ティーナは、その朝、いつもより早く目を覚ましていた。
カーテンの隙間から差し込む陽の光が、部屋の輪郭をゆっくりと照らし出していく。
侍女のベアトリスが何も言わずに現れ、すぐに身支度の支度を始めていた。
鏡の前に座ったティーナは、落ち着かない手つきでリボンを触っては整え、また触り直している。
髪の跳ね具合を確かめながら、小さく息を吐く。
普段はこんなに鏡をのぞき込むことなどなかったのに──今日は違っていた。
ベアトリスは、そのそわそわとした様子に気づいている。
それでも何も聞かず、手際よくブラシを滑らせ、最後に淡いピンクのリボンを丁寧に結んだ。
そして、ティーナの肩に軽く手を置く。
「美しく仕上がりました」
その言葉に、ティーナの頬がわずかに色づく。
目を伏せて、小さくうなずいた。
──今日は、ドンパッチくんが登校してくる日。
力の暴走は、今はすっかり落ち着いていた。
けれど、胸の奥には別のざわめきが潜んでいる。
言葉にはならない想いが、遠くで波のように揺れている気がした。
ティーナは一礼して部屋を出る。
背筋を伸ばし、足取りも整えて、屋敷の門をくぐっていく。
*
教室に到着したとき、クラスの子たちの笑い声や挨拶が飛び交っていた。
陽射しは白く広がり、カーテンの影が床をなぞっている。
ティーナは一呼吸置いてから教室に入った。
そして、すぐに彼の姿を見つけた。
──ドンパッチくん。
もう席に着いていた。
ティーナの胸がかすかに高鳴る。
けれど顔には出さず、足を止めることなく彼に声をかけた。
「ドンパッチ君、おはようございます」
その声に反応するように、彼が顔を上げる。
「おはよう、ティーナさん……」
どこか遠慮がちで、少しだけ疲れたような声。
けれど、ティーナはうれしそうに笑って、隣の席に歩いていく。
リボンがふわりと揺れた。
彼──本当はアルヴァン王子であるドンパッチは、胸の内で思いを巡らせていた。
この少女の持つ“力”と、どう向き合うべきか。
どれだけ時をかけても、答えは見つからなかった。
けれど今──ティーナを見ているだけで、すべての疑問が遠のいていく。
笑顔に満ちた横顔、髪に結ばれたリボン、指先の動き──どれもが眩しく映る。
「きのうね、お父さんが大きなお魚を釣ったの」
「池のそばにお花が咲いてて、ソフィアが髪に飾ってくれたの」
ティーナが弾む声で語る。
家族のこと、日常のこと。
ひとつひとつが嬉しそうで、聞いているこちらまで心がやわらかくなっていく。
ドンパッチも、穏やかな調子で応じる。
言葉の端々に、どこか安堵の色が混じっていた。
教室の後方では、複数の生徒がちらちらと様子をうかがっている。
聞こえてくるのは、ため息まじりのささやき声。
「いいなぁ……」
「なんか、あれって……両想いだよね」
「私もあんなふうに話したい……」
エレオノーラが後ろからティーナに寄りかかるように言う。
「ドンパッチ君だけじゃなくて、私たちとも話してよ!」
ミーナとクラリスも笑いながら手を振ってきた。
ティーナはきょとんとした顔で首を傾ける。
──いつの間に、自分ばかりがドンパッチ君と話していたのだろう?
次の瞬間には、ティーナは皆と笑いながら話し始める。
教室の空気は、やわらかく、あたたかく流れていく。
だが──
その頃、別の場所で、誰にも気づかれず、ある“気配”がゆっくりと動き出していた。
ざわつきは、廊下の向こうからわずかに届いてきた。
ティーナは話の途中でふと耳を傾け、視線を扉のほうに向ける。
何人かの生徒も同じように顔を上げ、ひそひそと声を交わしていた。
「倉庫に先生が……?」
「閉じ込められたって、ほんと?」
ティーナが小さくまばたきすると、ドンパッチ──アルヴァン王子は、もう立ち上がっていた。
教室を横切り、誰よりも早く廊下に出ていく。
白い制服の裾が揺れ、その背中が一度も振り返ることなく遠ざかっていく。
ティーナは席に座ったまま、そっと目で追っていた。
*
校舎の奥、普段はほとんど人が近づかない美術倉庫。
重厚な鉄の扉の前では、数人の教師たちが立ち尽くしていた。
中からかすかに声がするが、扉はびくともしない。
その中央に立っているのは、アルヴァン王子だった。
腕を組み、扉を見据える表情に迷いはなかった。
「ティーナさんを──呼んできてください」
そう、彼はただ一言だけ告げた。
周囲の教師たちは、一瞬戸惑いながらも、その命令に逆らうことはできなかった。
ひとりの若い教師が足早に教室へと向かう。
やがて──ティーナが廊下の先から現れた。
ゆっくりと近づいてくる彼女に、誰もが一瞬だけ視線を送る。
けれど、彼女はまっすぐ王子の前まで歩み、軽く会釈をした。
「先生が、中に……?」
王子はうなずく。
「ええ。あなたに頼みたい。……この扉を、開けられますか?」
ティーナはすぐには答えず、扉を見つめた。
そして、両手をそっと扉に添えたまま、小さくうなずく。
「……やってみます」
教職員たちが息をのんで見守るなか、ティーナは両の手にわずかに力を込める。
鉄の扉が重く、鈍い音を立てる。
ギギギ──という音がゆっくりと響いていく。
やがて、ずしりと閉ざされていた扉が押し開かれ、中から空気が吐き出されるように流れ出す。
「……助かった……」
中にいた教師が現れ、目を細めながらあたりを見回し、王子の姿に目を見張った。
けれど次の瞬間には、救出された安堵が表情に広がっていく。
王子はその様子を確認すると、振り返ってティーナに語りかける。
「ありがとう。……今日のことは、誰にも言わないでください」
ティーナは深く礼を返す。
そして、何も言わずに歩き出す。
その背中は小さいながらもまっすぐに伸び、足取りは乱れていない。
──この子は、誰よりも、秘密を守ることの意味を知っている。
王子は、残された扉を見つめる。
その鋼の厚みではない、別の重みが胸の奥で揺れていた。
*
ティーナが教室に戻ると、先ほどまでのざわめきはすでに収まり、皆が席に戻っていた。
彼女は何事もなかったかのように、椅子に腰を下ろす。
ドンパッチくんも、何も聞かず、ただ穏やかに目を伏せていた。
ふたりの間に会話はなくても、そこには確かに、共通の記憶が流れていた。
誰にも知られない、小さな秘密。
けれど、その小さな“共有”が、どんな言葉よりもふたりの距離を近づけていた。
*
窓の外には、春の光がまたひとつ、教室の床に差し込んでいた。
新しい一日が、静かに続いていく。
だが──その中にはもう、以前とは少しだけ違う色が混ざっていた。