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Act2 赤毛の大型猫



 背景を良く憶えているのは、見慣れていた為でもあるだろう。

 記憶に残っているのは、良く磨かれた窓硝子の格子とその前に置かれた執務机。磨かれた床には塵一つ落ちていない。床に絨毯が無いのは、部屋の主である将軍の性格からだ。無駄を嫌うからとも、吸い過ぎる葉巻の灰が落ちて絨毯が焼け焦げだらけになるから最初から置かないことにしたのだともういうが。

 かれが将軍から紹介されたロクフォールと青年将校に関する事実が衝撃だった為ではないはずだ。

 いや、そうかもしれないがな。

 日が眩しく射す窓を背に。

 その青年が立っていた。

 細身の姿には少年だった頃の面影がある。

「こちらは、きみと幼なじみだそうだね?」

 そういわれて否定しようとして、くちを噤んだ。言葉を口に出すには情報が不足していた。久し振りに本国へ帰還できたことはよろこばしいが、出たくも無い会議の後に将軍に呼び出され、――――。

 あんなものを、紹介された後となれば、特に。

 細身の青年が物静かに立つ前に、―――いる。

 赤い上着に白のズボンは本来ねこが着る衣装だろうか?

 あんなものが、…―――。

「――――…」

 きらきらとした眸でこちらを無言でみているねこ――をできるだけみないようにして。名参謀ロクフォールだと紹介された赤毛の大型猫をできるだけ視界から外して無言でいるかれに、好々爺にみえかねない温かな微笑を将軍がみせる。

 将軍の口調は穏かで常にそうあるように温かみがあり部下に親しみを持たせるものだった。狸爺と呼ばれて半世紀を生き延びてきたような軍人だ。戦場だけでなく、政治の世界でも充分に泳いで生き延びてきた相手の温顔を、人が良さそうだなどと信じることは出来ない。

 喩え、そのくそじじいが、かれの名付け親のひとりであっても。

「彼の名前は誰もが知っているとおもう。君も驚くよ、グレッグ」

 そう、確かに驚いたさ、とおもう。

背後の扉が閉められ、同席すると思っていた秘書官が席を外しても、かれは動かずにいた。軽く眉をあげてみせただけだ。普段かれの名付け親であることをおくびにも出さないジャン・エマニエル・ジェンソン将軍が、常に会議や軍では使わない愛称でかれを呼んだことに対しても。

 こうして、最初からかれを愛称で呼ぶというのは、危険信号なのだが。

 軍としてではない、私的な要素がからむときに、この名付け親はそう呼んでくる。また、かれが帰国したこの隙をついて碌でもない用件を思いついて押付けようとしているのか。

 白髭が愛想の良い笑顔に本当に良く似合って見えるな、この狸爺は、と内心思いながら、策略と謀略が渦巻いている将軍の腹の中を考える。

 一体、何が望みだ?

 人の良さそうな笑みで、この一見物柔らかな毒にも薬にもなりそうにない細身の青年将校と、こともあろうにねこを――――誰もが知るあれだとしめして。

 ――シンジタクナイ、…。

そう思うかれを誰も否定したりはしないだろう。

 名参謀ロクフォールが、ねこ…?!

 しかも、その後に丁度窓際に立つのは細身で最近全然会っていないが、記憶がこどもの頃にかれの唯一人の友人と同一人物だと照合できてしまう存在だ。

「そちらのねこが先程も紹介した通り、名参謀ロクフォールだ。これは機密事項なのだがね?そして、こちらのかれだが」

にこやかに耳を塞ぎたいことをさらっ、と告げてから。

 穏やかに笑んで将軍が青年を指し示す。

 薄い水色の制服は上級将校の身分をしめすものだが。元々、晴れた日の空に似た色といわれた明るいペールブルーは、この相手が着ているとまったく軍服にみえなかった。かれがいま身に着けている黒い軍服とは対照的だ。尤も、かれの着ている黒は一目で下士官とわかる身分を示していた。    

