夜の空気は、異様なほど静かだった。
風もなく、月も雲に隠れている。
城下町を巡回していた兵士たちは、誰もが同じ違和感に眉をひそめていた。
――鳥の鳴き声ひとつしない。
「……おかしい。いつもなら、この時間は鳥の声が聞こえるはずだ」
小さく漏らした兵士の声が、やけに響く。
その頃、城の最上階に設置された防御結界の魔導盤が、不気味な振動を始めていた。
赤い光が淡く点滅し、やがて刻印の一部が音を立てて欠け落ちる。
「報告しろ! 結界が揺らいでいる!」
城内にいたアゼルもすぐにその異常を察した。
胸騒ぎに駆られ、剣を手に取る。
「……来るか」
彼の直感に呼応するかのように、ノアの耳にもまた、あの声が囁いた。
――たすけて。
王国を包む防御結界が、音もなく砕け散った。
そして、空が赤く染まる。
警報の鐘が鳴り響いた瞬間、
空中にいくつもの黒い“裂け目”が現れた。
そこから降り立ってきたのは、
黒いローブを纏った魔塔の使徒たち。
「ようやく会えたな、“最高の素材よ”」
先頭に立つ男が、そう口にしたとき――
ノアの心臓が凍りついた。
「……誰?」
ノアの問いに、男は冷たく笑った。
「お前は、最高の素材になる。」
その瞬間、男の背後の闇がぐにゃりと揺れ、そこから“それ”が這い出した。
融合体。
歪んだ魔力で強引に縫い合わされた存在。
幾つもの口が、悲鳴とも嗚咽ともつかぬ声を上げていた。
その声は耳ではなく、頭の奥に直接響き渡る。
⸻
叫び声のような、泣き声のような、声を上げてうごめく。
「やめて……」
ノアの声が震える。
それが――“助けて”と叫んでいた声の正体だった。
「この子たちは……」
「そうだ。“進化の材料”だ。実験を繰り返した。
君の力と、彼らの命が合わされば、
“完全な魔法生命体”が生まれる。
――君の存在意義はそこにある」
バカにするような口調。
すべてを“実験”と呼ぶ冷たさ。
だがその時。
「ふざけるな!!」
アゼルの怒号が響き、次の瞬間には剣が閃いた。
剣と魔力がぶつかり、衝撃波が広場を割る。
騎士たちが次々と集まり、レオンたちも前線に立つ。
レオンとエリオとセリスは即座に結界を張り直し、
カイルは前線で剣を振るう。
だが。
融合体の力は異常だった。
一体一体が強すぎる。
そして、どの個体も「人の意識」をかすかに残している。
だからこそ、攻撃するのがためらわれる。
アゼルの目がノアを見た。
「ノア、お前は……どうする」
ノアは震えながら、でも前に出る。
「……たすける」
涙を流しながら、彼女は手を前に差し出す。
「この子たちは……“たすけて”って、いった……」
空気が震える。
ノアの魔力が、暴走ではなく、
“意思”として発動する。
彼女の魔法が融合体を包み、
それは苦しみながらも、静かに動きを止めた。
――
「なら――俺が斬るのは、
お前を傷つけようとする奴だけだ」
魔塔との戦いは、ここから始まる。
王国の中まで入り込んできた“敵”に、
いよいよ全面対決の火蓋が切って落とされた。
戦場に響いていたのは、剣と魔法の音だけじゃなかった。
――たすけて。
――いやだ……まだ生きてるのに……
――いたい……こわい……まま……
――もりに……かえりたい……
ノアの頭の中に、次々と声が飛び込んでくる。
それは人の子の泣き声と、魔物の呻きが混じり合ったもの。
怒りも悲しみも、渇望も絶望も混ざり合い、境界が曖昧だった。
融合体たちの中に、確かに“子供”の意識が残っている。
そして魔物もまた、無理やり引き裂かれ、繋ぎ合わされる前は――
ただ森に、自然の中に、静かに生きていたはずの存在だった。
「……助ける……助けたい……!」
ノアが両手を前に広げ、力を放とうとしたときだった。
空を裂くように、冷たい声が響いた。
魔塔の使徒――黒衣の男が、指を鳴らした。
その瞬間、背後の“裂け目”から、ずるり、と音を立てて影が這い出す。
そこから引きずり出されたのは、十数人の子供と、何体もの魔物だった。
彼らは目隠しをされ、手足を鎖で繋がれ、抵抗する力もなく引きずられていく。
幼い体は痩せ細り、皮膚は血の気を失い、骨ばった四肢が震えていた。
喉は声を上げることすら許されなかったかのように枯れ果て、唇はひび割れている。
魔物たちも同じだった。
羽を持つ獣は羽根を毟られ、森に棲んでいた精霊獣は角を折られ、どれも見る影もないほどに衰弱していた。
かつて誇り高く自然の中で生きていたはずの存在が、ただ“材料”として弄ばれた結果だった。
