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第29話

王宮の白い回廊を、アルヴァン王子は静かに歩いている。

絹の外套が歩みに合わせてかすかに揺れ、磨き上げられた石床に革靴の音が淡く響いていく。

その背中には、ひとつの決意がしっかりと刻まれていた。


ふいに、小さな影が王子の横に寄り添う。

「お兄様、わたくしの部屋で一緒におやつを食べましょう?」

ファリーナが柔らかな声で手を引いてくる。


だがアルヴァン王子は、歩みを止めない。

「今は少し忙しい。また今度にしよう」

その返事に、ファリーナは小さく頬を膨らませている。


「……お兄様、なんだか変。あんな怖い顔、初めて見たわ」

ファリーナは、手を引くのをやめて、心配そうに兄の背中を見つめている。


王の私室が見えてくると、アルヴァン王子は一瞬だけ立ち止まる。

重厚な扉の前で、自分の頬をぱちんと叩き、しっかりと跡を残す。その動作を見て、扉の前の近衛兵が小さく目を丸くしている。


「……行くぞ」

気持ちを奮い立たせるように呟き、木製の重い扉を押し開ける。


広い王の私室では、国王と王妃が窓辺の椅子に並んで座っている。

午後の陽光が差し込み、紅茶の香りがふんわりと部屋に広がっている。


扉の音に気づいた国王が、ゆっくりと視線を上げた。

「……アルヴァン、どうした」

穏やかな声音に包まれて、アルヴァン王子はまっすぐ歩みを進める。


王妃は、王子の頬にうっすらと残った手の跡を見つけて、目を細めている。

「まあ……どんな子なのかしら」

心の中でそっと微笑むように思いをめぐらせている。


国王は、威厳を帯びた低い声で尋ねる。

「お前……その頬は、どうした」

その問いかけに、王子は一言も返さず、静かに深く一礼をする。

背筋を伸ばし、最敬礼の姿勢で沈黙を保っている。


しばらくの間、誰も声を発しない静寂が流れる。


やがて、王子がそのままの姿勢で口を開く。

「婚約をしたい女性ができました」


その一言に、国王の目が驚きで大きく見開かれる。

「ほう……お前が? 女性には興味がないと思っていたがな」


アルヴァン王子は、顔を上げて静かに答えている。

「はい。バルティネス家のティーナと申します。十六歳です」


王子の声は揺るがず、部屋の空気をぴんと張りつめさせていく。

王妃は、そっと王子と国王のやり取りを見守っている。


国王はゆっくりと目を細め、重々しく名を繰り返している。

「バルティネス……聞かぬ名だな。──執事、知らぬか」


呼ばれた執事が眉をひそめて記憶をたどっている。やがて何かを思い出したように小さく頷いた。

「たしか……十年ほど前、他国との戦争で“鬼神”と呼ばれた人物がいたかと。陛下も、その戦を視察されておられましたね」


その言葉に、国王はほんのりと懐かしげな微笑みを浮かべている。

「……あやつか。あやつの戦いがなければ、あの戦はどうなっていたか分からぬ。ふむ、なるほどな」


執事がさらに一歩前に出て、静かに補足する。

「確か、男爵家でございます」


その瞬間、国王の表情がぐっと険しさを増し、王妃も驚いたように目を見張っている。


「アルヴァン、その者は本当に男爵家の娘なのか?」


低く重い声が部屋を満たしていくが、王子は動じない。

最敬礼のまま、しっかりとした声で答えている。


「はい!」


その力強い一声が空気を震わせ、誰もが思わず息を呑んでいる。


国王は短い沈黙のあと、声を冷たく落とした。

「もうよい。その話は終わりだ。……王子の教育係を、すぐにここへ呼べ」


それでもアルヴァンは動かない。

最敬礼の姿勢のまま、頑として沈黙を守っている。


「アルヴァン、わしの命が聞けぬのか。下がれ!」


国王の怒声が響くが、王子の足はまったく動かない。


やむなく国王が静かに命じる。

「近衛隊長、連れ出せ」


隊長が一歩踏み出すが、王子は根を下ろしたように動かず、その眼差しに強い意志が宿っている。

近衛隊長も、王子に対する不敬を恐れて立ちすくんでいる。


「……一度だけでも、お会いください」


王子は深く頭を垂れたまま、静かに、けれど決して揺るがぬ声で訴えている。

最敬礼のまま、王の視線をしっかりと受け止めている。


国王もまた、息子の真剣な目から決して目をそらさず、静かな睨み合いが続いている。


長い沈黙ののち、王妃がやわらかく口を開く。

「この子の意志は変わりません。あなたと同じで、一度決めたら引かない性分ですから」


その穏やかな声には、苦笑と理解がにじんでいる。

「たとえ男爵家でも、“英雄”と呼ばれた方の娘です。一目会われるのも、悪くはないのでは?」


国王はゆっくりと考え、やがて小さく頷いた。

「……そうか。うむ、それもそうだな。──よし、一目だけなら会おう」


王子は頭を上げ、心からの感謝を込めて深く一礼する。その動きに王妃も静かに目を細めている。


部屋を出る王子の背には、決意の色がより濃く刻まれている。


国王はふと微笑み、ぽつりとつぶやく。

「……わしの命に逆らったのは、初めてだな」


ノアティス王は、息子の意志をじっと見つめながら、その成長を静かに受け止めている。


王妃も、懐かしむような笑みで返している。

「ええ、そうですね」


その後、ふたりは静かに語り合っている。

王子アルヴァンの幼い日の思い出を、遠い春の記憶のように温かく思い返しながら――。


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