王宮の白い回廊を、アルヴァン王子は静かに歩いている。
絹の外套が歩みに合わせてかすかに揺れ、磨き上げられた石床に革靴の音が淡く響いていく。
その背中には、ひとつの決意がしっかりと刻まれていた。
ふいに、小さな影が王子の横に寄り添う。
「お兄様、わたくしの部屋で一緒におやつを食べましょう?」
ファリーナが柔らかな声で手を引いてくる。
だがアルヴァン王子は、歩みを止めない。
「今は少し忙しい。また今度にしよう」
その返事に、ファリーナは小さく頬を膨らませている。
「……お兄様、なんだか変。あんな怖い顔、初めて見たわ」
ファリーナは、手を引くのをやめて、心配そうに兄の背中を見つめている。
王の私室が見えてくると、アルヴァン王子は一瞬だけ立ち止まる。
重厚な扉の前で、自分の頬をぱちんと叩き、しっかりと跡を残す。その動作を見て、扉の前の近衛兵が小さく目を丸くしている。
「……行くぞ」
気持ちを奮い立たせるように呟き、木製の重い扉を押し開ける。
広い王の私室では、国王と王妃が窓辺の椅子に並んで座っている。
午後の陽光が差し込み、紅茶の香りがふんわりと部屋に広がっている。
扉の音に気づいた国王が、ゆっくりと視線を上げた。
「……アルヴァン、どうした」
穏やかな声音に包まれて、アルヴァン王子はまっすぐ歩みを進める。
王妃は、王子の頬にうっすらと残った手の跡を見つけて、目を細めている。
「まあ……どんな子なのかしら」
心の中でそっと微笑むように思いをめぐらせている。
国王は、威厳を帯びた低い声で尋ねる。
「お前……その頬は、どうした」
その問いかけに、王子は一言も返さず、静かに深く一礼をする。
背筋を伸ばし、最敬礼の姿勢で沈黙を保っている。
しばらくの間、誰も声を発しない静寂が流れる。
やがて、王子がそのままの姿勢で口を開く。
「婚約をしたい女性ができました」
その一言に、国王の目が驚きで大きく見開かれる。
「ほう……お前が? 女性には興味がないと思っていたがな」
アルヴァン王子は、顔を上げて静かに答えている。
「はい。バルティネス家のティーナと申します。十六歳です」
王子の声は揺るがず、部屋の空気をぴんと張りつめさせていく。
王妃は、そっと王子と国王のやり取りを見守っている。
国王はゆっくりと目を細め、重々しく名を繰り返している。
「バルティネス……聞かぬ名だな。──執事、知らぬか」
呼ばれた執事が眉をひそめて記憶をたどっている。やがて何かを思い出したように小さく頷いた。
「たしか……十年ほど前、他国との戦争で“鬼神”と呼ばれた人物がいたかと。陛下も、その戦を視察されておられましたね」
その言葉に、国王はほんのりと懐かしげな微笑みを浮かべている。
「……あやつか。あやつの戦いがなければ、あの戦はどうなっていたか分からぬ。ふむ、なるほどな」
執事がさらに一歩前に出て、静かに補足する。
「確か、男爵家でございます」
その瞬間、国王の表情がぐっと険しさを増し、王妃も驚いたように目を見張っている。
「アルヴァン、その者は本当に男爵家の娘なのか?」
低く重い声が部屋を満たしていくが、王子は動じない。
最敬礼のまま、しっかりとした声で答えている。
「はい!」
その力強い一声が空気を震わせ、誰もが思わず息を呑んでいる。
国王は短い沈黙のあと、声を冷たく落とした。
「もうよい。その話は終わりだ。……王子の教育係を、すぐにここへ呼べ」
それでもアルヴァンは動かない。
最敬礼の姿勢のまま、頑として沈黙を守っている。
「アルヴァン、わしの命が聞けぬのか。下がれ!」
国王の怒声が響くが、王子の足はまったく動かない。
やむなく国王が静かに命じる。
「近衛隊長、連れ出せ」
隊長が一歩踏み出すが、王子は根を下ろしたように動かず、その眼差しに強い意志が宿っている。
近衛隊長も、王子に対する不敬を恐れて立ちすくんでいる。
「……一度だけでも、お会いください」
王子は深く頭を垂れたまま、静かに、けれど決して揺るがぬ声で訴えている。
最敬礼のまま、王の視線をしっかりと受け止めている。
国王もまた、息子の真剣な目から決して目をそらさず、静かな睨み合いが続いている。
長い沈黙ののち、王妃がやわらかく口を開く。
「この子の意志は変わりません。あなたと同じで、一度決めたら引かない性分ですから」
その穏やかな声には、苦笑と理解がにじんでいる。
「たとえ男爵家でも、“英雄”と呼ばれた方の娘です。一目会われるのも、悪くはないのでは?」
国王はゆっくりと考え、やがて小さく頷いた。
「……そうか。うむ、それもそうだな。──よし、一目だけなら会おう」
王子は頭を上げ、心からの感謝を込めて深く一礼する。その動きに王妃も静かに目を細めている。
部屋を出る王子の背には、決意の色がより濃く刻まれている。
国王はふと微笑み、ぽつりとつぶやく。
「……わしの命に逆らったのは、初めてだな」
ノアティス王は、息子の意志をじっと見つめながら、その成長を静かに受け止めている。
王妃も、懐かしむような笑みで返している。
「ええ、そうですね」
その後、ふたりは静かに語り合っている。
王子アルヴァンの幼い日の思い出を、遠い春の記憶のように温かく思い返しながら――。