城の中庭には、風が吹き抜けていた。
ノアは花壇の傍らに腰を下ろし、じっと空を見上げている。
その隣に立つアゼルは、無言のまま彼女を見守っていた。
言葉は交わさずとも、そこには穏やかな時間が流れていた――
けれど、遠くで兵たちが慌ただしく行き来する気配。
やがて、レオンが険しい面持ちで歩み寄ってきた。
「集まってくれ」
王の命を受けたのだろう、彼の声は低くも揺るぎない。
重苦しい沈黙の中、レオンは口を開いた。
「報告が入った。――前回よりも大規模な魔物の動きだ」
王の命を受け、アゼル・レオン・カイルを中心とした精鋭部隊が現地へ向かうこととなる。
ノアは当然のように、アゼルの背に付き添っていた。
けれど――
「ノア、今回は置いていく」
アゼルのその言葉に、ノアは目を見開いた。
彼女は何も言えず、ただ首を横に振った。
けれど、アゼルはその手をそっと取って言った。
「お前に何かあったら……」
ノアの手を離した。
アゼルは背を向け、騎士たちと共に城を出て行った。
ノアはしばらくその場に立ち尽くし、じっと出ていった扉見つめていた。
アゼルたちが無事に帰ってくるのを、ノアはただ信じて待っていた。
時折、中庭を吹き抜ける風に身を委ねながら、帰還の姿を思い浮かべる。
その穏やかな流れが、彼女の不安をわずかに和らげていた。
けれど――
ふと、風が止んだ。
空気が重く淀み、世界そのものが静まり返ったかのように。
ノアの背筋が、ぞくりと凍りついた。
「…っ!!!…」
⸻
その“嫌な予感”は、確かなものだった。
彼女は一度も迷うことなく、走り出した。
空を裂き、風を操り、灰の地へ――。
灰の地。
焼けた大地に倒れる騎士たち。
レオンの肩は裂け、カイルは血に濡れ、アゼルもまた片膝をついていた。
目の前に立つのは、常軌を逸した巨体の魔物。
灰色の瘴気をまとい、空気を腐らせるその存在は、これまでとは明らかに異質だった。
「……ここで、食い止める」
アゼルは満身創痍の体で剣を構え、
その魔物に立ち向かおうと、最後の力を振り絞る。
「やめろ、アゼル!」
レオンの鋭い声が響いた。
「今のお前では持たん!退け――!」
だが、アゼルは振り返らない。
「殿下こそ下がって下さい。……俺が道を切り開く」
血に濡れた大地の上で、二人の声が交錯する。
そして次の瞬間、アゼルは巨体へと駆け出した。
その時だった。
風が吹いた。
柔らかく、でも確かな力で。
「アゼルっっっ――……ダメーーーーーッ!!!」
言葉を話さなかった少女が、
初めて自分の意思で声を放った。
その声が空気を震わせ、時間すら止まったように感じた。
アゼルが目を見開いた瞬間――
ノアは彼の前に飛び込み、両手を大きく広げた。
「――!」
淡く、けれど揺るぎない光が彼女の体から溢れ出す。
強烈な衝撃が魔物から放たれる。
だが、それはノアの前で寸前に止まった。
瞬間、眩い光が広がり、仲間たち全員を包み込む。
まるで聖域のように展開した“光の結界”が、騎士たちを覆い守っていた。
ノアの意思で生まれた、純粋で強固な守りの魔法だった。
アゼルが、ノアを呼ぶ。
「ノア……っ」
だが彼女は静かに、魔物に向かって一歩、また一歩と歩き出す。
その目は揺るぎがない。
ノアの光の結界が皆を守り、魔物の攻撃を受け止めた。
だが、ただ守るだけでは終わらない。
「……っ!」
ノアは結界を維持したまま、もう片方の手を前に突き出した。
そこから放たれた光の矢が、閃光となって魔物の巨体を貫く。
魔物が吠え、怯んだ隙に続けざま――無数の光弾が弾け、瘴気を吹き飛ばしていく。
結界は仲間を守り、攻撃魔法は魔物を追い詰める。
二つの力を同時に操る姿は、まるで異世界の存在のようだった。
しかし魔物はなおも抗う。
瘴気を渦巻かせ、さらに暴れ狂おうとする。
ノアは震える腕を必死に持ち上げ、最後の力を込めて手をかざした。
光が脈動し、魔物の身体を覆う瘴気が一気に乱れ始める――。
ノアが手をかざすと、魔物の身体を構成していた瘴気が一気に乱れた。
彼女の魔力が、魔物を浄化し始めていた。
空が光り、地が揺れる。
――そして。
魔物は、灰になって崩れ落ちた。
残されたのは、静かな風と、
一人の少女が立っていた足跡だけだった。
全てが終わったあと。
アゼルは黙ってノアを抱きしめた。
「……すまないっ……」
ノアは、言葉の代わりに彼の胸にそっと顔を埋めた。
もう、誰もが知っていた。
ノアはただの“拾われた少女”ではない。
人を守り、支える“希望の光”だった。
――――――
戦いを終えた騎士団が、城に戻ってきたのは夕刻だった。
城では皆が出迎え、皆がノアを称賛した。
「命の恩人だ」「まさか、あんな魔法が…」
けれどその中に、
わずかなざわつきや“距離”があったのも、ノアは感じていた。
――彼女の力は、想像以上だった。
――あのまま暴走していたらどうなっていたのか。
感謝と同時に、誰もが“畏れ”も抱いていた。
そして、ノアはそれを察していた。
夜。
アゼルが寝台で眠っていた。
ノアはその隣に座り、彼の穏やかな寝顔をじっと見つめていた。
彼女はふと、自分の手のひらを見つめる。
――あのとき、魔物を消し去った光。
あの力は、いったい何だったのだろう。
守りたかった。
ただそれだけだった。
でも。
皆があの力をどう見たのか。
怖い。
『次は暴走するかもしれない』『制御できなければ脅威になる』
そんな声が、直接は聞こえてこなくても、彼女の胸には届いていた。
ノアは静かに立ち上がった。
アゼルの髪を優しく撫でて、小さく微笑む。
——ごめんね。
そして、自室に戻ると、
ほんの少しの荷物を手に取った。
その夜、誰にも気づかれないように、
ノアは自室の窓からそっと飛び立った。
月明かりに照らされながら、静かに夜の闇へと舞い降りる。
城を後にする彼女の背中は、切なげで、けれど決意に満ちていた。
誰にも迷惑をかけない場所で、
誰も傷つけないように、
ひとりで生きるために……
「……元の……生活に戻るだけっ……」