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3 インディアスと船乗り(後)

 畑で働く人々を眺めながら、アナカオナの背中を追う。アナカオナはやっぱり布を巻きつけただけの姿で、日焼けした手足をさらしていた。フアンと同じように裸足だ。


 朝から焼けるような暑さだった。とにかく日差しがきつい。それだけに木蔭に入るとほっとするような涼しさだった。


 それぞれの家のまわりには椰子の木が立っていて、網が吊ってある。それを見てフアンは納得した。


「ああそっか、吊り床アマカか。昨夜はあれで寝たんだね」


 吊り床アマカは航海中の船乗りの寝床だ。


 これはもともとインディアスの人々が使っていたものをクリストバル・コロンが見つけたのが最初らしい。


 揺れ動く船の中で寝るには最適な寝具だから普及した、言葉もそのまま同じアマカだ、と父から聞いたことがある。英語だと綴りが変化して、ハンモックになることもフアンは知っている。


 案の定アナカオナは「はい、アマカ」と答えた。


 共通の言葉があることでフアンはアナカオナに少なからず親近感をおぼえた。アナカオナもそうだろうかと顔色を窺ったが、残念なことに特に親しげな感情は見られなかった。


 まあいっか、とフアンは気楽に考えた。


 とりあえずここはインディアスで間違いないだろう。このあたりは島がたくさんあるから、具体的にどこなのかがわかればこの先の計画を立てやすい。入植者の村に行くなら、そこで詳しく聞けばいい。


 畑は集落を囲むようにひろがっているようだった。綿畑、トウモロコシ、ほかにも何か作っているらしく、青々と葉が繁っている。


 畑に出ているだけでざっと百人はいるだろうか。みんな日焼けしているが、黒人はひとりも見当たらない。それだけでも珍しいと思ったが、フアンが面食らったのは男も女も裸同然だったことだ。


 腰布だけという女すらいて、乳房があらわになっている。フアンは見ていいものか困った。けれど彼女たちに恥じらう気配はまったくないのだ。


 裸かあ、とフアンはバルバラを思い出した。


 熱心なカトリック信者のバルバラは「結婚前に肌を見せたくないの」と言ってきかない。だからキスぐらいしかしたことはないのだが、フアンはバルバラに会うたびにその明るさと優しさに救われている。


 航海士の父と違ってまだまだ下っ端のフアンは、けっして実入りがいいとは言えないし、海は危険だからいつ死ぬかもわからない。


 だから「結婚しよう」などとはどうしても言えないのだが、それでもフアンはいつも密かに誓っている。バルバラに会うためにスペインへ帰ろうと。


 歩いているうちに石造りの建物が見えた。立派な建造物だ。草葺きの天幕のような家とはあきらかに違う。城壁に囲まれていて、外庭からは犬の獰猛そうな鳴き声がした。建物の背後は崖になっているのか、海が見える。


「あの建物は? 砦みたいだけど」


「……砦。司令官がいます」


「司令官?」


 砦を見るアナカオナの横顔には緊張の色があった。頬が強張り、目に明るさがない。


「わたしたち、に、命令します。あなた、を、助けるよう、言いました」


「――司令官が、俺を」


 司令官が命令しなかったなら、アナカオナたちが助けてくれることはなかった、ということだろうか。


「ひょっとして、今から行く村に俺を案内するのも、司令官の指示?」


「はい」


「へえ、じゃあその前に砦に寄りたいな。その人に礼を言いたい」


 フアンはごく自然にそう思って砦を眺めた。ここからではわからないが、あれが砦なら海側に向けて砲台があるのだろう。


 この島にも海賊が来たりするのかな、と思いを巡らした。戦争が終わったから失業者が増えて、そいつらが新しい海賊になるんじゃないかって噂もあるのだ。


 アナカオナは砦から目をそらし、しばらく黙りこんだ。困ったような気配を漂わせている。


「あなたのこと、司令官は、レベックのひとたちに、まかせました」


「んん? どういうこと?」


 アナカオナはそれ以上答えなかった。


 砦を右手に見ながら歩く。左側は緑豊かな山だった。見上げると結構な高さがあって、青空を支えているようにも見える。山裾にひろがる森がずっと先まで続いていた。


 その景色が、記憶のどこかに引っかかった。


 似たような景色を知っているような気がしたのだ。知っているというより、聞いたことがあるような。


 それが誰に聞いた話だったのかを思い出したフアンは、まさかな、と頭を振った。


 砦を過ぎるとまた畑が見えてきた。どうやら村は森に接するように作られているらしい。


 アナカオナがちらちらとフアンを盗み見るような仕種をしている。フアンは首をかしげた。


「なに?」


「あなたの、時計」


「え? 時計?」


 フアンは驚いた。「時計」と断言したということは、アナカオナは懐中時計を見たことがあるということだ。


「よく時計だってわかったな。見たことあるの?」


 フアンはポケットをまさぐって懐中時計を取り出した。アナカオナがそれをじっと見つめて、意外なことを告げた。


「わたしも、持ってます」


 言うや否や首にかけていたものをはずした。懐から丸い形の物が現れる。


「同じ、です」


 アナカオナはフアンの持つ時計と自分の物とを交互に指さした。見た目は確かにまったく同じ、木彫りの懐中時計だ。


 フアンはひったくるようにアナカオナの時計を手に取り、自分が持つ時計と見比べた。


 表蓋を開ける。文字盤が少し違った。数字の彫られ方に差異があるのだ。けれど全体の形や大きさは同じだし、長針と短針がついているのも同じだった。


 そんなばかな、とフアンは息をのむ。


 オランダにあるという懐中時計を話に聞いたことがあるが、それは手に乗せると指の関節までくる大きさで、その直径と同じくらいの厚みもあるらしい。


 フアンが持つ時計はそれよりずっと小さくて薄いので小石を持つように握ることができる。これほど小さい時計はフアンが知る限り、フアンが持つこの時計ただひとつ、世界にたったひとつだった。


「どこで手に入れた?」


 アナカオナは少し考えるような間を置いて、「ここで」と答えた。


 動悸がした。


 そういう話を、つい最近聞いた。そしてこの風景。でもまさか、まさかそんなことが。


「あの、ここってもしかして、カンティガ島?」


 アナカオナは少し考える素振りを見せてから、うなずいた。


「……はい。カンティガ」


 フアンは恐れるような気持ちでアナカオナの時計を見つめた。


 ゼンマイを巻いてみる。手を離すとすぐに音をたてはじめた。カッカッカッ、と小刻みに歯車と部品が噛み合っている音だ。


 不思議そうな顔をしているアナカオナに時計を持たせた。すると音がぴたりと止まってしまった。歯車が止まったのだ。


 フアンは再びアナカオナの手から時計を取り上げた。とたんに息を吹き返したように音が聞こえはじめる。カッカッカッ、と、その音はまるでフアンに語りかけているようだった。この奇妙な謎を解けるかと。


 フアンは立ち尽くした。出航前に父から聞いた話が脳裏を駆け巡る。



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