ノアがいなくなった事に気づいたのは朝だった。
彼女の部屋には誰もおらず、ベッドはきれいに整えられていた。
何も残されていなかった。
ただ、アゼルの部屋の窓に――
ごめんねと書かれた手紙だけが、そっと置かれていた。
「……嘘だろ……」
アゼルはそれを手に取ると、すぐに城を飛び出した。
その日から、彼は眠れなかった。
魔獣の森、風の谷、灰の地のさらに奥。
誰も近づかない廃村、魔力の歪みが強い聖域――
彼女がいるかもしれない場所を、片っ端から探した。
レオンたち兄弟も手を貸した。
リアムも、自分でできる限りの情報を集めようとした。
でも。
ノアの足取りは、まるで風のように痕跡を残さなかった。
何日も、何夜も。
アゼルの心は焦りと怒りで焼け焦げそうだった。
――なぜ……
――あのとき、ちゃんと気づけていたら……
――守るって言ったのに……
…そして、3ヶ月たった夕暮れ。
アゼルは森の中、静かな湖に辿り着いた。
その水面のほとりに、うずくまって座っていた小さな背中。
ボロボロの服、傷だらけの足。
けれど、見間違えるはずもない。
「……ノア」
その声に、ノアの体がビクリと震えた。
湖畔の静寂を破った、懐かしくて――でも今は怖くてたまらない声。
振り返れば、きっとアゼルがいる。
でも、振り返ったら――
「ノア!」
もう一度名前を呼ばれた瞬間、
ノアは無意識に走り出していた。
地面を蹴り、水辺を離れ、森の奥へ。
「……ッなんで逃げるんだよ……!」
後ろから聞こえるアゼルの声。
足音。枝を払う音。
でも止まれない。
止まったら――
泣いてしまう。
また甘えてしまう……
もう自分がどうしていいのか分からなかった。
自分のせいで、誰かを怖がらせるのが怖い。
皆に嫌われるのが、怖い。
アゼルに失望されるのが、もっと怖い。
だけど。
「逃がさねぇって言ってんだろッ!!」
その怒鳴り声と同時に、背中に腕が伸びた。
強く引き寄せられたかと思えば、
次の瞬間にはアゼルの胸の中にいた。
ノアの足が地から浮いた。
腕の中で、暴れようとしても無駄だった。
「……どこまで逃げる気だよ……」
アゼルの声は低く、でも震えていた。
「お前が怖がるのはわかってた。
でも……いなくなるなんて、そんなやり方しかできねぇのかよ……」
ノアの体が小さく震える。
アゼルは抱きしめたまま、
その耳元で言葉を絞り出すように言った。
「……怖いんだろ?
自分の力で、誰かを傷つけちまうかもしれない。
だから、いなくなればいいって思ってる」
ノアの涙が、アゼルの服に染みた。
でも、アゼルは離さなかった。
「だけどな……」
その声に、少しだけ熱がこもる。
「俺にとっては、お前がいなくなる方が……よっぽど怖ぇんだよ」
言葉が、空気を震わせた。
「お前の力も、お前の不安も、全部ひっくるめて――
俺が支える。守る。だから……」
腕の力が強くなる。
「もう二度と……勝手に、いなくなんな」
ノアの手が、アゼルの服をぎゅっと握り返す。
もう逃げられなかった。
逃げたくなかった。
この人の声が、ぬくもりが、
誰よりも――欲しかったから。
――
気づけば、ノアの視界は滲んでいた。
堰を切ったように、涙が頬を伝う。
「……ご、ごめっ……なさい……っ」
しゃくりあげながら、言葉にならない言葉を繰り返す。
アゼルの胸に顔を埋め、必死にしがみついて。
「こわかったの……っ
みんなを傷つけちゃうのが……
アゼルに、嫌われるのが……っ」
アゼルは黙ってノアの頭を抱き寄せた。
強く、でも壊さないように。
「バカ……」
低く、震える声が耳に落ちる。
「そんなことで俺がお前を嫌うわけねぇだろ……
