感動ではない。
自分の不甲斐なさでもない。
ただ、何の前触れもなく。
それは溢れ出した。
「僕……間違ってた」
静かに涙を零しながら、ケトは呟いた。
見渡すと。
人は、当たり前のようにそこにいる。
でも、そうして当たり前のように歩くまでに。
全ての人が、命の試練を潜り抜けてきている。
そこには、予想もつかないほどの物語がある。
けれど、目の前に、皆、当たり前に歩いている。
数えきれないほど、当たり前に居るから。
生まれるのも、当たり前だと。
心のどこかで思っていた。
でも、その当たり前は。
生む人の覚悟と苦労と。
多くの大人の助けが必要で。
そんな、重い命を。
どうして軽く見てしまっていたんだろう?
考えれば考えるほど。
重すぎて、息が苦しくなった。
――僕は、本当にここにいていいのだろうか?
ポロポロと涙を流すケトの肩に、そっとアッシュの手が置かれた。
「それに気づけただけでもお前は立派な保育士だ」
アッシュの優しい声に。
ケトは、静かに嗚咽を漏らした。
ケトが落ち着くのを待ってから、二人は2歳の部屋へと再び移動を始めた。
「すみません、みっともない所をお見せしてしまい……」
アッシュの後ろをしょんぼりと項垂れたケトが、申し訳なさそうに言った。
「いいってことよ。真剣に悩むことは、いいことさ」
アッシュは爽やかに笑うと「ほれ、ついたぞ」と足を止めて目の前の扉を指した。 ケトは顔を上げアッシュの指した扉を見る。
毎日嫌というほど見ている部屋の扉だ。
そっと胸辺りを触り、ケトは自分の胸がざわついていないことをまず確認した。
――昼間は、いつもざわついちゃうんだよな
扉の前に立つたびに、吐き気を催したり。熱が出たかのように動機が激しくなったり。全身で、この部屋の扉を開けるのを拒否してしまう日がここ最近続いていた。
原因は、勿論わかっていた。
もしかしたら、子どもが嫌いになってきたのではないのかと思っていたが、それは逃げるための口実というなの理由。実際にケトはが恐れる存在がいないと分かっていれば、心ざわめきも愚か、恐ろしさを抱かない。
一瞬で気分を悪くさせる奇妙で突発的な感情は、抱かない。
ケトが補助をしている、2歳部屋担当の先生。
その人の顔が横切ったが、すぐにケトは脳内から振り払った。
そして、いつも開けるのを戸惑ってしまう扉に手をかけ、とくに何も思うことなくすっと開けた。音もたてず開いた扉の先には、小さな子供たちが布団にくるまってすやすやと寝ていた。
その可愛らしい寝顔に、ケトは笑みを零す。
そして改めて自覚し、一瞬でその表情は曇った。
(僕は……ミナミレ先生が、苦手だからこの部屋に入ることを無意識に拒否していたんだ)
だからといって、仕事を放棄していいわけではない。
苦手とはいえ、大事な仕事仲間であり、適切な助言をしてくれる先輩だ。
ケトは扉を閉め、大きく深呼吸をした。
きっと、今からでも遅くない。
――苦手ならば、克服すればいい
苦手なだけであって、嫌いではない。
ケトはそう思って、自分自身の心の内に浮かんだ言葉を肯定するように頷いた。
まだ、嫌い、という表現で締めくくるほどではない。
まだ経験が浅く、アンファンにいる期間も短い状態で気づけて良かった、とケトは表情を緩めた。
過ごした期間が短いからこそ、嫌いにならずにすんでいる。
勿論、彼女のことをよく知らないからこそ苦手な可能性もある。だが、気づいたからにはもう。
――きっと、僕から歩み寄っていけば修復できる
ケトは、黙って待ってくれているアッシュの方を向いた。
そして、深々と頭を下げる。
「今日は、本当にありがとうございました」
アッシュがそれに答えようとすると、閉めたはずのドアが開きひょっこりと女性の顔が出てきた。
