ドンパッチ──いや、王子アルヴァンは、お姫様抱っこのまま屋上へとティーナを運び終えると、ようやく地面に足を下ろしたティーナと向かい合い、無言のまま固まっていた。
右腕は中途半端に上がったまま、あの全力のガッツポーズの形を保っている。
その顔に浮かんでいたのは、何とも複雑な表情だった。
──「王子として名乗らずに告白してしまった」ことに気づいた瞬間の焦り。
──「王子として告白した」とティーナが知っていたという焦り。
──そして、「まさか廊下で……人前で……」という、やってしまった感の焦り。
そのあとは、王子アルヴァンとして──
ふたりは、ぎこちなくも想いを確かめ合った。
ティーナは、ずっと顔を赤くしたままだった。
翌朝、ティーナが教室へと向かう白い石畳の廊下には、すでにざわめきが広がっていた。
生徒たちは自然と道をあけ、その姿を静かに目で追う。
だが、ティーナは一切動じなかった。
背筋をまっすぐに伸ばし、静かな足取りで、注がれる視線の中を通り抜けていく。
その表情は、いつもと変わらず穏やかで整っていた。
声をかけられれば、軽く会釈し、尋ねられれば丁寧に答える。
誰にも浮ついた素振りを見せることはなかった。
教室に入ると、すぐにミーナ、クラリス、そしてエレオノーラの三人が駆け寄ってきた。
それぞれが、昨日起こったことについてあれこれと尋ねたが、ティーナは穏やかに微笑みながら、そっと首を横に振った。
「ドンパッチ君が来たら話してくれる」
そう言って、それ以上の言葉は控えた。
最初に声を上げたのはミーナだった。
身を乗り出すようにして、興奮ぎみに言う。
「ねえねえ、本当にお姫様抱っこされたの!? あれ、演技じゃなかったの?」
ティーナは少し顔を赤らめ、静かに首を横に振った。
「え、そんなことされた……ドンパッチ君が話してくれる」
続いてクラリスが、後ろからそっとティーナを抱きしめ、目を輝かせて聞いた。
「告白って、本気だったのよね? ドンパッチ君と本当に婚約するの!?」
ティーナは真っ赤になり、小さな声で答えた。
「……ドンパッチ君が話して……」
その様子を見た三人は、これ以上聞くのはかわいそうだと思い、話題を変えることにした。
休日、王子アルヴァンとティーナは、王都でも最も格式の高い婦人服店の前に立っていた。
外観からして気品に満ちたその店は、王族や上級貴族の令嬢しか足を踏み入れることがないような場所だった。
ティーナの後ろには、侍女のベアトリスが、凛とした立ち姿で控えていた。
王子は何も言わず扉を開き、ティーナに先を促した。
ティーナは少し不安そうにしながらも、礼儀正しく一礼し、中へと足を踏み入れる。
ベアトリスは迷いのない足取りで店内に進み、すぐさま店長に的確な指示を飛ばす。
従業員たちはその采配に従って動き、次々と洋服や装飾品を、ティーナを整えているベアトリスのもとへ運んでいった。
仕上げに、髪飾りをそっと添えたあと、ベアトリスは静かに一言告げた。
「美しく仕上がりました」
店員たちは、その見事な手際と仕上がりに、深く感服していた。
ティーナは、頬をわずかに染めながら、静かに歩みを進め、アルヴァンの前に姿を現す。
その瞬間──アルヴァンは完全に言葉を失っていた。
ゆるやかに流れる髪が光を受けて揺れ、細やかに装飾されたドレスが、彼女の姿をいっそう引き立てている。
清らかで、気高く、それでいて眩しいほどに愛らしい。
しばしの沈黙ののち、ようやく彼は小さく頭をかき、苦笑を浮かべながら呟いた。
「……ごめん。あまりにも美しすぎて、声が出なかったんだ」
ティーナの頬は一気に紅潮し、視線を逸らしながらも、そっとうなずいていた。
侍女ベアトリスは、王子に一礼すると、一言も発さず、そのまま影のように静かに控えていた。
