「親父、気弱になってるかも」
フアンはぽつりとつぶやいた。
目の前には海がひろがっている。自分が乗る予定の船が、今は帆をたたんで停泊している。
「そうなの? 心配ね」
艶と張りのある声が返事をしてくれた。フアンはこの声が好きだ。とても愛しく、心地いい声。バルバラの声。
バルバラは大きな褐色の目でフアンを見つめていた。積み荷作業の休憩時間を見計らって会いに来てくれたのだ。
「未練たらたら……母さんにまた会いたいってさ」
バルバラは優しい目つきをした。
「リカルドさん、まだ愛してるのね」
「こう言っちゃなんだけど、親父は母さんに捨てられたんじゃないのかなあ」
バルバラが気遣うように首をかしげた。
「複雑な事情があったのよ、きっと。だって私だったら、子供を手放したくないし……それにリカルドさんはフアンよりずっと素敵よ」
「なんだそれ」
「あの一途さがフアンにもあるのかしら」
「だから何の話」
「なんでもなぁい」
バルバラはそっぽを向いてしまった。
船乗りである父リカルドが、母以外の女性とまったく縁がなかったとは、フアンは思わない。
まだ一度しか同じ船に乗っていないから知らないが、父が港町の盛り場でそれなりに楽しんでいたとしても驚かない。船乗りたちのそういう話は珍しくないからだ。
それでも父が口にする恋人の名前は、母スサナだった。
ほとんど海に出ていて家にいない父のかわりにフアンを育ててくれた伯母も、リカルドが縁談を蹴った、と愚痴をこぼしていたことがある。
誰とも結婚せず、母スサナをずっと忘れられずにいる、それを一途と呼ぶなら父は一途なのだ。
そうかバルバラはそういうのを未練がましくてかっこ悪いとは思わないんだな、とフアンは意外に思った。
「あのさ」
「なあに」
「俺が海に出てるあいだ、親父のこと気にかけてやってくれないかな」
何をいまさらと言いたげにバルバラが笑った。
「リカルドさんは楽しいから好き。私のほうが元気をもらっちゃう」
「えっと、そう? ええ? 俺は?」
「戻ってこなかったらリカルドさんに慰めてもらうんだから」
「そうっすか、いや、戻ります」
「絶対よ」
バルバラが微笑む。
そうだな、戻るよ。
この笑顔を見るために、かならず帰るよ。
ふと、どこからかいい匂いが漂ってきた。
何の匂いだろう、知っているような気がする。
潮の香り? いや……
ああ、パンだ。焼きたてのパンの匂いだ。
フアンは目を開けた。
自分がどこにいるのかわからなかった。薄暗くてよく見えないが、目に入ったのは親しんだ船の寝室ではなく、ましてや故郷スペインの自室でもない。
知らない天井だった。乾燥した植物で覆われているようだ。そこから何かが吊ってある。よく目を凝らすと、巻き貝だとわかった。
そうだ、船が横倒しになったんだ。そして小舟に乗りこんで、それから?
フアンは起き上がった。体がとても重くてだるい。
部屋の出入り口はひとつだけのようで、外に向かって開け放ってあった。早朝なのか黄昏なのかわからないが、薄明のなかに見える景色は海ではなく陸地で、フアンには見覚えがない。
出入り口を人影がふさいだ。小柄な少女がフアンに気づいて足を止めたのだ。両手に籠を持っている。漂ってくる香りに刺激されてフアンのお腹が盛大に鳴った。
照れ笑いを浮かべたフアンを見て、少女は中に入ってきた。
「食べます、か?」
少女がおずおずと籠を差し出してきた。発音が少しおかしいがスペイン語だ。
フアンは少女の手元を覗きこんだ。漂う香りの正体は案の定、パンだった。
「ありがとう。あー……えっと、水、水くれると嬉しいんだけど……」
お腹はすいているが、それ以上に喉が渇いていた。少女は心得たように無言で指さした。
「あ、これ、用意してくれてたのかな」
ヒョウタン型の器がフアンのかたわらに置かれていた。なみなみと入っている水を喉に流しこむ。真水だ。
次いで手に取ったパンをかじった。握り拳ほどの大きさのパンだ。ちょっと固いが、栗のような味がしておいしい。
いったん外に出た少女はお椀を持って戻ってきた。湯気が立ち、ふわりと香りが漂う。中身は豆の入ったスープだった。ひとくち飲んでみると、甘酸っぱい果実の味がする。スープに溶けこんでいるようだ。お椀は素焼きだろうか、少しざらざらしていた。
