目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

アンファンの夜<6>

 夜勤と休みで2日ぶりに出勤したケトは、相変わらずオドオドと目を合わせずミナミレの神経を逆なでさせるようなイラッとさせる動きを見せていたが、保育の時間が着た瞬間、明らかに目の色や顔つきがいつもと違っていた。

 一番の変化は、子どもを見る目だった。

 可愛がるだけではない。

 遊んであげてるだけではない。

 仕事をする者の目だった。

 一瞬別人かと思うほどの変わりようだったが、時切ふにゃふにゃとした頼りない部分が見え隠れするのでケト本人で間違いなかった。その様子を見たミナミレは、自分の口許が緩むのを感じていた。


(ふむ。やっぱりケトはできる子だったわね)


 ケトは、自分は周りを把握できていないと思っているようだったが、むしろそれは逆だとミナミレにはわかっていた。ケトは、見えているけど、対処がわからないからわざと見ないようにしていた。それをミナミレはわかっていた。

 だから、イライラしたのだ。

 出来るのにやらない。

 やる前から諦めている。

 力があるのに、何故か迷ってやろうとしない。

 テキパキこなすのが当たり前のミナミレにとって、ケトの行動はこちらにストレスを与えるためにわざとそう見せているのではないかと疑うほどポンコツだった。

 しかし、一度園長のお眼鏡にかなったという事実があることで、力に関しては信用に値する人物なのだと判断していた。


 彼は、優秀な力を持っている。

 ただ、気が弱いだけ。


 その弱さが彼の行動全てに影響し、邪魔していたのだ。

 どうにか叱咤激励でなんとかしようと努力したミナミレだったが、余計に怯えるようになり途方に暮れていた。いっそ保育士の配置入れ替えを申請した方が良いのだろうか、と真剣に考えたこともあった。


 だが、今のケトはどうだろう。

 彼は進んで行動している。

 そのかわり、周りへの気配りが疎かになり背後の子どもの様子には全く気づかずにいた。

 だがそれはミナミレにとっては対して問題がない。

 動かない奴の方がミナミレは嫌いだった。


(まだまだ視野は狭いし甘い所は多い。でも、この調子なら……ふむ、期待できそうね)


 彼は、伸びる。

 上手くいけば、ミナミレと同じ立ち位置に来てくれそうだ。

 ケトの背後で喧嘩を始めた子どもを宥めながらミナミレは今後のケトの成長に期待を抱きはじめていた。


「つ、疲れた……」


 ようやく訪れた昼休憩。

 昼寝をする子ども達の部屋を後にしたケトは、職員部屋の椅子にどさっと腰かけた。

 気が緩むと、どっと疲労感が押し寄せてきたのだ。

 けれど、大きな達成感も感じていた。

 悪手ではあるが、今までできなかったことができた。

 徐々に慣れていけば、周りに目を配りながら魔法を使えるようになれるかもしれない。

(いや、もしかしたら他の先生たちと並ぶくらいの技量になれるのでは……?)

 そんな風になれるのは一体いつになるかはわからないけれども、ケトは自分への期待に胸を膨らませ思わずだらしなく表情を崩していた。


「あら、存分に休憩しているのね」


 ヒヤっとした女性の声にケトの背筋が瞬時に伸びた。

 声の方を振り向くと、そこには間違いなくミナミレがいた。

 全員昼寝しているので、どうやら別の補助の先生に子どもを見てもらうのを変わって貰ったようだった。


「あわわわ、すすす、すみません!」


 反射的に謝罪の言葉が出てしまった。

 別に謝る必要がないのに出てしまった言葉に、ケトはしまった、と青ざめる。ミナミレを見ると、やはり不快そうに眉を潜めていた。

 謝ることを強いたわけでもなく、ただ声をかけただけなのに謝られるのはかなり不快なものだ。かといって、ここでもう一度謝ると彼女の不快感をさらに煽ってしまうことになるだろう。

 何とか空気を変えようとケトは口を開くが「えっと、あー、その」と具体的な言葉は全く出てこない。このままではやばい、とケトは焦るが、次の言葉を発する前にミナミレが大きくため息を吐いた。


「私って、そんなに怖いかしら?」

「え?」


 初めて、と言ってもいいだろう。

 ミナミレの弱気な言葉に、ケトはぽかんとした表情で彼女を見た。

 ケトの表情にミナミレはハッとすると「何でもないわ、気にしないで」と言い取り繕うと、湯気のたったカップをケトに差し出した。


「……?」


 どう反応していいかわからず、ケトは差し出されたものを一旦凝視した。カップの中にあるのは、甘い香りで鼻を優しくくすぐってくるチョコレート色をしたものだった。


「ココア……?」


 その正体を口にすると、ミナミレが頷き「ええ、差し入れよ」とケトの手に無理矢理持たせた。


「あ……ありがとう、ございます」


 困惑しながらもケトはしっかり受け取った。

 アンファンに来て。

 初めて、ミナミレから差し入れというものを貰い驚きが隠せなかったのだ。

 かといって、断る理由もない。ケトは、受け取ったココアを有難く両手で包むように持つと、一口啜った。優しい甘さが口いっぱいに広がり、それまで感じていた緊張が一瞬で解け、顔が綻んだ。


「美味しいです」


 素直な感想とともにケトは笑顔を見せた。

 ミナミレは口元の端に一瞬笑みを見せたが、すぐにきりっとした厳しい表情に戻した。


「ま、勘違いしないでよ。アンタが辞めたら私が原因かと怒られるのが嫌なのよ。だからしっかり動いて、これからも頑張りなさい。今日は今までの中で一番よく動けていたから、褒めた方が貴方のためになると思っただけよ。私、貴方に期待しているんだからね。それじゃ、これからもきびきびよく動き私の足手まといにならぬよう、頑張りなさい」


 目も合わせず早口で言ってミナミレは職員部屋を後にした。


「期待……」


 それは、アンファンに来てから初めて言われた言葉であった。

 そして、人生の中で一番嬉しいと言っても過言ではないほどの威力を持った言葉だった。


「……へへ」


 頑張ろう。

 ケトは、嬉しさを噛みしめながら決意し。

 貰ったココアを再び一口飲むと、その温かさと甘さに、普段見ないミナミレの一面が垣間見えた気がして、見つかったら絶対怒られそうなだらしない笑みを浮かべるのだった。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?