「いえいえどういたしまして。と~っても待っててあげたんだものね」
その声にケトは仰天して振り向く。
そこには、アッシュの双子の姉、メルナがいた。
「開いたと思ったら一瞬で閉めちゃうんだもの。まさか挨拶なしだなんて、そんなことないわよねぇ?」
怖いくらいの良い笑顔でメルナが言う。
その笑顔にケトは震えあがった。
物思いに耽りすぎて、挨拶という行動がケトの頭からすっぽ抜けていたのだ。
「あ、あの、あの」
謝ろうとするもそれより挨拶が先ではないかと思い言葉を口にしようとするも、咄嗟のことで頭が混乱してしまいケトは上手く言葉が出せなかった。
「ま、いいけどね。ここは貴方のよく知ってる部屋だろうし。とりあえず私はメルナ、よろしくね」
混乱で目を回しているケトを特に気にすることもなくそう言ってのけると、メルナはアッシュに目を向けた。
「どうせ、コイツが長々とした話をして遅くなったんだろうしぃ?」
皮肉たっぷりに、目くじらを立てながらメルナは言った。
「え~? タメになるいい話だったよなぁ?」
アッシュが心外とでも言いたげに頬を膨らまし、同意を促すようにケトへ視線を移動させた。
「あ、はい。とても、その」
「はいはい、後輩に責任を押し付けない」
ケトの言葉を遮ってメルナは言うと、「じゃ、私は子どもの見守りに徹するわ。それじゃ、昼間はよろしくね、2歳の補助さん」と言って手をひらりと振って部屋に引っ込んだ。
「あ、え、えと、ケトです、あの、よろしく、です……あ」
ケトの自己紹介は果たして届いただろうか。
(……いや、恐らく届いていないんだろうな)
己のペースを一切崩さないメルナに、ケトはあたふたとするだけで終わってしまった。謝罪すらも許されない状況というものは、胸の中にモヤモヤとしたものを残す。ケトは溜め息とともに頭を項垂れさせた。
「メルナは誰に対してもあんなだから、気にするな。まぁ俺には怒ってるだろうけど」
双子であり慣れているからか、アッシュはあっけらかんとした様子で言った。
そして、突如にんやぁと悪い笑みを浮かべるとケトを手招いた。
アッシュの意図が分からないながらもケトが傍に寄ると、アッシュは耳元に手を添え、言った。
「あいつさ、極度の人見知りだから初対面の人の目を見ないようにしてるん……ってえ!」
耳打ちしていたアッシュが突然悲鳴を上げた。
驚いたケトが見上げると、アッシュの頭に魔法の文字が浮かんでいた。
”いらんこと言うなアッシュ”
なんとなく、その言葉でケトは色々察した。
そして、文字の下で頭の上にできた大きなたんこぶを震えながら抑えるアッシュを見て、思わずクスリと笑ってしまっていた。
恐らく、
ケトは「大丈夫ですか?」と声をかけながらアッシュの頭に
たんこぶがみるみる小さくなり、なくなった。
「助かるよー、にしても君は
たんこぶはなくなったものの、痛みは残っているようで、アッシュは目に少し涙を溜めたまま頭を抑えつつ、ケトの手を借り立ち上がった。
「ええ、基礎魔法は一通り。ただ、いざって時は緊張して出来ないんですよ」
ケトはそういって苦笑いした。
「ふむ、なら緊張しない方法とやらを教えてあげよう」
「え、本当ですか!?」
「ああ勿論だとも! まずはね……」
ケトの食いつきがいいのに気をよくしたアッシュの話は、最後に案内する予定であった事務室へ着いても続いた。最初は興味津々で聞いていたケトも、途中からは似たような話の繰り返しになっていることに気づき苦笑いを張り付けたまま聞くこととなった。
後に。
ケトは、アッシュが長話をする人として有名だったことを知るのだが、今から就業時間目いっぱいまで話を聞く羽目になるとは、ケトには知る由もなかった。