを浮かべ、家族のやりとりを温かな気持ちで見つめていた。
ユーモアと愛情が行き交う空の下、エドワードはただ一人、剣の素振りを続けている。
けれど、その背にただよう空気は、どこか柔らかい。
家族の笑い声を聞きながら、彼もまた、心のどこかで満ちていた。
午後になると、池の面をなでる風が涼しさを運んでくる。
クラウスがふと立ち上がり、池のほとりへ向かって言葉を投げる。
「釣りでもするか。」
マルレーネはぱっと笑顔を見せ、手を叩く。
「今日の晩御飯は、お魚ね? あなた、がんばってね」
「任せとけ」
クラウスは袖をまくり、釣り竿を構えて水辺に立つ。
すでに陽は少し傾き、池の水面は金色にきらめいていた。
「エドワードも、そろそろ休んで釣りでも……」
マルレーネの声に、エドワードは肩越しに微笑んで首を振る。
「俺はいいよ。今日は……まだ剣を振っていたいから」
その姿にマルレーネは目を細め、何も言わずに見守っている。
一方ソフィアは、草むらで四葉のクローバーを探していた。
泥がつくのを気にしていたはずなのに、夢中になっているらしく、手も膝もほんのり土色に染まっていた。
「わぁっ、釣れたぞ!」
クラウスの声が池に響く。
水しぶきとともに、竿の先には見事な大物が跳ね上がっていた。
「すごいわ、あなた!」
マルレーネが小さな歓声をあげ、弾むような足取りでクラウスに駆け寄る。
勢いよくその腕に飛び込み、喜びを全身で伝えていた。
その様子に引き寄せられるように、ソフィアもぱたぱたと走り寄ってくる。
目をまんまるにして、釣り上げられた魚をのぞきこんだ。
「きれいなおさかなさん……!」
水しぶきの余韻がまだ空中に漂うなか、
一方で侍女のベアトリスは、言葉も立てずに動き続けている。
後片付けに回り、兄エドワードの汗をぬぐうタオルを新しく取り換え、
家族の動きに影のように寄り添っていた。
その姿を目で追いながら、ティーナはそっと声をかける。
「ありがとう」
振り返ったベアトリスは、ほんのわずかにうなずきながら、いつものように短く応えた。
「私の役目ですから」
そのやりとりはとても小さく、けれど心に静かに沁みていく。
ティーナはふと顔を上げる。
笑い声が絶えず響く食卓、魚を囲む家族の輪、そばに寄り添う人たち。
その中心に自分がいることが、どこか不思議で、けれどとても、あたたかく感じられていた。
夕方。食卓には、釣り上げた魚がずらりと並んでいた。
焼き魚、フライ、蒸し物――母の手で丁寧に仕上げられた料理が、次々と皿に盛られていく。
「こんなに食べきれないよ……!」
誰かが笑いながらそう言っても、エドワードとクラウスは黙々と箸を進めていく。
やがてふたりは、最後の一皿を片づけて、椅子にもたれかかった。
「……もう食えねぇ……」
ふたりの重なった声に、食卓に笑いが広がっていく。
ティーナはフォークを持ちながら、食卓を囲む家族を見渡していた。
「おいしいね」と言い合う声が、どこまでも自然で、やさしく心に染み込んでくる。
その夜。
ティーナはベアトリスに髪をとかれながら、静かに言葉を落とす。
「ありがとう。」
「私の務めですから」
ベアトリスはいつもと変わらぬ口調で応じながらも、動きはどこかやさしかった。
二人の間に流れる沈黙は、心地よく穏やかだった。
ティーナは寝室の窓辺に立ち、星空を見上げる。
ひときわ明るい星が、夜の静けさのなかで瞬いている。
その光を胸に受けとめるように、ティーナは小さくつぶやいた。
「……誰も、壊さない。」
自分にそう言い聞かせるように、そっと目を閉じる。
胸の奥に、小さな決意が静かに灯っていた。
夜空の星々は、その決意に応えるように、やさしくまたたき続けている。