三日目の朝。
――レインフォード・ヴェルザ、五歳。
けれど、この小さな身体の奥には、二十八歳で命を落とした科捜研職員・天笠玲人(あまがさ・れいと)の記憶が今もはっきりと息づいている。
まだ誰も来ない静けさの中、薄い朝の光が天井の金色の蔦模様をやわらかく浮かび上がらせていた。
窓の外には、早朝特有の淡い霧が芝生や木々を包み、部屋には静寂と清冽な空気が満ちている。
(……なんか、やっと慣れてきたって、感じだなぁ)
寝起きの体を布団の中で小さく伸ばし、深呼吸をひとつ。
冷たさが肺の奥にじんわりと広がる。五歳児の身体は思ったよりも軽くて小さいが、二日前のあの重さがまるで嘘みたいだ。
掛け布団を押しのけ、足先にふわりとしたカーペットの感触を確かめる。
椅子の上には今日の服――淡い色合いのシャツとベスト、グレーのズボン。
手を伸ばしてそっと布地をなぞると、前世では決して味わえなかった高級な柔らかさが指先に残った。
(……やっと、体が軽くなったな。ベッドの中はマジで暇だった……でも、おかげで色々わかったけど)
まどろみのなかで、この三日間の出来事がゆっくりと胸に浮かび上がってくる。
初日。
目を覚ました瞬間、目の前にいたのは乳母メイレルと、肩までの髪のレミ、二つ結びのニレイという二人のメイド、そして執事のグレイだった。
みんな、安堵と心配をないまぜにした表情で、俺のちょっとした動きにも息を呑むほど気を配っていた。
身体は鉛のように重くて、ベッドから降りるどころか、声を出すのさえも苦労した。
トイレに行く以外は、ずっと寝返りを打つだけの毎日。
廊下へ出たいと言えば、決まって「まだ安静に」と優しく制され、分厚い絨毯の感触も遠い夢のようだった。
『レイン』の家族は毎日欠かさず顔を見にきてくれた。
夜明け前には父のグラードが静かに額に手を当てて、「早くよくなりなさい」と低く落ち着いた声で囁き、すぐにまた部屋を出て行く。
長兄オレファンは夕方になると椅子に座り、明るく振る舞おうとしつつも、ふとした瞬間に「俺のせいですまない。必ず……」と小さく呟いていた。
次兄シェザンは元気よく「バイキンやっつけてやる!」と手を握っては、つい「絶対この兄が犯人を……」と漏らしかけ、無理やり笑顔に戻す。
母のセリィーシェは、いつもやさしく髪を撫でて、「心配したのよ」とだけ。
短い言葉の奥に、伝えきれない安堵と母性がたっぷり詰まっていた。
本当は何があったのか、何度も訊きたかった。
事件の進捗とか犯人の目処は付いているのかとか気になって仕方ない。
けれど返ってくるのは「酷い風邪で寝込んだだけ」という優しい嘘ばかり。
毒やクッキーの話は決して誰も口にしない。
……もちろん、俺は本当のことを知っている。
でも今は、家族の優しい嘘に合わせて知らないふりを続けるしかなかった。
優しさがかえって胸を締めつけ、息苦しささえ覚えた。
静かな部屋のなかで、ベッドに沈み込むたび、現実と非現実の境が曖昧になっていく。
鳥の声や遠くの庭師の音だけが、かろうじて自分を「今ここにいる」と思わせてくれた。
けれど――少しずつ身体が軽くなっていくにつれて、もう一度ここで生きていくしかないという諦めと、それに寄り添うような覚悟が、じわじわと胸の奥に根を張っていった。
寝込んでいた間、俺は自分に新しく宿った「鑑定」の力を、何度もこっそり確かめてみた。
ベッドサイドの水差しや花瓶、カーテン。
じっと見つめると、空中に小さな文字がふわりと浮かび上がる。
《水差し:陶器製/用途:飲料用》