もう二度と、ひとりで抱え込むな」
その言葉に、ノアは声をあげて泣いた。
嗚咽と謝罪と、ありがとうが入り混じった言葉を吐きながら。
アゼルはその全てを受け止めるように抱きしめ続けた。
――
やがてノアの涙が少しずつ落ち着いてきた頃、
二人は沈みゆく夕陽の中、ゆっくりと城へ戻った。
アゼルは何も責めず、ただ隣を歩いた。
ノアも、もう逃げることはなかった。
そして――城門をくぐった瞬間。
「ノアッ!!」
真っ先に駆け寄ってきたのはリアムだった。
顔は涙でぐしゃぐしゃで、咳き込みながらも手を伸ばしてきた。
ノアは驚きながらも、小さく笑ってその手を握る。
次にセリスが後ろからやってきて、
泣きそうな顔で、でも微笑んだ。
「……心配したんだからねっ……おかえりっ」
ノアは皆の顔を見渡して、
深く頭を下げた。
「……ごめ……な、さい」
一言だけ。
けれどその一言で、皆の顔がふっと優しく和らいだ。
レオンは微笑み、手をそっとノアの肩に置いた。
「無事で何よりです。君が戻ってきてくれて、嬉しいよ」
カイルもぶっきらぼうに腕を組んだまま言った。
「勝手に出てくとか……二度とすんなよ。
……心配で、飯がまずかった」
リオンは眼鏡越しにじっとノアを見て、頷く。
「君がいない間、アゼルが全く食事も睡眠もとっていなかったことは記録に残しておくべきだな」
「うるせぇ」
「事実だろ」
皆の会話が、城の空気を柔らかくした。
セリスがそっとノアの背中を撫で、リアムがまた手を握る。
こうして――
ノアは“帰ってきた”。
⸻
数日後。
ノアは城の中で、少しずつ人と関わるようになっていた。
まだたどたどしく、
言葉も完全じゃないけれど、
自分の意志で、兄弟たちに「おはよう」や「ありがとう」と伝えるようになっていた。
アゼルの隣にいるときの笑顔は、ずっと変わらず、
その表情は、前より少しだけ穏やかだった。
ある朝。
城の中庭に光が差し込む。
リアムとノアが並んでベンチに座っていた。
空を見上げて、リアムが言う。
「……平和だね」
ノアも、静かに頷いた。
「へいわ……」
その言葉を、彼女は少しだけ誇らしげに口にした。
平和。
それは、今までは知らなかった時間。
だけど今は、少しずつ、味わえるようになってきた。
きっと、それは。
「誰かと一緒にいる」ことで、生まれるもの。
そして夜、アゼルの部屋。
再び戻ってきて数日、二人は同じ部屋で眠りにつこうとしていた。
ノアの心の奥底に残る不安を和らげるように。
ノアが落ち着くまでの間は……
恋人と呼ぶには遠くて、
でもそれ以上に強く、温かい絆で結ばれていた。
「もう寝ろ」
アゼルはノアの髪を軽く撫でながら小さく囁いた。
ノアのまぶたはゆっくりと閉じ、安らかな寝息が静かに部屋を満たしていく。
アゼルはひと息つき、ソファに向かおうと立ち上がろうとした。
――その瞬間。
服の袖が、きゅっと掴まれていた。
振り返ると、眠っているはずのノアの手が、離すまいとするように布を握りしめていた。
「……お前な」
苦笑しつつも、無理に振りほどくことはできない。
ほんの少し力を込めただけで、その小さな指先が不安を訴えていることが伝わってくる。
アゼルは肩を落とし、結局ベッドの端に腰を下ろした。
袖を掴んだノアの手をそっと握り返すと、安堵したように寝息がさらに穏やかになる。
「仕方ねぇな……」
そう呟いた声もすぐにかすれて、やがてアゼル自身も眠りに落ちていった。
「……しばらくは、このままでいられたらいいな」
窓の外に星がきらめき、
静かな風が吹き抜けていた。
束の間の平和。
その尊さを、誰よりも知っている彼らは、
今を大切に抱きしめていた。