 つまり、向き合う相手は、将校に間違いはないはずなのだが。

 ねこが着ている赤い制服も――人用とはサイズが異なる点を除けば確かに軍服である。そして、将校用であることも確かなのだが。

 何故だろう。

 赤毛の大型猫が着ていると、人ではないのにきちんと軍服にみえる。

 あまり認識したくないが、将校感はとてもある気がする。

 しかし、いまひとり。

 細身の青年は。

 将校―――軍服を着ているからには確実なことだったが、まったく似合っていない以前に、この相手が着ていると軍服にみえないあたりは、誰が着ても個性が消えるといわれる軍服で大したものだ。

 階級章を着けていない為もあるが、絶対に軍人向きではないと言い切れる。後方支援で、書類を作成しているのが似合いだ。

 いや、確かに軍にも文筆を司る部署はあるのだから、それが正解なのだろう。

 体力も敏捷性も期待できそうにない。兵士としては確実に失格だろう。こんな奴は何があっても部隊に迎えたくはないな、と。

 かれは思っていた。

 丁度そのときだ。狙い済ましたようにかれの名付け親が、もういい加減青年の名などどうでもいい、と思っていたかれににこやかに告げたのは。

「エドアルド・ロクフォール、ともにきみの部隊に世話を頼みたいと思ってね」

 唐突な言葉にかれは軽く眉を寄せた。

 よく聞き取れなかったと思ったのだ。

 にこにことこちらをみている将軍に、返事をしないでいるのも限界がきたのを知る。しかし、この場合なんと返すのが正解だろうか。

 しばし経って、色々なことをあきらめたかれは将軍の言葉を一部繰り返し質問返しを選択した。

「ロクフォールがどうかしたんですか?将軍」

「勿論、名参謀と呼ばれるロクフォールのことは良く知っているだろう?」

他に返しようがなかったかれの苦渋をまるで楽しむような、好々爺を画に描いたような将軍の笑顔に眉を寄せる。

 赤毛の大型猫から視線を天井に逸らし、難しく眉を寄せてくちを曲げる。

「それがどうしたんです?我が軍で彼を知らないものなどいるわけがないでしょう。インファンランドの戦も、アヴォア平原での戦闘も、彼の働きがなければ我が軍は敗退していたでしょう。イルボアの捕虜を救い出したのは彼の大きな功績です。何をおっしゃっているんです?」

好々爺の笑顔が一層大きくなったような気がしてかれは眉を寄せた。

 嫌な予感がする。

「どうしたんです?」

軍服を着ている以上、名付け親との関わりを前面に押し出すことは避けたい―――だが、目の前の狸爺は、何かとんでもないたくらみを抱いているようにみえた。

 しかも、この部屋に来てまだ一度もかれを階級で呼んでいない。

 ―――個人的な話というわけか?

 しかし。

「何を企んでいるんです?」

「いやいや、―――確かに、彼の功績は素晴らしい。もし、彼が君のいまいっている戦線に興味を持って君の部隊と共に行動したいと申し出ているとしたら、どうするかな」

「それは、――。しかし、彼は司令部に所属して全体の戦況を指揮する立場でしょう?その彼が前線に赴いて我々と行動を供にしても、我が邦が得る処は少ないと思いますが」

金褐色の眸を細めて、訝しげに問うかれに。

「いや、それはその通りなんだがね。幾つもの戦場で奇跡のような活躍を示してみせた彼だからね。我々凡人には予想もつかん何か理由があるのかもしれんじゃないか。それに、だ。本人達のたっての希望でね。ぜひ戦線に立ちたいというから、君の部隊を推薦しておいた。きみを世話係に」