《花瓶:ガラス/用途:装飾》
――まるでゲームやラノベで見た「鑑定スキル」そのままの光景だった。
現実味は薄いのに、それが唯一、この異世界での自分の支えになっていた。
今朝は、不思議なほど体が軽い。
少し体を起こし、椅子の上の着替えに手を伸ばしかけたところで、ふと扉の向こうに気配を感じた。
「坊ちゃま、お目覚めでしょうか?」
乳母メイレルの、聞きなれたあたたかい声が廊下から響く。
俺は一拍置いて、「……うん、起きてる」と、五歳児らしい口調で返事をする。
扉が静かに開くと、メイレルが柔らかな笑みを浮かべて部屋に入ってきた。
「まあ、今日のお顔は本当に元気そう。ほっとしましたよ……さあ、お召し替えのお時間です」
その後ろから、メイドのレミとニレイが慣れた手つきで入室する。
二人が手早くベッドの端に腰掛け、パジャマのボタンを外し、腕を引いて新しいシャツの袖に通してくれる。
前世なら他人に着替えさせてもらうなんて考えられなかったが、今はされるがまま、大人しく身を委ねるしかない。
(今は子供として、抵抗するのも変だしな)
「坊ちゃま、お袖を……はい、よくできました」
「……ありがとう」
やがてベストを整え、靴下もきちんと履かせてもらい、鏡の前に立つと、あどけない子供の顔がこちらを見返していた。
だが、その瞳の奥には、大人の自分の影が確かに揺れている。
この三日間で、本当に自分は「生まれ変わった」のだと、静かに実感する。
窓辺に歩み寄れば、外の霧と淡い朝日に包まれた庭が、ぼんやりと広がっている。
そのとき、メイレルがやさしく手を差し伸べ、「今日はご家族そろっての朝食ですよ」と声をかけてくる。
自分でも驚くほど、久しぶりの外出に期待が胸に灯った。
小さな手をメイドに引かれながら、扉を開けて廊下に出る。
足元の分厚い絨毯は、歩くたびにやわらかく沈み、壁には西洋風の絵画が等間隔に並んでいた。
まだ残る違和感と、初めて外の空気を吸うような高揚感――
そんな思いを胸に、俺は静かに歩き出す。
差し込む朝日がレースカーテンを透かして、床に淡い模様を描いていた。
歩き慣れているはずの廊下なのに、どこか他人の家を歩いているような不安と緊張が抜けきらない。
自分の身体ですら、いまだ馴染みきれず、ふとした瞬間に「本当に俺なのか?」とさえ思う。
重厚な扉を開くと、長いテーブルの周りに家族が揃っていた。
グラードは一番奥で厚い紙束――多分新聞――に目を落とし、
オレファンは隣で食器を指で弄りながら「おはよう」と優しく微笑む。
シェザンはパンをちぎっていた手を止め、俺の姿を見て「おー!レイン、復活!」と大げさに拍手してみせる。
セリィーシェは席を立ち、まっすぐこちらへ歩み寄って手を取る。
「ようやく一緒に食事ができるわね」
その声にかすかに涙が混じっている気がした。
「みんな、レインと一緒にご飯を食べたがっていたのよ」とセリィーシェが囁く。
言葉の端々に温もりと、どこか切なさが滲む。
テーブルには、銀色のカバーをかぶせた料理、バスケットいっぱいの焼きたてパン、果物の盛り合わせ、湯気を立てるスープ。
意外なほど前世の朝食と変わらない。
席につくと、家族全員が息をひそめてこちらを見守っている。
俺が食べるまで、誰も手をつけようとしない。
(……こんなふうに家族で食事するなんて……)
じぃんと胸が熱くなる。
ぽつりと漏れた。
「久しぶりに、みんなで食事だね」
一瞬、空気が止まった。
グラードが手を止め、オレファンが眉を上げ、セリィーシェの瞳が潤む。
