一度も考えたことのなかったことだった。
子どもと遊んで、一日の様子を書類に書いて、後は掃除という雑用をこなすだけ。
それだけだと思っていたし、そればかりをやっていた。
だが。
保育はそれだけじゃない。
ミナミレは言葉も視線も態度も冷たいが。
言っていることは、全て正しかった。
けどどこかでそれは”弱いものいじめを楽しむ為であって至極真っ当な正論”だと認めたくなかった。認めてしまえば、余計自分が出来ない人間であることを意識してしまうからだ。
(でも、認めないと、僕は……)
成長ができないのではないだろうか?
その考えに行きついたケトは、初めて自分自身の思考を改め直さなければいけないのかもしれないと感じ始めていた。
「ほら、次行くぞ」
固まって考え込んでいるケトにアッシュが声をかけた。
「あ、はい! え、えと、タイタン先生、ありがとうございました。あの、その」
もっと他に言葉を言いたいが上手いく言葉が見つからないケトは、そこで言葉が詰まってしまった。聞きたいこともたくさんあるはずなのに、考えがまとまらないのだ。ケトの脳内で、ぐちゃぐちゃした感情が頭の中でぐるぐる回るだけで、その思考は言語化してくれることはなかった。
「じっくり考えて、答えが出たら聞いてやる。いつでも来るといい」
ケトの全てを見抜いたように、タイタンは優しい声色でそう言った。
その温かみがありすぎる言葉に、ケトはまた涙腺が緩むのを感じていたが、決して涙を見せぬようぐっと表情を引き締め、深々と頭を下げた。
そうして、アッシュの後を追って部屋を出た。
次は1・2歳児の部屋だ。
ケトが補助として担当している部屋の子もいるところだった。部屋自体はよく知った場所なので、夜はどんな風に変わってるのだろうと少し楽しみを抱きながらアッシュの後ろをケトはついていった。
「赤ん坊ってやつはさ、生きるのに全力なんだよな」
ふと、アッシュが静かに語り始めた。
「ええ、すごいですよね。強い生命力をいつも感じます」
自分の担当している2歳の元気な子どもたちを思い浮かべ、ケトは笑みを零した。
「いんや、弱い」
アッシュが足を止めた。
「お前、知ってるか? 母親のお腹に宿った命が外に元気に出てくる率」
振り向いたアッシュがケトをじっと見据えた。
今まで明るい先輩という感じで話し、接してくれていた人が急に大人びた雰囲気を纏い、真剣な瞳でこちらを見据えてくることにケトは思わずビクっと足を止めた。
「え? えっと……」
突然の空気の変化に戸惑い、ケトは何か返さねばいけないとは思うものの、急に話を振られてパッと答えられるほど出来た人間ではないケトは言葉に詰まるだけだった。
「40%だ」
ケトの答えを待たず、静かにアッシュが告げた。
数秒。
2人の間に、沈黙が流れた。
「……え?」
その数字は。
半分以上が生まれる前に亡くなっていることを意味していた。
「まぁこれはあくまでも俺の予想と、希望」
アッシュが切なく、笑った。
その言葉と笑みの意味が分からず、ケトは困惑する。
その表情は、まるで。
それ以上に亡くなっている子が多いと“信じたくない”と切実に願ってるような顔だったからだ。
「よくさ、アンケートやインタビュー、それと、病院の記録から編み出されるパーセンテージっつーのあるじゃん? あれさ、確かにそこそこ信憑性はあるんだけどさ」
アッシュは笑みを浮かべているのに、その表情は切ない空気を帯びて曇る。
「本気で隠してる奴らの統計なんて、入ってねぇんだよ」
とてつもなく。
冷たい、声だった。
ケトの背筋がぞっと寒くなった。
思わず、反射的にアッシュから目を逸らした。
出産、というのは複雑だ。
大半が、望まれて生まれた子には間違いない。
けれど、その半分は望まれる前に命を持った子がいる。
避妊をしてなくてできてしまった子。
出来ないと高を括っていたら出来てしまった子。
出来ても、捨てられる運命しかない、子。
望まれた子も、母体の中で育たなかったり。
不慮の事故で命を落としてしまったり。
運悪く、成長が止まってしまったり。
「中絶、流産、死産」
ケトが頭に思い浮かべた事柄を端的な単語にまとめ、アッシュが呪文のようにつぶやいた。
「凄いよな。ここにいる子どもたちは、そんな危険を全て避けて、命を持って生まれて、ここまで育ってきたんだぜ。しかも、能力を引き継いだ子ってのは特に脳への
ズシリ
アッシュの言葉が、ケトの内部に重みを与えた。
命の重み
まだ若いケトにとって、見ている子どもたちは可愛くて癒しだ、と思うばかりで、そこまで深く考えたことはなかった。
いや、頭の隅でわかってはいても、考えることを無意識に避けていたのかもしれない。
何故なら、考えるだけで。
子どもに触れることが怖くなるからだ。
少し力を入れるだけで簡単に折れてしまいそうな柔らかい身体。
放っておくだけで簡単に消える命。
訳も分からず危険の方へと自ら行ってしまう好奇心の塊。
大人が手を差し述べ助けないと続かない温もり。
そして、傷つけることを許されぬ。
様々な人の大きな愛で包まれた命。
重い。
重すぎる。
「うっ」
改めて考え、実感しはじめたケトは吐き気がこみ上げてくるのを感じていた。今の自分には、荷が重すぎるものだと。
(やっぱり、僕は――ここにいるべきじゃない人間なのではないか?)
いつも頭にちらついていた言葉が、ゆっくりとケトの中を巡っていた。
「でもさ」
不意に、アッシュが優しい声色を出した。
「それを全部見届けて、次の成長の一歩へと走り出す背中を見送れるってのは、たまんなく気持ちいいよな」
あと、成長過程を見れるのも特権かな。
そんな言葉を付け足して、アッシュは照れくさそうな、嬉しそうな笑みを浮かべた。
それはとても温かくて、優しい笑顔だった。
「ここにいる子どもたちってのは、全部奇跡で出来てるんだ」
アッシュは言葉を続ける。
「それをいかに無事に、かつ真っ当な人間の道へと進めるよう導けるか。それが、俺たち<アンファン>の職員の仕事であり使命。なんてったって、これから育つための命を預かるんだ。大きな試練を潜り抜けた、重い命をたくさん預かってるんだ。この仕事はさ、なんつーか、外から見てると楽そうなんだけどよ。重みを知ると、重要さがわかるだろ?だから、すげー仕事を担ってるんだって思えるんだよな。そう思うとさ、今ここにいる俺たちって凄いよな」
ニカっと歯を見せて笑うアッシュ。
その言葉を真正面から受け止めたケトは。
無意識の内に涙を流していた。