目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

未来編 野花怪談本編

第1話「〇〇家のタタミ」



 その家の畳には、妙なにおいがした。

 表面は普通の藺草。踏めば少しだけきしみ、ほどよい柔らかさもある。

 だが、そこに立つと、ほんのりと焦げたような、いや違う、濡れた土のような、あるいは……何かの内臓のようなにおいが漂った。


 〇〇家の娘・結(ゆい)は、その一室をずっと開かずの間としていた。そこにある畳は、他のどれとも違っていた。

 中央だけが、うっすらと黒ずみ、指で触れると温かい。冬でも。誰もいないときでも。


 その部屋では十年前、結の姉・紫が亡くなっている。

 就寝中に突然呼吸を止めた、とされていた。遺体はなぜか乾いており、皮膚の一部が焦げたように黒く変色していた。

 医者は「体内から発火したようだ」と首をひねった。

 葬儀の後、祖母が「その畳はもう使ってはいけない」と言い残し、間もなくして亡くなった。


 以来、その部屋は鍵がかけられ、誰も入らなかった。


 だがある日、結の高校時代の友人、加奈が訪れた。


「泊まっていってもいい?」


「……うん。別の部屋、用意するね」


 けれど加奈は無邪気に家の中を歩き回り、噂で聞いていた“開かずの間”の扉に興味を示した。


「ここって、あの“タタミ”の部屋?」


「加奈、だめ。そこだけは――」


「ちょっとだけ見るだけ。ね?」


 そう言って彼女は扉をこじ開けた。鍵など、とっくに錆びていて役に立っていなかった。


 久々に見た部屋は、埃が舞っていたが、畳は妙にきれいだった。

 中央の“あの畳”だけが、まるで誰かが最近使ったようにふくらみ、湿って見えた。


「……本当に、ただの畳じゃないんだね」


 加奈は興味本位でその上に正座して、ぺたりと寝転がった。


「わっ、あったかい! ヒーターでも入ってるみたいだね、これ」


「やめてよ加奈、本当に……そこ、寝ちゃだめ」


 結は泣きそうになりながら加奈を止めようとした。けれど彼女は、どこか陶酔したように目を閉じて、そのまま寝息を立て始めた。


 それから一時間後――

 部屋を訪れた結は、あまりの静けさに嫌な予感を覚えた。襖をそっと開けると、加奈の姿はなかった。


 代わりに、畳の中央に――焦げたような黒い人型の“痕”が、ぺたりと残されていた。


 湿っていて、ところどころに細い毛髪や繊維が混ざっていた。

 結は声をあげることもできず、畳の縁に手をついてしまった。その瞬間、微かに、耳の奥で“何かのささやき”が聞こえた。


 「……つぎは……おまえだよ……」


 その夜、結は祖母の日記を開いた。


 そこにはこう書かれていた。


 ⸻


 あの畳は、土間にいたものを封じたものだ。

 誰かがその上に寝ると、下の“彼”が目覚める。

 “彼”は喰う。身体の奥から、魂まで。

 火のように見えるのは、“彼”の咀嚼の痕。

 一度喰われれば、戻ることはない。残るのは熱と記憶のにおいだけ。


 それでも、使ってしまう者がいる。

 欲する者は引かれる。

 ――愛情。嫉妬。孤独。羨望。


 喰われるのは、望んだ者だけ。

 望まぬ者には、“彼”はただ見ているだけ。


 ⸻


 それ以来、結はその畳を二度と開けなかった。

 部屋には新たに鍵をつけ、仏間にして閉じた。加奈のことは失踪として処理された。誰にも何も説明できなかった。


 年月は流れ、結は年老い、ある晩、ふとあの部屋を訪れた。

 誰もいない部屋。閉ざされた空気。黒い畳。


 畳の上には、なぜか“結自身の名札”が置かれていた。学生時代の制服とともに。


「……あのとき、私は、望んでいたのかもしれない……」


 そうつぶやいて、彼女はゆっくりと畳の中央に横たわった。


 翌朝。

 部屋には誰もいなかった。畳の中央には、新たな黒い痕が残っていた。


 誰が喰われ、誰が望み、誰が忘れたか。

 今では誰にも分からない。


 けれど、その畳は今でも保管されている。

 密閉された、ある山奥の神社の地下にて。


 時折、ぬるく湿ったにおいが、その封をすり抜けてくるという。




 〇〇家のタタミ 完

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?