その家の畳には、妙なにおいがした。
表面は普通の藺草。踏めば少しだけきしみ、ほどよい柔らかさもある。
だが、そこに立つと、ほんのりと焦げたような、いや違う、濡れた土のような、あるいは……何かの内臓のようなにおいが漂った。
〇〇家の娘・結(ゆい)は、その一室をずっと開かずの間としていた。そこにある畳は、他のどれとも違っていた。
中央だけが、うっすらと黒ずみ、指で触れると温かい。冬でも。誰もいないときでも。
その部屋では十年前、結の姉・紫が亡くなっている。
就寝中に突然呼吸を止めた、とされていた。遺体はなぜか乾いており、皮膚の一部が焦げたように黒く変色していた。
医者は「体内から発火したようだ」と首をひねった。
葬儀の後、祖母が「その畳はもう使ってはいけない」と言い残し、間もなくして亡くなった。
以来、その部屋は鍵がかけられ、誰も入らなかった。
だがある日、結の高校時代の友人、加奈が訪れた。
「泊まっていってもいい?」
「……うん。別の部屋、用意するね」
けれど加奈は無邪気に家の中を歩き回り、噂で聞いていた“開かずの間”の扉に興味を示した。
「ここって、あの“タタミ”の部屋?」
「加奈、だめ。そこだけは――」
「ちょっとだけ見るだけ。ね?」
そう言って彼女は扉をこじ開けた。鍵など、とっくに錆びていて役に立っていなかった。
久々に見た部屋は、埃が舞っていたが、畳は妙にきれいだった。
中央の“あの畳”だけが、まるで誰かが最近使ったようにふくらみ、湿って見えた。
「……本当に、ただの畳じゃないんだね」
加奈は興味本位でその上に正座して、ぺたりと寝転がった。
「わっ、あったかい! ヒーターでも入ってるみたいだね、これ」
「やめてよ加奈、本当に……そこ、寝ちゃだめ」
結は泣きそうになりながら加奈を止めようとした。けれど彼女は、どこか陶酔したように目を閉じて、そのまま寝息を立て始めた。
それから一時間後――
部屋を訪れた結は、あまりの静けさに嫌な予感を覚えた。襖をそっと開けると、加奈の姿はなかった。
代わりに、畳の中央に――焦げたような黒い人型の“痕”が、ぺたりと残されていた。
湿っていて、ところどころに細い毛髪や繊維が混ざっていた。
結は声をあげることもできず、畳の縁に手をついてしまった。その瞬間、微かに、耳の奥で“何かのささやき”が聞こえた。
「……つぎは……おまえだよ……」
その夜、結は祖母の日記を開いた。
そこにはこう書かれていた。
⸻
あの畳は、土間にいたものを封じたものだ。
誰かがその上に寝ると、下の“彼”が目覚める。
“彼”は喰う。身体の奥から、魂まで。
火のように見えるのは、“彼”の咀嚼の痕。
一度喰われれば、戻ることはない。残るのは熱と記憶のにおいだけ。
それでも、使ってしまう者がいる。
欲する者は引かれる。
――愛情。嫉妬。孤独。羨望。
喰われるのは、望んだ者だけ。
望まぬ者には、“彼”はただ見ているだけ。
⸻
それ以来、結はその畳を二度と開けなかった。
部屋には新たに鍵をつけ、仏間にして閉じた。加奈のことは失踪として処理された。誰にも何も説明できなかった。
年月は流れ、結は年老い、ある晩、ふとあの部屋を訪れた。
誰もいない部屋。閉ざされた空気。黒い畳。
畳の上には、なぜか“結自身の名札”が置かれていた。学生時代の制服とともに。
「……あのとき、私は、望んでいたのかもしれない……」
そうつぶやいて、彼女はゆっくりと畳の中央に横たわった。
翌朝。
部屋には誰もいなかった。畳の中央には、新たな黒い痕が残っていた。
誰が喰われ、誰が望み、誰が忘れたか。
今では誰にも分からない。
けれど、その畳は今でも保管されている。
密閉された、ある山奥の神社の地下にて。
時折、ぬるく湿ったにおいが、その封をすり抜けてくるという。
〇〇家のタタミ 完