生き返る心地で食べているフアンを、少女がおとなしく見守っている。あぐらをかいているので少々はしたない気もするが、フアンが気になったのは座り方より少女の視線だ。熱心に見つめられているので、なんだか食べづらい。
フアンが器の底に残った豆をパンでかき出していると、また誰かが入ってきた。
「おきたか、げんきか?」
たどたどしいが、やはりスペイン語で話しかけてきた。
今度は年配の男性だ。細いが逞しい上半身をさらしている。下半身はといえば、布で申し訳程度に隠しているだけで、腰紐に大きな葉っぱを飾っていた。
目立つのは頭だった。伸ばした髪を後ろで束ね、鳥の羽根を挿している。近くに座った彼を見たフアンは、男が小さい鼻輪をしていることにも気がついた。
「しれいかんのめいれい、ある。きょうはおそい、あした、村つれてく」
男はにこにこと笑ってそう言い、少女に話しかけた。これはスペイン語ではなかったのでフアンにはまったく意味が汲み取れない。少女は一、二度うなずいてフアンに向き直った。
「まだ、食べ、ますか?」
「いや、だるいんで、寝たいです」
「何かあったら、言って、ください」
少女は一語一語、丁寧に発する。お椀を下げようとする彼女をフアンは見つめた。
薄暗いのではっきりとはわからないが、頬に模様が描かれているようだ。黒くまっすぐな髪は胸まであり、ふたつに分けて束ねられている。服は、服というより布を体に巻きつけているだけだった。
「ここは、どこかな」
「コルバイ、です」
「ここは島? アメリカの近くかな」
「ここは、村、です。コルバイ、村」
「ああ、うん。この村があるのは、島かな、大陸かな」
少女は困ったような顔をした。
言葉がわからなかったのだろうか。少女が黙りこんでしまったのでフアンは質問を切り替える。
「俺はフアン。君の名前は?」
「アナカオナ」
「アナカオナ。じゃあ、あなたの名前は?」
鼻輪の男に視線を向けると、「グアティグアナ」という答えが返ってきた。
「ぐあ……なに? ぐあつが?」
鼻輪の男は笑みを絶やさず、「カシケ」と言い直した。
「カシケ? それが名前?」
少女は外に出て行った。鼻輪をした男も出て行ってしまう。入り口の幕が降ろされるともう真っ暗だった。
フアンは横たわった。寝台があるわけではなく床に
ふと、あのふたりがどこで寝るのか気になった。船はどうなったのか。起きたらまずここがどこかを確認しなきゃ、などと考えているうちに、あっという間に眠りに落ちた。
翌朝、目を覚ましたフアンのそばにパンとスープが置いてあった。スープにはほぐした魚の身が入っている。ボラだ。それは嬉しかったのだが、ひとくち飲んで咳きこんだ。昨夜と違って非常に辛かった。
気つけのつもりか?
涙目になりながら、ありがたくすべて胃に収めた。
出入り口には幕が下ろされていたが、隙間から外の光が入りこんでいた。この部屋の壁は藁か何かでできているらしく、そのわずかな隙間からも光が射しているため、部屋の中はそれほど暗くない。
眠る前はだるくて仕方なかったが、だいぶ回復していた。
立ち上がろうとして、枕元に懐中時計が置かれていることに気づいた。ポケットに入れたまま海に落ちたから、なくしていてもおかしくなかったはずだ。
「よくぞ無事で……って、壊れてるけどな」
フアンは苦笑した。懐中時計をポケットに突っこんで、出入り口の幕をめくる。
「うわ、ごめん」
小柄な体とぶつかりそうになった。頬に赤い文様を描いている顔が驚いた色を浮かべる。けれど慌てず騒がず、アナカオナは静かに声を発した。
「体、いいですか? 連れていきます」
「連れていく? どこへ」
「レベック。スペインの村」
「スペインの? あ、入植者の村ってことかな。レベック村? なるほど……ってことは、ええっと、君って、インディオ? だよね?」
スペイン人の入植者がいるなら、エデルミラ号が嵐に遭った海域から考えても、ここはインディアスのどこかだろう。それならこの少女はインディオだ。
インディアスの先住民だから、インディオ。そう呼ばれる彼らをフアンは実際に見たことがなかった。港で見かける奴隷は黒人ばかりだったからだ。
それで思わず「インディオか?」と確認してしまったのだが、アナカオナの反応は鈍かった。ちらりとフアンを見て、小さく頭を下げて、何も言わずに歩き出したのだ。
「えっと、うーん、言葉わからなかったのかな」
フアンは苦笑した。