目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

5 父とカンティガ島(後)

「へえ? 前に言ってたのは、その小さな島で母さんと会って、俺が産まれたけど母さんは一緒にスペインまで帰ってこられなかったって。つまりその司令官が反対したってこと?」


「わからない。そういう話をする前にスサナは俺から遠ざかった」


「ふうん……。入植者ってのはべつに驚かないけど。インディオの村ってのは珍しいのかな?」


 カリブ海の島々はおもにスペインの植民地であり、インディアスとも呼ぶ。


 1492年にクリストバル・コロンが大西洋を渡りインディアスの島々を見つけてから、多くのスペイン人が島に入植した。


 インディアスからもたらされる金や銀は当時のスペインを潤し、豊かにした。採掘にあたったのは土着のインディオだ。


 しかし彼らは体が弱く、慣れない労働や疫病で激減してしまったらしい。そこで今は移住させられた黒人奴隷が労働力になっているのだ。


 だからカリブの島にインディオの村が残っているという話を、フアンはほかに聞いたことがなかった。


「そう、珍しかった。ほかにもいろいろとな。その島で最大の驚きが、これだ」


 リカルドが懐中時計を示す。


「島のほとんどの人が持ってた」


「はあ?」


「まあ、聞け」


 胡散臭そうな顔をしたフアンにリカルドは笑いかけた。


 時計はたとえひとつでも高価で貴重な代物だ。なぜ入植者たちが暮らす小さな島に時計があふれているのか。まったくもって謎だったとリカルドは言う。


「まだ世界のどこにもない小さな時計だ。ひとつ持ち帰るだけでも大騒ぎになると思った。ところがこれが不思議でさ。俺が持つと時計はちゃんと動くのに、持ち主に返すと動かないんだよ。でもべつに故障ではないからそれでいいんだって言われた」


「いや、故障だろそれ……というか、これも故障してるし」


 フアンはさっきから懐中時計のゼンマイを巻いていた。振り子時計と同じように懐中時計もゼンマイを巻けば動くはずなのだ。けれどゼンマイを巻ききっても歯車は動かず、当然ながら針もまったく進まなかった。


「やっぱり試作品なんだな。それか、よくできた玩具おもちゃだ。ちゃんと動けばそりゃすごい発明だけど、動かないんじゃなあ」


「これはスサナが持ってた時計だ。島で俺が持ったときはちゃんと動いたんだよ?」


「でも今は動かないじゃん」


「そうだな」


 リカルドは苦笑した。


「産まれたばかりのおまえを連れて俺は島を出たけど、スサナにはちゃんとお別れを言ってないんだ。どういうわけか、俺に会ってくれなくて。こっちに戻ったら船大工にでもなろうかと思ってたけど、もう一度スサナに会いたかったから結局海に出た。でもあの島がどこにあるかもわからなくて、気がつけば二十年。そして俺は今こんなザマだ」


「そんな言い方。もう起き上がれるし、日常生活は問題ないじゃん」


「そうだけど、船には乗れないからな」


 フアンは複雑な気持ちになった。


 父と母がどうして別れたのか、具体的なことは何も知らずに育った。ただ、母の名前がスサナ・ガルシアであること、スサナは気さくで明るい女性だったこと、産まれた自分を手放したこと、それぐらいしか聞いていない。


 思うところはある。つまり父と母のつかの間の情熱で自分は産まれ、けれど母は自分を父に押しつけたのだろう。


 父は母を「すばらしい女性だった」と褒めるが、仮にそれが正しかったとしても母は父をそこまで好きではなかったのかもしれないし、ましてや子供なんて迷惑だったのかもしれない。


 だからフアンは母に対する思慕などは抱いていない。母代わりになってくれた伯母のほうが身近だし、そういう自分の境遇に不満もない。


 ところが父はそうでもないらしい。いまだに未練を引きずっているのかと知って、フアンは「もういいよ」と言いたかった。過去を引きずってても仕方ない、もう母さんの話なんてしなくていいよ。未練がましい親父なんてかっこよくないよ。


「おまえがもしその島を見つけて、スサナに会ったら、この時計を返してあげてほしい」


 父の頼みにフアンは顔をしかめた。


「カンティガなんて島、聞いたことないんだけど」


「でも、絶対に見つからないとは言い切れないだろ」


「親父が二十年かけて見つからなかったのに? それに母さんがその島にまだいるとは限らないだろ」


「いなかったらいなかったで、仕方ないね。でももし会えたら、時計を返して、俺たちがどう暮らしてるのかを伝えてやってくれ。もし俺に会いたいと思ってくれていたら、会いに行くとも伝えてくれ」


 フアンは無言でうなずいた。


 父は倒れてから気が弱くなったのだろうか。こんな夢見がちなことを急に言い出すなんて。


 それでもフアンは父が嫌いじゃなかったし、むしろ船乗りとしては尊敬しているし、体調が万全ではない父と言い争いたくもなかったし、だから時計を受け取った。


 父は微笑み、島を出た後の話を始めた。積んでいた食料が腐っていて困ったとか、謎の体調不良で吐き気が止まらなかったとか、とうに過ぎ去った苦労話を面白おかしく話してくれた。


 それはいつもの陽気な父だったから、父の気弱を心配していたフアンは少しだけホッとしたのだった。






「二十年前」


 フアンは興奮してアナカオナに詰め寄った。


「二十年前に、ここに、俺と同じようにスペインの船乗りがひとり、来なかった?」


 アナカオナは視線を宙に投げた。思い出そうとしているようだが、やがて首を横に振った。


「知りません」


「そ、そうか……。いや、二十年前じゃ君は生まれてなかったよな。うん、ありがとう」


 フアンは砦を見つめた。


 司令官……親父は母さんを司令官の娘だって言っていた。二十年前じゃ司令官も別の人かもしれないけど、母さんについて何かわかるかもしれない。


 司令官に会うにはどうすればいいのかな。二十年前のこと、母さんのこと、知っている人がいるなら誰でもいいから話を聞きたい。


 けどその前にここから無事にスペインまで帰る段取りもつけなきゃ……。


「あの」という声にフアンは我に返る。アナカオナの黒い目がじっとフアンを見上げていた。


「ん? ああ、ごめん。行こう」


 フアンは時計をアナカオナに返して歩き出した。


 アナカオナは自分の時計を怪訝な顔で見つめ、フアンの持つスサナの時計を名残惜しそうに一瞥した。


 考え事をしながら歩くフアンはその視線に気づかなかった。


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?