王子アルヴァンは、天井を見上げて叫んでいた。
「うおおおお……! どうすりゃいいんだ!」
壁に反響する自分の声が、やけに間抜けに響いてくる。絹のような金髪も、すっかりぐしゃぐしゃだ。
「ティーナとは仲良くなれた……でも、あの子は男爵家の娘だぞ? 前例なんて、どこにもない!」
枕元の書類を手当たり次第にめくってみても、どの家系図にも“王家と男爵家の婚約”なんて一例も見つからない。
そして、手を止めて呟く。「爵位を上げるには……国への貢献が必要だ」
浮かぶ方法はただひとつ。ティーナの力を使い、国に何かしらの恩恵をもたらすこと。
だけど、それは彼女の力を世にさらすことでもあり、危険に巻き込むことも意味している。その想像が胸の奥をじわりと締めつけていく。
いくら考えても、アルヴァンにはほかの道が見つからない。
やがて、力尽きたようにベッドに倒れ込み、意識がそのまま深い闇の底へ沈んでいく。
*
翌朝、窓から差し込む陽射しで目を覚ます。
「寝てしまっていたか……」と、小さな声が漏れる。髪はまだ乱れたままだ。
ふいに何かを思い出し、ばっと目を見開く。
気がつけば、また声を張り上げていた。
「うおおおお……! どうすりゃいいんだ!」
「ティーナの気持ちを聞いていない!」
「うっ、それが先だろう……!」
両手で金髪をぐしゃぐしゃにかき乱し、ベッドの上で回転している。
*
一方で、ティーナは寝室の薄明かりの中で、ある確信へたどり着いている。
──ドンパッチ君と、アルヴァン王子は同じ人だ。
倉庫の前で教師たちを率いていたあの澄んだ青い瞳。
ドンパッチ君と同じその瞳に、ティーナはもう疑いを持っていない。
さらに、教室に戻ってきたドンパッチ君からは、土の香りではなく、あのとき感じた華やかな香りがふんわりと漂っている。
それから、もうひとつ──
胸の奥にそっと手を置き、ティーナは静かに自覚している。
──わたし、ドンパッチ君のことが、好きだ。
それはつまり、アルヴァン王子を好きになっていた、ということでもある。
ふわりと胸の奥が熱くなる。
でも同時に、どこか遠く引き離されていくような切なさも広がっていく。
「王子様だったんだ……わたしとは違う世界の人……」
枕に顔をうずめ、小さく首をかしげる。
「でも……なんで、王子様がドンパッチ君の格好をしてるんだろう……?」
そんな疑問も浮かぶけれど、やっぱりティーナはどこまでも天然だった。
気持ちを切り替え、そっと心に語りかける。
──わたしは、何も壊さない。それだけは、がんばる。
そう心に決めて、ティーナもゆっくりと眠りへ溶けていく。
*
翌朝、教室に入ると、ドンパッチ君はすでに席についている。
「おはようございます」と声をかけようとしたティーナだけれど、言葉が喉の奥で止まる。
顔がふわりと熱くなり、胸の奥が高鳴る。
目を逸らしながら、そっと自分の席に腰を下ろした。
ドンパッチ君も、どこかいつもと違う。
小さな声で何かをぶつぶつ呟いていて、ティーナが隣に座ったことにも気づいていないようだった。
「……ティーナは、どう思っている……」
「もし、嫌いと言われたら……」
「むりだ、言えない……」
ドンパッチ君──アルヴァン王子の頭の中は、どう切り出せばよいか分からず真っ白になっている。
恋愛に関しては、誰よりも純粋で、不器用なままだ。
二人は隣同士に座ったまま、言葉もなく、緊張のあまりただ前だけを見つめている。
*
教室の後ろでは、エレオノーラ、ミーナ、クラリスの三人が様子を見守っている。
ティーナは下を向いて席につき、ドンパッチ君もぶつぶつと何かを呟きながら、二人でじっと前を見ている。
エレオノーラは、くすっと微笑む。「ティーナ、やっと気づいたのかな」
ミーナが元気よく頷き、「うん、ふたりとも、ちょっと顔赤いよね!」
クラリスも筆を置いて微笑み、「このままうまくいくといいね……」
三人の視線には、からかいや冷やかしではなく、純粋な期待と温かさがこもっている。
仲間の想いが芽生える、その瞬間を応援するように、ふたりの背中を見つめている。
しばらく三人は様子をうかがっていたが、二人の間に何の進展も見られない。
エレオノーラはため息をつきながら、ティーナの背後に回り込む。そして、ふわりと抱きついて、からかうような声をささやく。
「……ティーナ、顔が真っ赤よ? どうしたの?」
「そ、そんなことないです……っ」
ティーナは懸命に否定するけれど、その声には戸惑いが滲んでいる。
エレオノーラはおもしろそうに笑みを浮かべ、首をかしげて問いかける。
「じゃあ、今日はドンパッチ君と全然話してないのは……どうして?」
ティーナは「べ、べつに……」と言いかけて、言葉を飲み込み、黙り込んだ。
ミーナがぱっと手を叩き、声を弾ませる。
「もしかして、ケンカしたとか?」
ティーナは驚いたように首を大きく横に振る。
「そんなことありません……ドンパッチ君とケンカなんか、絶対しません!」
その真剣な声に、クラリスはそっと微笑み、やわらかな声で尋ねる。
「じゃあ、どうして話しかけなかったの?」
三人のまなざしがティーナに集まる。
ティーナは息をのむように視線を落とし、黙り込む。頬はまだ赤いまま、唇はきゅっと結ばれている。
胸の奥では、まだ形にならない想いがかすかに揺れている。
それでも、三人の目には変わらぬあたたかさが宿っていて、やさしくティーナの背中を見守り続けている。
*
そんなやり取りは、教室のざわめきの中でも、ドンパッチ──アルヴァン王子の耳にきちんと届いていた。
ティーナが「絶対にケンカなんかしません」と言った瞬間、ドンパッチの手がふと止まる。
……嫌われてはいない?
ティーナの揺れた声。赤く染まった頬。「べつに」と言いかけて詰まった様子。
──もしかして……好意?
その考えが浮かんだ瞬間、アルヴァン王子は自分の頬が熱くなっていくのを感じている。
「……え? まさか……そういうこと?」
小さく呟いたその声には、戸惑いと驚きが混じる。
けれど、その奥で少しずつ確かな勇気が灯りはじめている。
*
そしてその瞬間、アルヴァン王子は──しっかりと、覚悟を決めていく。
放課後、もしふたりきりになれたなら、そのときこそ自分の言葉で気持ちを伝えよう。
ティーナの優しさも、強さも、あの笑顔も。どれだけ大切に想っているかを偽りなく伝えたい。
それは王子としての責任ではない。ただ一人の青年としての、まっすぐな想い。
放課後のチャイムが鳴り、教室では誰もふたりの心に気づかぬまま、帰り支度が進んでいく。
窓の外には、沈みかけた太陽が雲を焼き、真っ赤な夕焼けが空いっぱいに広がっていた。