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第26話

ティーナは、その朝、いつもより早く目を覚ましていた。

カーテンの隙間から差し込む陽の光が、部屋の輪郭をゆっくりと照らし出していく。

侍女のベアトリスが何も言わずに現れ、すぐに身支度の支度を始めていた。


鏡の前に座ったティーナは、落ち着かない手つきでリボンを触っては整え、また触り直している。

髪の跳ね具合を確かめながら、小さく息を吐く。

普段はこんなに鏡をのぞき込むことなどなかったのに──今日は違っていた。


ベアトリスは、そのそわそわとした様子に気づいている。

それでも何も聞かず、手際よくブラシを滑らせ、最後に淡いピンクのリボンを丁寧に結んだ。

そして、ティーナの肩に軽く手を置く。


「美しく仕上がりました」


その言葉に、ティーナの頬がわずかに色づく。

目を伏せて、小さくうなずいた。


──今日は、ドンパッチくんが登校してくる日。


力の暴走は、今はすっかり落ち着いていた。

けれど、胸の奥には別のざわめきが潜んでいる。

言葉にはならない想いが、遠くで波のように揺れている気がした。


ティーナは一礼して部屋を出る。

背筋を伸ばし、足取りも整えて、屋敷の門をくぐっていく。



教室に到着したとき、クラスの子たちの笑い声や挨拶が飛び交っていた。

陽射しは白く広がり、カーテンの影が床をなぞっている。


ティーナは一呼吸置いてから教室に入った。

そして、すぐに彼の姿を見つけた。


──ドンパッチくん。

もう席に着いていた。


ティーナの胸がかすかに高鳴る。

けれど顔には出さず、足を止めることなく彼に声をかけた。


「ドンパッチ君、おはようございます」


その声に反応するように、彼が顔を上げる。


「おはよう、ティーナさん……」


どこか遠慮がちで、少しだけ疲れたような声。

けれど、ティーナはうれしそうに笑って、隣の席に歩いていく。

リボンがふわりと揺れた。


彼──本当はアルヴァン王子であるドンパッチは、胸の内で思いを巡らせていた。

この少女の持つ“力”と、どう向き合うべきか。

どれだけ時をかけても、答えは見つからなかった。


けれど今──ティーナを見ているだけで、すべての疑問が遠のいていく。

笑顔に満ちた横顔、髪に結ばれたリボン、指先の動き──どれもが眩しく映る。


「きのうね、お父さんが大きなお魚を釣ったの」

「池のそばにお花が咲いてて、ソフィアが髪に飾ってくれたの」


ティーナが弾む声で語る。

家族のこと、日常のこと。

ひとつひとつが嬉しそうで、聞いているこちらまで心がやわらかくなっていく。


ドンパッチも、穏やかな調子で応じる。

言葉の端々に、どこか安堵の色が混じっていた。


教室の後方では、複数の生徒がちらちらと様子をうかがっている。

聞こえてくるのは、ため息まじりのささやき声。


「いいなぁ……」

「なんか、あれって……両想いだよね」

「私もあんなふうに話したい……」


エレオノーラが後ろからティーナに寄りかかるように言う。


「ドンパッチ君だけじゃなくて、私たちとも話してよ!」


ミーナとクラリスも笑いながら手を振ってきた。


ティーナはきょとんとした顔で首を傾ける。


──いつの間に、自分ばかりがドンパッチ君と話していたのだろう?


次の瞬間には、ティーナは皆と笑いながら話し始める。

教室の空気は、やわらかく、あたたかく流れていく。


だが──


その頃、別の場所で、誰にも気づかれず、ある“気配”がゆっくりと動き出していた。


ざわつきは、廊下の向こうからわずかに届いてきた。

ティーナは話の途中でふと耳を傾け、視線を扉のほうに向ける。

何人かの生徒も同じように顔を上げ、ひそひそと声を交わしていた。


「倉庫に先生が……?」

「閉じ込められたって、ほんと?」


ティーナが小さくまばたきすると、ドンパッチ──アルヴァン王子は、もう立ち上がっていた。

教室を横切り、誰よりも早く廊下に出ていく。


白い制服の裾が揺れ、その背中が一度も振り返ることなく遠ざかっていく。

ティーナは席に座ったまま、そっと目で追っていた。



校舎の奥、普段はほとんど人が近づかない美術倉庫。

重厚な鉄の扉の前では、数人の教師たちが立ち尽くしていた。

中からかすかに声がするが、扉はびくともしない。


その中央に立っているのは、アルヴァン王子だった。

腕を組み、扉を見据える表情に迷いはなかった。


「ティーナさんを──呼んできてください」

そう、彼はただ一言だけ告げた。


周囲の教師たちは、一瞬戸惑いながらも、その命令に逆らうことはできなかった。

ひとりの若い教師が足早に教室へと向かう。


やがて──ティーナが廊下の先から現れた。

ゆっくりと近づいてくる彼女に、誰もが一瞬だけ視線を送る。

けれど、彼女はまっすぐ王子の前まで歩み、軽く会釈をした。


「先生が、中に……?」


王子はうなずく。

「ええ。あなたに頼みたい。……この扉を、開けられますか?」


ティーナはすぐには答えず、扉を見つめた。

そして、両手をそっと扉に添えたまま、小さくうなずく。


「……やってみます」


教職員たちが息をのんで見守るなか、ティーナは両の手にわずかに力を込める。

鉄の扉が重く、鈍い音を立てる。

ギギギ──という音がゆっくりと響いていく。


やがて、ずしりと閉ざされていた扉が押し開かれ、中から空気が吐き出されるように流れ出す。


「……助かった……」


中にいた教師が現れ、目を細めながらあたりを見回し、王子の姿に目を見張った。

けれど次の瞬間には、救出された安堵が表情に広がっていく。


王子はその様子を確認すると、振り返ってティーナに語りかける。


「ありがとう。……今日のことは、誰にも言わないでください」


ティーナは深く礼を返す。

そして、何も言わずに歩き出す。

その背中は小さいながらもまっすぐに伸び、足取りは乱れていない。


──この子は、誰よりも、秘密を守ることの意味を知っている。


王子は、残された扉を見つめる。

その鋼の厚みではない、別の重みが胸の奥で揺れていた。



ティーナが教室に戻ると、先ほどまでのざわめきはすでに収まり、皆が席に戻っていた。

彼女は何事もなかったかのように、椅子に腰を下ろす。


ドンパッチくんも、何も聞かず、ただ穏やかに目を伏せていた。

ふたりの間に会話はなくても、そこには確かに、共通の記憶が流れていた。


誰にも知られない、小さな秘密。

けれど、その小さな“共有”が、どんな言葉よりもふたりの距離を近づけていた。



窓の外には、春の光がまたひとつ、教室の床に差し込んでいた。

新しい一日が、静かに続いていく。

だが──その中にはもう、以前とは少しだけ違う色が混ざっていた。


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