アナカオナは一軒の家までフアンを連れて行った。木造の二階建てだ。口ひげの立派な男性が出迎えてくれた。
「君だね、流れ着いたというスペイン人は。司令官から聞いているよ」
「フアン・アレナスです」
「ディマス・エランだ。村の代表、のようなものだ。ディマスでいい」
フアンとディマスは握手を交わした。
自分の役目は終わりとばかりに、アナカオナは無言で立ち去った。
「ディマスさん。あの、二十年前に、俺みたいに流れ着いた船乗りがいませんでしたか」
ディマスの日焼けした顔に怪訝そうな色が浮かんだ。
「なに言ってんだ? 二十年前なんて、知ってるわけないだろう。ここが発見される前じゃないか」
「え、そうなんですか?」
「それともあれか? クリストバル・コロン提督のことを言ってるのか?」
「え? いや……」
「提督ならとっくに帰っただろう? というか、亡くなったんだろう?」
「それは……まあ、亡くなってますが」
フアンは曖昧に笑った。
なぜここでクリストバル・コロンの名前が出てくるのか。二十年前と二百年前ではえらい違いだ。からかわれたのだろうか。
釈然としないフアンを置いてディマスは話を進める。
「で? 君はこれからどうするつもりだ?」
「どうって……もともとベラクルスに行く予定でしたけど」
「ベラクルス? どこだ?」
「え? ええっと……」
ディマスが不思議そうに首をかしげている。からかっているような気配は微塵もない。
フアンはますます困惑した。
スペインがメキシコにベラクルスの港を建設したのは、それこそクリストバル・コロンがインディアスの島々に到達して三十年ばかり後のことだ。以来スペイン領の主要な港として利用され続けている。それをまさか知らないとは思いもしなかった。
「その、港ですけど」
「港か。ここにも一応あるけどな、大きな船はいつ来るかわからない。君の言う港がどこかは知らんが、ここにいるよりはイスパニョーラに行ったほうがいいだろうな。船はあるかい?」
「ええと、はい、たぶん……小舟があるはず」
イスパニョーラ。やはりインディアスだ。
イスパニョーラ島という呼び方よりも、港がある都市の名前を取ってサント・ドミンゴ島と言ったほうが船乗りには通りがいいのだが、どちらにしろ知っている名前が出てきてフアンはホッとした。
イスパニョーラからさらに西へ航行するとベラクルスがあるのだが……本当になぜあの港を知らないのだろう。
「あるなら、それで北に行けばいい。必要なものがあれば言ってくれ」
「北? 南じゃなくて?」
「北だな」
意外だった。潮の流れから予想した漂着場所よりだいぶ南まで流されていたようだ。
ということはかなり長いこと小舟の中で気絶していたことになる。一日や二日ではとても辿り着かない距離だ。その間まったく目を覚まさなかったのだから、この島に漂着しなければそのまま死んでいた可能性も大いにある。
フアンは改めて感謝した。自分の運と、この島と、海流に乗せて自分を運んでくれた神に。
イスパニョーラからベラクルスまでは遠く、とてもじゃないが小舟では行けない。だからその手前のハバナを目指すことに決めた。スペインに戻る船が集まる港だ。
そのためにもまずはイスパニョーラに行かなければならない。
イスパニョーラ島はスペイン領とフランス領とで分割されている。うっかりフランス領に寄港してしまうとやりとりが面倒だから、そこだけ注意しないとな、とフアンは肝に銘じた。
イスパニョーラまでの距離とおおよその日数を尋ね、その間に必要な水と食糧を少し多めに求めた。炎天下の航海で水を切らすと一大事だから、余裕があるに越したことはない。
ディマスは顎をさすりながら考えこんだ様子で、三日待ってくれ、と言った。
「水はすぐに用意できるが、食べる物はちょっとな。俺たちもギリギリだから」
「ああ……じゃあ、お礼に何か手伝えることがあればやります」
