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第4話


目を覚ましたブリュエットは、まず自身の身体を確かめた。

手から湯気は出ていないし、あの声も聞こえない。

けれど確かに覚えている。自身の手から湯気が出ていたことも、腹の底から響く声が神秘の森へ行けと言っていたことも。


「お嬢様、お目覚めですか」

「うん……ねえ。今、何時?」

「もうすぐ朝の五時です」


あのあと一晩眠っていたことを知ったブリュエットが窓を見ると、空は明るみ始めていた。

この屋敷から窓のある方角へまっすぐ進むと、神秘の森があると昔誰かに教わった。

同時に、神秘の森には魔獣が住んでいるから決して近づいてはならないとも。

教えてくれたのは、昔屋敷に通っていた使用人だっただろうか。

そういえばその使用人は、それ以来見なくなってしまった。


「おうきゅうへは、いつ行くの?」

「一時間以内には、準備を整えて出発する予定です」

「そっかあ……」


正直なところ、ブリュエットは迷っていた。

王宮へ行くべきか、神秘の森へ行くべきか。


(よく知らない人の言うことを、かんたんに信じてはいけないって、教わったっけ)


それを教えてくれたのも例の使用人だ。


(でも、よくいっしょにいるけど、わたしはごえいのことも、くわしくは知らない)


さすがに普段なら、姿の見えない相手の言葉ではなく護衛の言葉に従っていただろうが、今のブリュエットは猜疑心でいっぱいだった。

眠りにつく前、護衛と一緒にいた大人がブリュエットに杖を向けたのだ。

そしてその指示を出したのは、ブリュエットの護衛。

ブリュエットを守るためにいつも近くにいるのだと説明されていた護衛が、ブリュエットを守るどころか攻撃をしてきた。


「にゅうみんまほう、むりょくかまほう」


眠る前に耳にした単語を口に出すと、護衛はあからさまに動揺していた。


「お嬢様。私どもはお嬢様を攻撃したかったわけではございません。お嬢様の安全のためには、ああするしかなかったのです」

「ふーん」


入眠魔術も無力化魔術も、ブリュエットには何のことか分からない。

分かるのは、味方だと思っていた相手に杖を向けられた事実だけ。


『安全のためか。物は言いようだな』


突然声の聞こえたブリュエットは、慌てて自身の手を確認したが、手から湯気は出ていなかった。


「あなたはだれ? わたしのからだをおかしくしたのは、あなたなの?」

『ほう。我の声が聞こえているのか』


ブリュエットが護衛に聞こえないほどに小さな声で問うと、例の声が応えた。


「聞こえてるよ。昨日からだけど」

「そうか。しかし、おかしくした、とは心外だな。我は好き好んでお前の身体の中にいるわけではない」

「わたしの中にいるの!? いつから!?」

「我とお前の付き合いは長いぞ。何せ我は赤ん坊の頃からお前のことを見ているからな」


声にそうは言われても、ブリュエットが声を認識したのはつい昨日のことなのだ。

簡単に信じられるものではない。


「わたし、なにがどうなってるのか、分からない。昨日から、ごえいが変なの」

『昨日から変なわけではない。昨日は奴らの目的が露呈しただけだ』

「目的?」

『取引を使用ではないか。お前が神秘の森へ出向いてくれるのなら、我が全てを話そう』


(知りたい。今、なにが起こっているのか、知りたい。

だけど、この声はだれなの? 信じてもだいじょうぶなの?)


『これは最初で最後のチャンスかもしれぬ』

「どういうこと?」

『お前が王宮へ行けば、もう我と話すことは出来なくなる可能性が高い。そうなれば、お前が真実を知ることは出来ぬだろう』


声のこの宣言に、ブリュエットの心の天秤が傾いた。


「わたし、おうきゅうじゃなくて、しんぴのもりに行きたい」

『ふふ。お前は護衛ではなく我の言葉に従うのか?』

「なにが起こっているのか、知りたいの。おかしいかな?」

『何もおかしくなどない。大いに結構! では今すぐ護衛を振り切り神秘の森へと向かうがいい』

「えっ!? それはむりだよ。子どもの足じゃ、すぐに追いつかれちゃう」

『そうだった。お前は我とは違うのだったな。まだほんの幼子だ』


ブリュエットに現実問題を突きつけられた声は、しばらく唸ってから、愉しそうな声を上げた。


『ひらめいた! お前、一人になることは出来るか?』

「トイレにいる間でよければ」

『ではすぐに向かえ。善は急げだ!』


声に言われた通り、ブリュエットが護衛にトイレに行きたい旨を告げると、護衛はトイレまで着いてきた。

過去には護衛もブリュエットと一緒にトイレに入っていた時期もあったが、今ではさすがにトイレの扉の前で待っていてくれる。


「一人になったよ。どうすればいいの?」

『我の唱える呪文を口に出せ』

「声さんのマネをすればいいんだね?」

『ああ。ではいくぞ』


声の唱える呪文をブリュエットは一つも理解していなかったが、それでも必死に真似してみた。

声も、幼いブリュエットに合わせて短く区切りながら呪文を伝える。

そして。


(声さんが、次のことばを言わないってことは、じゅもんはこれで終わり、なのかな?)


