司令部から宿舎に戻る石畳を歩きながら、かれは無言でいた。
隣りを歩いている相手のことは無視している。
尤も、無視されているかれらはすこしも気にしていないようだが。
灰青色の柔らかい髪がふわふわさせて隣りを歩いている青年将校と――赤毛の大型猫――兼、名参謀―――は、かれのことを少しも気にせずに目を輝かせて、そして悠然と歩いている。
そう、目を輝かせて。
あるいは、赤毛のねこは悠然とさえみえる歩調で。
―――どうしてこうなった?!
抗議したいかれだが、現実としていまこうなってしまっていることをどうしようもない。
名付け親である将軍に、“では、宿舎まで無事送ってくれたまえ”などと冗談ではないことをいわれて押付けられた。
それでも、将軍の部屋を出た後。
あんたも、いえ、あなたもご自分の宿舎くらいおわかりでしょう?と、かれのいった言葉にあっさり赤毛の大型猫が頷いていたから。
まあ、隣りを歩いているのは仕方ないと思っていたのだ。
第一、 方角が同じだ。
それでも命令書とやらがくるまでは従う義務はない。結局、最後まであの狸爺はかれに対して命令を伝えはしなかったのだ。
だったら、世間話も同じことだ。
例えくそ爺が、その命令書が正式に発行されるまで、かれを護衛代わりか何かに勝手に選んだのだとしてもだ。隣りを世間知らずの馬鹿が歩いていようと。
あるいは、赤毛の貴婦人方に無茶苦茶もてるという大型猫が歩いていようとだ。
宿舎にはかれも帰らなくてはならないのだから、同じ道を歩いているのも仕方がない。
だから、仕方無いんだと。
見ないようにすればいいのだとおもっていたのだが。
“くれぐれも、無事にな。目を離さないように”
将軍の狸面が目に浮かぶ。
舗装された路面が綺麗だった。舗装というか、煉瓦と石を綺麗に模様にして並べている凝った造りの街路だ。実に芸術的で見ていてあきないな、などと死んだ表情でかれはその街道へと連なる道の模様を眺めていた。
実に美しい。もっとも、こうしてしげしげと眺めてみるのは初めてだったが。
隣を歩いている赤毛の大型猫と青年将校をみないでいようとおもうと、他に視線をおく場所がなかった。ちなみに、かれが歩いているのが街が立ち並ぶ側で、赤毛の大型猫が真ん中を、その隣りに青年将校が歩いている。
街の反対側は街路樹が並び、その向こうは河だ。その先には街がなく、平原が向こうまで続いている。
見晴るかすかぎりに何も見えない平原を無意識の内に、ちら、と視界に入れてからかれは視線を逸らしていた。
忘れたい、将軍のいっていたことは。
暗殺者だとか、命を狙われているとか。
名参謀ロクフォールと思われているのは、この隣りを歩いているふてぶてしい大型猫なんかではなく、…―――。
ぼけぼけとした雰囲気の幼なじみである青年将校の方であるとか?
「…――――」
無言で前をみる。忘れたい。隣を歩いている何かがいるのは気のせいだ。
そうだとも、と思いながら、――――。
隠れるもののない平原側を――街路樹があるとはいえ、他の視界は開けている――役に立たなさそうな青年将校に割り振ったとか。
間をゆったりと歩く赤毛の大型猫が、丁度その低い視界で街路樹や街路の間を見通しやすい位置を歩いているな、とか。
…わすれたい、…。
額に軽く手を当てておもう。
そもそも、だ。
暗殺者がいて、それが何だというんだ?
だから、何だっていうんだ?第一、暗殺者の為の護衛なら、他にきちんとつけろというんだ!部隊に引き受けなくちゃならんとしても、だ。部隊には部隊としての仕事があり、どう考えてもさらに余計な仕事を引受けている余地なんてどこにもないのである。
百歩譲って、赤毛の大型猫だけならいい。これは多分、戦場でも役に立つ。
だが、その、―――。
ちら、と視線を送るが、のほほんと歩いている青年将校にはまったく通じていないようだ。どこか、唯歩いているだけでも楽しそうにみえるのは気のせいだろうか?
そうだ、もしかしたら、―――。
この役に立たなさそうな青年将校を引き受けることになる前に、危険を伴う現実をみせて本人が諦めるように持っていけということか?と将軍の思考を読もうと考えを進めてから。
…違うな。それは絶対に違う。
自分で考えたことにNGを出して、かなしくなって視線を逃す。
あの狸爺がそんなことを考えていたなら、あんなに楽しそうにはしていない。
考えてから、げっそりした。確かにあの狸、もったいぶってはいたが実に何というか―――そう、楽しそうだった。
何を企んでるんだ?
隣を歩く赤毛の大型猫=名参謀ロクフォールの発案で、かれの部隊と共に、最前線に赴こうということになったと、―――だが、それだけだろうか?