自分でも変だなと思う。
前世は彼女なしの一人暮らし。
家族と食卓を囲むなんて年に一度、実家に戻った時くらいだ。
でも、今の自分は――レインだ。
レインの記憶でも家族そろっては一か月で一度くらい。
普段はセリィーシェやシェザンと取ることが多い。
それが今日は家族みんなが揃ってる。
ナイフとフォークを手に取ると、思わず手が小さく震える。
焼きたてのパンをちぎり、鑑定の癖で無意識にパンを見つめていた。
《小麦パン/焼きたて/酵母種:天然》
(普通のパン……良かった)
肩の力がふっと抜け、パンをひとくちかじる。
温かさと香ばしさが口いっぱいに広がり、不思議と気持ちが和らいだ。
その瞬間、みんなの視線が一斉にこちらへ集まった。
グラードの険しい表情がわずかに緩み、オレファンが「レインが食べてくれてよかった」と呟き、セリィーシェも安堵の微笑みを浮かべる。
シェザンだけが、そわそわとグラスを手にしていた。
「なあレイン、これ飲んでみろよ」
シェザンがグラスを差し出す。中で赤紫色の液体が光を受けて揺れる。
「前にワイン飲んでみたいって言ってただろ?回復祝いだ。レインが飲めるワイン、ちゃんと用意したぞ」
グラスを受け取り、その透き通った色を見つめる。
だが、頭の中にはすぐに答えが浮かぶ。
《葡萄ジュース/未発酵/果汁100%》
「……ワイン?これ、ぶどうジュースだよね?」
つい素直に言ってしまった。
空気が一変する。シェザンが目を見開き、グラードがグラス越しに鋭い視線を投げる。
オレファンも「え……?」と固まる。
「レイン、なんで分かるの?」
シェザンが身を乗り出し、眉をひそめる。
「……え?あ、鑑定で、出るよ」
全員が静かにこちらに注目し、食卓に緊張が走る。
セリィーシェが「鑑定?」と呟き、オレファンが俺の顔をじっと見つめる。
「お花とか見ると、なんか頭の中に、その……文字が浮かぶっていうか……」
グラードが新聞を静かに置き、身を乗り出す。
家族全員の呼吸が止まる。
「……それって、『鑑定』なのか?」
オレファンが震える声で聞く。
「うん、多分……。パンとかグラスとか、見ると何か分かるんだ」
「そうか」
グラードが低く唸り、セリィーシェは信じられないものを見るように微笑む。
あまりに家族の様子が変わったので緊張する。
思わずパンをもう一口食べてごまかした。
手のひらにはじっとりと汗がにじむ。
(……なんか、マズいこと言っちゃったか?)
ぎこちない沈黙が食卓を支配する。
誰もが何かを言いかけては飲み込み、妙な空気のまま時間が過ぎていく。
そのとき、グラードがふいに口を開いた。
「レイン。食事が終わったら、執務室に来なさい」
重みのある声がテーブルに落ちる。
その言葉に、家族も一瞬ピクリと反応した。
「……はい」
五歳児らしい素直な声が、自分の口から出るのをどこか遠くで聞いている気がした。
ふと窓の外を見ると、朝日がレース越しにテーブルを優しく照らしていた。
その光の中で、自分のいる場所と立場が、改めて現実味を帯びてくる。
家族の温かな眼差し。その奥に潜む不安と戸惑い――みんなが自分を心から大切に思ってくれていることが、息苦しいほどに伝わってきた。
(……なんだろう、この空気)
静かな朝の食卓には、どこかぎこちない緊張が残っていた。
もう一度グラスを見つめながら、じわりと胸の奥に不安が広がる。
(……鑑定って、もしかしてヤバいことだったのか?)
誰にも本音を聞けないまま、葡萄ジュースの冷たさだけが、やけに遠く感じられた。