「気にするな。のんびりしてろ。泊まる場所も用意するよ」
「ありがとうございます」
豪快に笑うディマスにつられてフアンも笑顔になった。
「こういうのって司令官がするんじゃないんですね。俺を助けるよう指示してくれたって聞きましたけど」
「ああ、司令官はねえ、一応ちゃんと君の寝顔を見に行ったみたいだよ」
「そうだったんですか?」
ディマスは言いにくそうに笑った。
「総督の使いとかなら、丁重に砦にご案内、となっただろうけどね。服装でわかるからさ。そうじゃないと判断して、あとは俺にまかせたと来たもんだ」
追い出されなくてよかったな、とディマスはフアンの背中を叩いて笑った。
曖昧にうなずいたフアンの笑顔には元気がない。頭の中で司令官について考えを巡らせていた。
ここが父の訪れた島なら、司令官は自分の祖父かもしれない。あるいは祖父の後任者だ。
けれど二十年前にここがまだ見つかっていないとなると明らかに別人であり、祖父とは何の関係もない人物ということになる。
しかしカンティガなんて名前の島がふたつもあるとは思えない。ということはディマスは何か勘違いをしているのだろう。司令官なら正しいことを教えてくれるだろうか。
「司令官に挨拶したいんですが」
「そういうのは必要ないよ。というか、むしろ嫌がると思う。人嫌いというかね」
「はあ」
「どうしてもっていうなら、あとで取り次ぐよ」
「ありがとうございます! あの、それと」
フアンはディマスの太い首にかかっている紐を指さした。
「それ、時計、ですか?」
「ああ」
ディマスは笑顔でうなずき、紐を引っ張った。
「そうだよ。みんな持ってる。まあ持ち歩いてないやつもいるけど」
紐の先には木彫りの丸い物体がついていた。ディマスの太い指が蓋を開ける。現れた文字盤や針は、フアンが持っている時計と酷似していた。
「どうしてみんな持っているんですか?」
「作ってるからさ」
「ここで?」
フアンは父の話を思い返した。島の人間すべてが時計を持っていた、その理由について聞き逃していたことに気づく。
懐中時計をみんなが持っているなんてあまりに現実的ではない話だったから気にとめなかったが、この島にだけ時計があるなら職人がここにいるというのは納得できる。
けれど不思議だ。
こんな何もなさそうな島で、時計の開発に熱いイギリスはおろか、懐中時計を発明したオランダにすら存在しない小型の懐中時計があふれているのは、奇妙以外の何物でもない。いったい誰が作っているというのだろう。
「フェルナンド・ヒロンって男がいてね、やつがひとりで作ってる」
「たったひとりで?」
「そう、ひとりで」
「あの、ちょっと失礼します」
フアンはディマスの時計を手に取った。裏蓋を開けてゼンマイを巻きはじめる。
ディマスが肩をすくめた。
「残念ながら、動かないんだ」
「いや」
歯車のひとつが高速で動きはじめた。カッカッカッ、と音が聞こえてくる。
ディマスがびっくりしたように時計を引き寄せて眺めまわした。時計は息を殺すように、すぐに沈黙した。
「今の音は? 動いたのか? 気のせいか?」
不思議そうなディマスを、フアンは奇妙な心地で眺めた。
アナカオナのときと同じだ。島の人間が持つ時計。けれど彼らが手にすると、時計は動かない。
やっぱりここは二十年前に父が来た島だ。これほど特徴的な島がほかにあるとは思えない。二十年前にここが発見されていなかったというのはディマスの勘違いだ。ということは母も、スサナもきっとここにいたのだ。
「あの」
スサナについて尋ねようとしたとき、ディマスはフアンを見て「それにしても」と笑った。
「だいぶ汚れてるな。まずは体を洗ったほうがよくないか」
「あ、はい……すみません」
フアンは自分の格好を眺めまわして納得した。
航海中は着替えないため、汗と潮の香りがこれでもかと染みついた服はくたくたによれて、シャツの詰襟もすっかり黄ばんでいる。
確かにちょっと、洗い流したい。