王宮の正門前──豪華な馬車が停まる。
ベアトリスが音も立てずに馬車から降りると、ドレスが乱れぬよう気を配りながら、ティーナを静かに馬車から降ろした。
そして、そのままアルヴァン王子の元へと導いていく。周囲の護衛兵たちも、侯爵家の侍女と見紛うほどの所作に目を見張った。
王子アルヴァンは、普段よりも格式高い礼装に身を包んでいた。
その顔には満面の笑みが浮かび、誇らしげにティーナをエスコートしていく。
ティーナは恥じらいで頬を染めていたが、侯爵令嬢のような品格を漂わせながら、王子の隣に自然と寄り添っていた。
王子とティーナは、まるで皆の祝福を受けているかのように、ゆるやかに歩を進めていく。
王の私室までの回廊を、あえてゆっくりと歩いていた。
すれ違う者たちに、ティーナは一人ひとり丁寧に礼を欠かさなかった。
凛とした姿勢、美しい振る舞い──王子の傍らにあるその姿は、すでに「未来の妃」として誰の目にも映っていた。
──これは、王子が仕掛けた既成事実の布石である。
ティーナは、いつものように力を抑えようとしていた。
けれど──ドンパッチ君、いや、アルヴァンから愛の言葉を告げられ、自らそれを受け入れた瞬間。
あふれかけていた力の衝動は、すうっと鎮まっていた。
別の衝動──胸を満たす、甘く熱い想いに、静かに上書きされていた。
王の私室に至る頃には、王子が“婚約者を伴って歩いていた”という噂は、すでに王宮中を駆け巡っていた。
侍従たちは顔を見合わせ、女官たちは小声で囁き合っている。
「お姿をご覧になりました? あの立ち振る舞い……ただ者ではありませんわ」
「気品にあふれていて、それでいて愛らしさまで……まさか、あの方が……」
誰もが口を揃えて言った。
──さすがは、王子が選んだ相手。
王の私室の扉が、ゆっくりと開かれようとしていた。
アルヴァン王子とティーナは、静かに扉を押し開け、肩を並べてその部屋へと歩み入る。
その瞬間、室内の空気がわずかに震えた。
まるで光が射し込んだかのように、ふたりのまわりには眩いきらめきが広がっていく。
それは──
愛と絆の強さが生み出した輝き。
まるで、祝福された新郎新婦のようだった。
ノアティス国王とセリシア王妃──
アルヴァンの父と母は、一瞬、言葉を失っていた。
まるで結婚式の入場を目の当たりにしたかのような錯覚すら覚えるほどだった。
そして何より、ティーナの装いは、完璧だった。
一切の華美はない。
だが、細部にまで行き届いた気品と、端正な美しさが際立っている。
さらに、十六歳という年頃ならではの清楚な愛らしさが、その全体をやわらかく包み込んでいた。
王の私室では──
国王と王妃、そして王子の妹・ファリーナが静かに待っていた。
三人の視線が、音もなくふたりへと注がれる。
国王と王妃は、しばし言葉を失っていた。
あまりに自然で、あまりに美しい──
そんな佇まいを前に、声をかける隙さえ見つけられなかった。
だが──沈黙を破ったのは、まだ幼さの残る少女の声だった。
ファリーナが、すこし膨れたように口を尖らせて、つぶやく。
「……こんな、男爵家のちびの令嬢が? 服も質素で……お兄様には、ふさわしくありませんわ」
その口ぶりは鋭く、冷たかった。
けれど──その後に続いたひと言が、場の空気をわずかに和らげた。
「……ただ、ちっちゃくて……かわいらしいだけ、ですけど」
強がったつもりのひと言が、思いがけず褒め言葉になっていた。
王子は静かに微笑し、ティーナは柔らかく頭を下げた。
その瞬間、王と王妃の顔にも自然な笑みが浮かぶ。
王宮の重たい空気が、ふたりの登場で少しずつ和らいでいく。
これが、王子とティーナ──ふたりの新しい物語のはじまりだった。