ブリュエットが呪文を唱え終わると、密室のはずのトイレの中で強い風が吹いた。

思わず目を瞑ったブリュエットが、再び目を開けた瞬間。

狭いトイレの中に、真っ白な狼のような魔獣が現れた。


「おおかみさんだ!? 初めて見た!」

「呼びましたか、魔獣王様…………あれ?」

『久しいな、フェンリル』


狼のような魔獣はきょろきょろと辺りを見回したが、目的の相手は見つけられないようだった。


「魔獣王様に呼ばれたから、封印が解かれたんだと思ったのに。おかしいなあ」

『我の声は聞こえぬのか。魔力の高いフェンリルでこれなら、他の魔獣にも我の声は届かぬのだろうな』


声が残念そうに呟いた。


「えっと……僕を呼んだのはあなたですか? あなたは誰……うん? 少しだけ、魔獣王様の気配がする」


狼の魔獣はブリュエットの匂いを嗅ぎつつ、不思議そうな顔をしている。

ブリュエットもどうしていいのか分からず、ただ立ち尽くしている。

ブリュエットにもう少し知識があったなら、魔獣であろうと普通の獣だろうと、狼を見たら警戒していたのだろうが、彼女にその知識は無かった。

ブリュエットが知っていたのは、絵本代わりに見ていた動物図鑑に描かれた狼の絵だけだ。


『お前、フェンリルに神秘の森まで運んでもらえ』

「フェンリル? このおおかみさんのこと?」

「いかにも僕はフェンリルですが。誰かと会話をしているんですか、あなた」


フェンリルと呼ばれた魔獣は、なおも不思議そうにしている。


「お嬢様。物音がしましたが、何かございましたか?」

「あっ、なんでもないよ! トイレ中だから、もうちょっと待ってて!」


なかなかトイレから出て来ないブリュエットを心配した護衛が、扉の外から声をかけてきた。

フェンリルが召喚された際の物音も、不審に感じたのだろう。


『早くフェンリルに、神秘の森へ連れて行くように命令しろ』

「えっと、声さんがね。フェンリルさんに、しんぴのもりに、連れて行ってもらえって」

「声さん? ……もしかして、魔獣王様!?」


何かを察したフェンリルの動きは素早かった。

すぐにブリュエットが背中に乗れるように身体を屈めた。


「詳しい事情は分かりませんが、とにかく僕の背中に乗ってください。魔獣王様が望んでいるのなら、僕はそれに従うまでです」

『うむ。察しの良い部下は重宝するな』

「では扉の鍵を開けてください。扉自体も少し開けて、押せば開くようにしてください。それが終わったら僕の身体にしっかりと掴まってくださいね。スピードを出しますから」

「う、うん!」


ブリュエットは若干話に置いていかれていたが、フェンリルに頼みごとをされて素直に従った。

そしてフェンリルの背中に乗ってしっかりとフェンリルの身体に掴まる。


「いきますよ。舌を噛まないようにしてくださいね」

「きゃあっ!?」


フェンリルは蹴破る勢いで扉を開けると、そのままものすごい速さで駆けて行った。

背中にブリュエットを乗せながら。


「お嬢様!? 緊急事態だ! お嬢様が魔獣に攫われた!」

「魔獣を撃て……いや撃つな! お嬢様が近すぎる!」

「くそっ、魔獣を追いかけろ!」


後方からは護衛たちが追いかけてくる気配がする。

護衛たちはブリュエットに当たることを恐れて銃を使えないようだが、見失わないように追いかけて来ている。

しかしフェンリルは人間ではとても追いつけないスピードで駆けている。

それに気付いた護衛も馬に乗って追いかけてきたが、フェンリルは馬の通れない細い道を駆けて馬を翻弄していく。

ブリュエットは振り落とされないように、必死でフェンリルに掴まっていた。


『あっはははは! 愉快愉快。必死で無力な人間を見るのは、何と気持ちの良いものか!』


舌を噛まないように歯を食いしばっているブリュエットの代わりに、声が高らかに笑っていた。



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