この話は、ティーナの父であるクラウスと、母マルレーネの物語です。全19話続きますので、興味のない方は本編の方をご覧ください。
雲は低く垂れこめ、風は重たく湿気を帯びていた。小国の城都を覆うその空は、この国の行く末そのものを思わせる。
城壁の高所に立つ若き将軍クラウスは、遠く揺らめく陽炎の向こうに複数の敵旗を見つめていた。敵軍十万――その規模は都市全体に影を落とし、対する味方は一割にも満たない。だが誰一人「降伏」とは口にしなかった。
重い扉の軋みとともに伝令が現れる。「王が、将軍をお呼びです」
クラウスは遠くへ一度だけ視線を送り、静かにうなずいて階段を下りた。
城の廊下は張り詰めた空気に満ち、壁際の兵士たちも息を詰めている。謁見の間の奥、玉座には重い法衣の王、その隣に老将ガルストン。
クラウスは膝をつき、頭を垂れる。
王はしばらく将軍を見下ろし、重々しく問う。「クラウス。戦に関し、何か意見があると聞いた」
クラウスは顔を上げ、短く息を吸って答えた。「敵は圧倒的です。このまま正面から戦えば、民の命は守れません。陛下――降伏すべきです」
空気が凍る。王の眉が跳ね上がり、声が低く怒気を帯びた。「それでも将軍か。誇りを捨てて生きる道を選ぶか!」
クラウスは少しだけ視線を落とし、すぐ王を正面から見返す。「誇りで民を殺させるのは、誤りです。民あっての国です」
王は何も返さず、冷ややかな眼差しでクラウスを見つめる。
クラウスもそれ以上口を開かず、静かに礼をして退室した。
廊下に戻ると外からは馬のいななきや鍛冶場の音が微かに届く。軍務棟の地図の前ではガルストンが独り黙々と考え込んでいた。
クラウスはそっと歩み寄り、低い声で言う。「背水の陣を敷きましょう。南の断崖に一万を置けば、敵の先鋒は確実に誘導できます」
ガルストンは一瞬沈黙し、鼻で笑った。「断崖だと? 逃げ道を断って、全滅するだけではないか。若いな、クラウス」
「逃げ場があるから人は逃げます。退路を断つことで、兵は生きようとします」
ガルストンは小さく首を振る。「ふん……。私はな、死にたくないんだよ」
その目は地図から外れることなく、戦よりも生存を優先する計算をしていた。
日が沈み、城下に薄闇が落ちる。クラウスは静かに軍務棟を出て、旧部隊の兵たちを一人ひとり訪ねて回る。
「命の保証はできない。だが――逃げないで戦いたい者だけ、来てくれ」
やがて兵たちが集いはじめる。かつて同じ戦場で傷を負った者、若き将軍に希望を見た者――その数は三千に届こうとしていた。
夜明け前の空、濃い雲の隙間から一筋の光が差し込む。クラウスは目を細め、遠い地平に国の未来を思い描く。
旧部隊の面々が集うと、彼は一人ひとりの顔を見てゆっくり語りかけた。
「強制はしない。明日、教会の前で待つ。覚悟を決めた者だけ、来てほしい」
兵たちは静かにうなずき、すでに恐れも誇りも言葉を超えて積み重なっていた。
そのころ、王宮の謁見の間では老将ガルストンが王の前に進み出ていた。
顔には疲労と諦めの影。「陛下……将軍クラウスは、南の断崖に三千を集めています。背水の陣、命を捨てる覚悟でしょう」
王は重く沈黙し、ガルストンをじっと見つめた。「お前は、どうするつもりだ」
「私は……城に残ります。王都を死守するのが、今の私の戦いです」
王はただ静かにうなずき、地図の前に立ち尽くす。遠い過去を思い返すように目を閉じていた。
やがて夜が明け、南の教会にはクラウスのもとに集った三千の兵が整然と並ぶ。
誰もが言葉少なに、だが胸の奥に確かな意志を宿している。
クラウスは前に立ち、静かに声を上げた。
「ここで退けば、この国も、ここに集ったすべての命も失うだろう。だが、進めば未来をつなぐ橋になる。誰も強制しない。自分の意志で、共に立ってほしい」
兵たちは答えることなく、一斉に武器を構える。金属の音が朝の湿った空気を震わせる。
雲は断崖の空を低く覆い、湿った風が金属の匂いと共に戦場を吹き抜ける。
夜明けの薄闇、クラウスは馬上から谷を見下ろし、兵の数を胸に刻む。
「この数で十万に勝てと?」隣の副官が低くつぶやく。
クラウスは微かに笑った。「数だけが勝敗を決めるなら、歴史に名将はいない」「策がある。俺が合図したら、一度退け。谷へ敵を引き込む」
副官は顔をしかめる。「それで勝てるのですか」
「勝ちを信じた敵ほど、無警戒になる。相手の兵は確実に減らせる」
軍議で、全員に語る。「今日の我々は“見せかけの獲物”になる。だが、本当の獲物は奴らだ」
「将軍、俺たちは……」
「死ぬ覚悟なら、とっくに出来ている。生きて民を守れ、最後の一人まで」
朝日が滲み、敵軍の太鼓が戦場に鳴り響く。敵将は悠然と黒い大軍を波のように前進させてくる。
「突撃――!」
クラウスの叫びに兵たちが咆哮を上げて駆け出す。金属のぶつかる音、地響き、土埃。
敵の矢が雨のように降り注ぎ、クラウスは盾を掲げ、最前線で剣を振るう。
兵士たちが叫ぶ。「押し返されるぞ!」「まだ退くな、将軍がいる!」
しかし敵は数に任せて攻めて来る、次第に後退せざるを得なくなる。
「今だ、引け!」クラウスが叫ぶと、兵たちは命じられた通り、傷ついた仲間を支え合いながら谷の狭路へ退く。
敵将は嗤う。「小国の犬どもが、死に場所を選んだか!」
谷へ追い込まれた先鋭部隊に、敵軍は勝機と思い進軍を進めるが、道幅が狭まり、万の兵が押し合い、叫びがこだまする。
クラウスは最尾から手を上げる。「今だ、撃て――!」
崖の上、待ち構えていた伏兵が矢を一斉に射る。「伏兵だ!」「罠か――!」
敵の叫びが響き、続いて岩と油壺が投下される。火矢が谷に落ち、黒煙が舞い上がった。
敵は身動きが取れず、前も後ろも火と刃の海。
「ここだ、斬り込め!」クラウスは再び剣を抜き、敵将を見据えて再び先頭を駆けた。
「攻めろ!」「引くな!」「将軍の後ろに続け!!」