眸を細めたままかれは将軍を見返した。

「希望―――?」

推薦?一体それは、といいかけたかれに。

「うん、僕がそう希望したんです」

にっこり、気の抜けるようなひとの良い笑顔と共に。

「おい?」

かれがある意味、既に忘れていたといえる青年が、穏かに話し掛けてきていた。

 行儀の良い物腰で、かれに微笑み掛ける。

「だから、何です?―――希望?きみが?」

あんたが?といいたくなるのを堪えて問い掛けて。それから、将軍と青年の顔を見比べた。

「…―――ロクフォール?」

疑問に怪訝な顔になっているかれに、将軍が暖かな笑顔になる。

 そういえば、昔こいつのフルネームをきいたことがあった気がするが、頭からきれいに抜け落ちていた。

 こどもの頃に遊んでいたときは、唯のエディで通っていたのもあるが。

 将軍がにこやかに赤毛の大型猫をしめしながらいうのは、――見なかったことにしたい。

「かれの容姿を実際にしるものは極少ない――――理由はよくわかっていることとおもうがね」

「貴重な人材ですからね。敵が暗殺者を送り込まないとも限らない―――これが?」

思わず声をあげたかれに。

「おいおい、失礼だぞ―――」

 わざとらしく声をあげてみせた狸爺と。

 に、と笑んで無言でかれを真っ直ぐ見ている赤毛の大型猫…――。

「ぼくがにいさんの為にきみを推薦したんです。きみ、ねこが大好きでしょう?」

「一体何の話だ…!」

幼なじみの発言に、おもわず顔が引きつりながら、それ以上の発言を封じ込めようと睨み付けるが。

 まったく構わずに、エディ――エドアルドがにっこりと笑む。

 孤児院で育ったかれとは異なるとても育ちの良い血統を感じさせる優雅な微笑みで。

「うん、別にそんなに大層な理由じゃないんだけど。暗殺なんてそんなにないでしょう?けど、上のひとたちが、猫が名参謀じゃ人の立場がないとおもったのは事実じゃないかな?」

「―――――」

 だから、あんまり知られてないとおもうんだけど、と。

「にいさん、自己紹介したら?」

「よう、おれがロクフォールだ。名参謀といわれてる方のな」

にや、というさまが随分と、――人ならば色男とかいわれそうだな、とつい考えて視線を逸らす。

 そらした視線が赤毛の大型猫から、水色の将校服を着た青年に移ってしまって、顔を引きつらせる。

「きみなら、にいさんの世話係として最適だなとおもって、おじさんに部隊を戻してもらって、きみに会えるよう頼んだんだ」

「…――――」

無言で見つめてしまうかれに、ほんわかと微笑していう青年将校に。

 ――戦場から一時的にも離れて命の洗濯などができるなどとよろこんでいた当時の己を張り倒して、戦場に引き返せといってやりたい。

「ねこのお世話って、慣れてないと大変でしょう?だから、にいさんのお世話はねこ好きなきみに任せたいとおもって。それにやっぱり、名参謀と呼ばれてるにいさんが人じゃなくてねこだってことは、秘匿しておかないと色々と大変だから」

それは確かにその通りだと同意したくなった。暗殺者とかいうのは世間向けの解説で、その解説が真実に違いない。いや、その点からは暗殺者が人至上主義者とかいう輩から派遣されてきてもおかしくはないが。

 その点からも、秘匿は確実に必要だろう。

 なのだが。

 ちら、と

「―――将軍。これが、ロクフォール?」

 赤毛の大型猫が得意気に、に、と笑む。

名参謀、奇跡を起す軍師、――――彼が指揮すれば敗軍が蘇り、熾火がいつしか大草原を席巻する炎となるように、敵をその勢いに呑み尽くし、砕き尽くすだろうといわれた、―――――。

 伝説なら昔話だと笑うだけだ。いま必要なのは使える一兵卒だと。

 だが、その名前がもたらしたのは真実の勝利だった。

 かれ自身、その指揮下で動いたこともある。

 命を賭けてもいいとおもった、―――その作戦に命を預けてもいいと思った初めての指揮官。

 だが。

「これが…――――――?」

 赤毛の大型猫。

 赤い将校服が何故かとても良く似合う無頼漢といった雰囲気の、――――ねこ。

「どうして、名参謀ロクフォールがにゃんこなんだ―――!」

 いってしまってから、くちを手で覆う。

「やっぱり、きみはねこが好きだよね」

「みたいだな」

 に、と笑んで赤毛の大型猫―――本当に名参謀ロクフォールらしき大型猫がいう。

 にゃんこ呼ばわりにも、怒るというより面白がっているのが丸わかりだ。

「猫好きか。…――毛を撫でさせてやってもいいぞ?」

「――いらんっ!」

拒否するかれに、名参謀ロクフォールが笑む。

「そうか?おれの毛並みはご婦人方にとても評判が良いんだがな?誰もが、毛を撫でたがるぞ?」

「…―――いい、いらないっ!だから、どうしておれがねこの世話係をっ!」

「あ、一応ぼくもついていくからね?」

そこに、名参謀ロクフォールを兄だというどこからどうみても純粋な人にしかみえない細身の青年将校が付け加える。



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