単純に先に執務室で聴いた将軍の話だけを信じるには、かれは将軍との付き合いが長すぎた。孤児院に居たかれが名付け親に将軍を持つことになったのは唯の偶然だ。それは、貴族達が庇護する対象である孤児達に慈悲を垂れるという名目のもとに小僧や使い走りの者達、あるいは将来そうして館に使える侍従などを育成する為に、小さな頃から囲い込みをして教育を与え衣食住を保証する代わりに将来の労働力として雇用する孤児達に名前を与え忠誠心を育てる合理的な仕組みの一環としてそれはあったにすぎないのだ。
将軍が名付け親となっている孤児達は同じ孤児院の中に沢山いた。
だから、そこから付き合いが始まったというわけではないのだ。
実際、名前を付けたとはいえ本当にその姿をみて声をきくだけでなく、会話をしたのは12才のときがはじめてで、―――。
頭を抱えたいおもいで、かれがそんなことまでつい思い出してしまいながら歩いている横で。
エディ――青年将校が実に楽しそうに歩いている。そう、まるで本当にこうして外を歩いているのは初めてだといわんばかりに。
かれが暗殺者や今後についてと重いことを考えている隣のとなりで実にお気楽に。
そう、たのしそうに辺りを見回して青年将校エディは歩いている。
――楽しそうだな。
何だか、自分ばかりが暗く今後のことなんて真面目に考えているのがバカのようだ。
隣りを歩いていく青年将校は、何が珍しいのか髪と同じ灰青色の瞳を見張って世界を見渡している。隣り、と考えてしまうのは、赤毛の大型猫が本来のねことしては大型でも、身長が低い為に視界にすぐに入らず、隣を見ようと視線を眇めると、そこにみえるのがこの青年将校になるからなのだが。
―――何が楽しいんだ?
あちらこちらを見ながら歩いているさまは、それだけで楽しいと表情が語るもので。
――たく、本当に何がたのしい?
確かにこの浮き足立ち方は、護衛としてではなくともお目付け役が必要というものかもしれなかったが。つい、こののんびりとした相手の歩調に合わせてしまっている己に気付いて舌打する。少し下がって、全体を見通せるようにして。
さらに、護衛対象の身に危険が及ばないよう、周辺の気配を探る。
――くそ、…っ。
絶対にやりたくない護衛の基本的動作を、気がついたらしてしまっていた己に落ち込んで額を押さえる。
――もう、いやだ、…―――。
こういうのは、おれじゃなくとも、誰か専任の奴がつけばいいだろう!
本来、もっと護衛として訓練された将兵がいるはずだとおもう。
これだけの身分なんだ、好きなだけ護衛もお目付け役もつけられるだろうが!
大体こういうのは苦手なんだ、だっていうのに、…あの狸爺!
思いながら無言で隣りを歩いて行く。
夕暮が迫る石畳を、結局早足で去れない己が情けない。
夕陽に見ても、色が白く細い。
どうみても折れそうだ。
戦場で役に立つとは思えない。
どう考えても唯の文官だ。
だが。
まあ、偏見はよくないが。
「…――――」
そして、原因となる「名参謀」をちら、と視線をさげてみる。
気がついていないように、悠然と歩を進める赤毛の大型猫に、どこかがっくりと疲れを感じるような気がする。
夕暮れを前に、に、となにやらうれしげに笑んでいる姿は。
―――どこからどうみてもねこだな、…。
ねこ以外の何ものにもみえない。
にゃんこだ。…
これが本当に名参謀なのか…?