子供のひとりが、目隠しの下から涙を流し、震える唇でかすかに呟く。
「……もういやだ……こわいよ……」
別の子が、鎖を引きずられながら弱々しく叫ぶ。
「……もりに……かえして……」
その声は、ノアの胸を貫いた。
融合体の悲鳴と同じ。
彼らはまだ生きていて、まだ“助けを求めている”。
「今ここでお前が余計なことをすれば――」
男の指が、子供の細い首元に軽く触れる。
その仕草は、あまりにも残酷で、遊ぶように無邪気だった。
「一瞬で処理できる」
ノアの目が見開かれ、呼吸が乱れる。
膝が震え、足元の石畳に力が入らなかった。
「……やめて……!」
声は掠れて、必死に絞り出した声は、相手の冷笑にかき消された。
男は楽しげに口角を上げ、わざとゆっくりと告げる。
「ならば――
お前が我々に、素直についてくるなら……
この子たちは“解放”してやろう」
その言葉と同時に、空気が張り詰める。
兵士たちの剣先は震え、兄弟たちも拳を握り締めたまま動けなかった。
時間そのものが、冷たい鎖で縛られたように止まってしまった。
ノアの指先で光が弾けかける。
けれど放たれる前に、その魔法は吸い込まれるように消え、ただ淡い残光だけを残した。
かすかな息の音が聞こえる。
拘束された子供たちの喉から、か細い呼吸がもれる。
その合間に、呻き声とすすり泣きが交じり、ノアの鼓膜を焼いた。
魔物たちの荒い息遣いも重なり、苦しみが伝わってくる。
「……こんなの……」
ノアは唇を噛み、視線を落とす。
胸の奥で、どうしようもない葛藤が膨れ上がる。
自分が力を使えば――子供たちは容赦なく殺される。
何もしなければ――永遠に苦しみ続ける。
ノアの喉から、言葉にならない悲鳴が漏れた
。
「アゼル……わたし……」震える声でアゼルを見た。その目は、今までで一番迷っていた。
アゼルは剣を強く握りしめる。胸の奥に走る、嫌な予感。彼女が何をしようとしているのか、瞬時に悟ってしまった。
「ノア……まさか……!」
アゼルは叫んだ。頭の中で、ノアの選択を想像してしまう。
彼女が自分を差し出すことで、すべてを救おうとする未来を。
「ノア、考えるな! お前が犠牲になる必要なんて、どこにもない!」
けれどノアは、静かに目を伏せる。その瞳に宿る決意を見て、アゼルはさらに焦りに駆られた。
「頼む、やめてくれ……!」
アゼルは剣を握りしめながら、必死にノアへと手を伸ばす。だが、彼女の心はもう揺らいでいなかった。
ノアは、ふらりと一歩、前に出た。
誰も止められなかった。
ただ、ノアは笑っていた。
泣きながらーーけれど、静かに笑っていた。
「わたしが……いけば、たすかるの?」
「もちろん。
君の価値は、我々が一番よく知っている。
お前がいれば、完全な存在が完成する。
……君は“救い”になれる」
ノアの足元に、
ぽとん、と涙が落ちた。
――
たすける……だれも……ころさせない……
アゼルが叫ぶ。
「ノア、やめろ!! 行くな!!」
でも、ノアは振り返らなかった。
そして――男の前に立ち、静かに頷いた。
「はなして。
この子たちを……」
魔塔の使徒は満足そうに指を鳴らす。
囚われていた子供と魔物たちは、解放された。
魔法の鎖が消え、気を失ったまま地面に崩れ落ちる。
急いでセリスとリアム、騎士団の人たちが駆け寄る。
アゼルがノアのもとに駆け寄ろうとした――その瞬間。
空間が裂けた。
ノアと魔塔の男の周囲に、
異次元のような黒い渦が広がり、
アゼルの手は、あと少しのところで届かなかった。
「ノアアアアアアアアアアア!!!!」
その叫びに――
ノアが、ふと、振り返る。
闇の中で、光に包まれたように微笑むノア。
その目には、一筋の涙が伝っていた。
「……ずっと、隣でいるって、約束したのに……守れなくて……ごめんね」
けれど、泣きながら、微笑んだまま――その声は、震えずに届いた。
「……でも、きっと、また会えるよ」
そして、彼女はアゼルに小さく手を振った。
「だいすきだよ」
次の瞬間、闇がノアを包み込み、その姿は、光の中に――消えていった。
アゼルの手は空を掴み、その場に崩れ落ちた。
剣も落ちる。
声も出ない。
ただ、静かに、彼は唇を噛み締めていた。
――もう二度と、彼女を奪わせないと。
ノアの言葉と微笑みは、アゼルにとって救いであり、呪いでもあった。
彼女が“誰かを助けるために消えた”ことが、彼の心を深く、焼きつけた。