その疑問にかれが眉を寄せていたとき。
「そういえば、軍曹はどうしてまだ軍曹なんですか?」
隣りで何処か建物の天辺を興味深々で眺めていたと思った灰青色の瞳が、急にまっすぐかれをみていた。
冴えた灰青がかれをみている。
青年将校、エディにまっすぐにみられて、眉をしかめてかれはくちをひらいた。
「おれ、ですか?」
「うん。どうして、あれだけの功績があるのに、まだ軍曹なんだろうとおもって」
「それは軍の仕組みですね。おれは、下働きから軍に入りましたから。将校としての訓練は受けていません。そもそも、将校になるのは貴族と決まっているでしょうに」
あきれて、いまさら何を云い出すのか、とエディをみるかれに不思議そうに灰青色の瞳がいう。
「そうなんだ?でも、…実際にできる人が上に立てないのって、無駄だよね?」
「…――別に上に立ちたいとは全然思ってませんので、…いりませんが、そういう立場は」
「…ふうん」
そうなんだ?と不思議そうなままいっている青年将校をあきれたまなざしで眺める。こどもの頃にもおもったことがあるが、どうしてこう常識から外れた思考をしているのかと。
思いながら、そう考えていると次は違うことを云い出した。
「そういえば、将軍が呼んでた、グレッグっていうのは愛称だよね」
「――――そうですね。…」
あの場で狸が口にしていた愛称で呼ばれる居心地の悪さにそういう。
そういえば、あの場で狸爺は、かれのことを結局愛称でしか呼ばなかった。
ああいう風に呼ばれると、馬小屋で悪戯をして叱られていた子供の頃を思い出してしまう。
「でも、どうして軍曹なの?いくら貴族でなくて下働きから入ったとしてもせめて少尉か、―――。本来なら大尉か、少佐くらいにはなっていていいんじゃないの?それに、小隊長なんでしょう?」
そして、あくまで疑問を解決しておきたいのか、そんなことを続けて云う幼なじみにあきれる。
「小隊ですからね。階級が低くても大丈夫なんです。――――とにかくいまは軍曹ですよ」
そもそも、貴族制と軍の関係とか、偉い地位に登るにはそもそも身分が必要だとか。そんな常識以前のことをいまさら疑問に持ち出されても返答に困る。
確かに、出来ない将校が貴族院から降ってくるのは困りものだが、そんなこといまさらいっていても現実がかわりはしないのだから。
「でもね」
「いまさら、何をいってるんですか?そういう疑問は小学生の頃に済ませてください」
貴族なら家庭教師にきいておいてくれというべきだろうか?一応、富有な市民であれば、小学校まではいくことになっているから、そういう言い方をしたが。
ちなみに、孤児院にいたかれ自身も学問としては小学校までは卒業している。将来貴族の館に仕えたりする際に最低限必要な知識を詰め込む為の仕組みでもある。
或いは、そこで得た知識を商売に生かしていく道を進むものもいる。先の国王が元老院と共に始めた小学校制度は、市民の身を立てていく上での知恵と知識を得られる仕組みとして非常に評判が良かった。
二人の会話をきいているのかどうか、赤毛の大型猫はのんびりと歩を進めている。
「それにしても、なんでいまさらそんな疑問を、…?」
「うん、それはとても働き者で功績もあるというのに、階級があがらないなんて
無駄じゃないかな、とおもって」
「あのですね、…そういう常識のないことを」
ついうっかりいってしまってから、目を細める。
本当にまるで、こどもみたいだな。
背はかれより幾分高いくらいだが、細いせいもあってか、それが殆ど感じられない。それよりも好奇心に輝いている瞳が年齢を下げてみせているのだろう。
そこまで観察して。
「あんた、いくつです?」
「え、僕の年?」
不思議そうに見る相手に、眉を寄せる。
そういえば、エディとしてつきあっていたこどもの頃に、年齢をきいたことはなかった、と。考えてみれば、孤児院の庭で仕事をしていたときに出逢ってから、相手の家のことも年齢もなにもかも聞いてはこなかったのだと。
「別に興味はありませんが、…酒の飲めない年じゃないでしょうね?」
疑惑が頭を過ぎる。
もしこれを連れて戦場に足を踏み入れなくてはならないとしたら。
軍にいるからにはそれが殆ど決定事項になるということはわかっていた。
引き取りたくはないが、命令書はまだ届いてもいないが、―――。
「…――――」
無言で楽しそうに遠くをみる赤毛の大型猫がにくい。
この足手纏いを連れて行く必要が生じる原因が。
それでも、事態に対応する必要があって。
だから、諦めと共に対処しなくてはならない案件として、必要な事項を聞いたのだが。
「酒が飲めないんなら、こっちでも対処を考えなくちゃいけませんからね。――――どうしたんです?」
「うん、…そうだね。新鮮な意見かも」
目を驚いて瞬いている相手に、軽く殺意を覚える。
気が短くなったな…。
「あんたにとっては新鮮かもしれませんが、おれはあんたのことを何にも知らないんでね。あんたが本当は大酒飲みだろうが、酒を飲めない年ならそれを守ってもらいます。規律は大事ですから。…―――どうしました?」
そして、まさかの未成年だったら、それなりに扱わなくてはならないのだが、と。
孤児院の庭で仕事をしていた自分に脳天気に話かけてきたエディ。
仕事をしていないでのんびりしていた辺りから、おそらく働く必要のない身分のこどもなのだろうとはおもっていたが。だから、それ以上追求しようとは思わなかったのだ。
それは多分、追求すれば会話すら本来していいものかどうか、という。
身分を伴う関係になれば、――――。
初めて逢ったこどもの頃から、ずっと大人のいまに至るまで。
孤児院で話すことが殆どで、それ以外でもいくらか違う場所で会うこともないではなかったが。
流石に成人していないことはないだろうと思いたいのだが。
相手の外見年齢と、過去の容姿。そして、いまこのときに至っての非常識な会話の内容で、もしかしたらぎりぎり成人前ということも有り得ると気がついて。
といっても、一応将校のはずなのだから、―――。
いや、貴族からの将校階級は確か未成年もありだったな、と。
これが最近躍進している富裕層からの市民将校なら、年齢は確実に成年以降になるんだが、と思いながら眉を寄せていると。