目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第20話 銀浪の誘い


 イサクァという奇妙な異人が塒としている小屋は、廃材を組み合わせ、茣蓙をまとめて円錐に吊るし、外の木枠に板を置いて雨風をしのげるようにした雑なものだった。

 狩りの獲物である獣から剥ぎ取った皮が幾枚も壁にかけられており、異様なまでに不気味なため、近隣の百姓たちはおろか山に慣れた杣人たちですら近寄ろうとはしない。時折、物々交換のため山窩のものたちがやってくることもあるが、特段親しく交わろうとすることはなかった。

 山道でばったり出会った童たちが泣きわめくほどに異様な風体も、彼が必要以上に恐れられている理由である。

 百姓たちもほとほと困り果てていたが、守護代の息子にして那古野城の主がわざと見逃している事情もあるため、我慢するしかないという有様だった。

 もっとも、この異人は狩りの達人でもあり、精力的に活動をするため、畑を荒らす猪や家畜に害をなす野犬の類いが激減したという利点もあった。

 信長と知り合って以来、盗みを働かなくなり、代わりに訳のわからない細工品や狩猟によって得た肉を野菜などの食料品と交換しようと村に頻繁に現れるようになった。そのたびに、女子供が怯えてしまうのではあるが。


「……とまあ、イサクァ殿はそのように民どもにとっては鬼神の類いと変わらない扱いのようです」

「であるか」


 信長についてきた鉄砲係の橋本一巴が現状を報告した。

 中島郡の出身の一巴は、あまり那古野城周辺について詳しくはないが、他の小姓たちと比べてイサクァに対する警戒心がまったくないため、異人の棲む野原へといくときの供によく選ばれる。

 ここしばらくの間、恒興と利家の二人は城下の若衆の束ねのために忙しくなってきたこともあり、あまり信長に同行できなくなってきたということもある。

 吉良大浜の初陣での戦いと帰蝶の輿入れ以来、那古野城の体制は大きく変わり始めていたのだ。

 近頃は、平手政秀に城の財政を任せ、軍事関係は信長率いる若手が中心となり、それに伴って本来筆頭家老であるはずの林秀貞があまり登城しなくなってきていた。

 現代で言うなら職場放棄とも謗られない振る舞いだが、信長はあえて何も言わなかった。

 幼少期から自分を嫌っていた大人が、どういう態度をとろうと気にしてはいられない。むしろ清々したという気分であった。

 逆に、もともと嫡男の信長よりも弟の信勝派である秀貞にとっては、渡りに船だったのかもしれない。

 信秀のいる末松城にあがっては、信長についての悪評を積極的に広め、土田御前とともに信勝の勢力をますための工作を繰り広げていたのである。

 イサクァの影響を受けた信長の格好や振る舞いを「大うつけ」と広めていたのは、ほとんどが秀貞によるものであった。

 秀貞の目には、信長による関所の一部廃止は間者を増やすだけの愚行であり、鉄砲をかき集めようとしているのも南蛮人に騙された知恵遅れの行為でしかなく、冷静な視点で判断するまでもない馬鹿のすることであった。

 このような秀貞の態度が改まるのは、数年後の稲生の戦いまで待たねばならない。

 とはいえ、この時期の信長にとって口うるさいのが政秀だけという状況はまさに都合のいいものであったのは事実である。

 そうでなければ、得体のしれない不気味な異人を城内に招き入れることも、それのもとに足繁く通うことなど絶対に許されなかったに違いない。


「……しかし、なにゆえ奴は鉄砲の上手であるのか」

「以前、イサクァ殿から教えていただいたところによると、えすぱにあなる国の船に乗っていたときに習ったそうです。そのあと、ぽるとがるという国の船に攫われ、種子島に流れ着いたと」

「待て。おれは左様な話は聞いておらんぞ」

「―――まさか、殿は御存じだとばかり」

「くそっ、あの馬盗人め。おれの問いには答えぬくせに、なぜおれの配下にはなんでもぺらぺらと……」


 知ったばかりの事実に信長が怒りを覚える。


「まさか、勝三郎や又左まで知っておるのか」

「おそらく池田殿も前田殿も御存じないかと。お二方は、鉄砲――というよりもイサクァ殿を苦手としておられるそうで、今日も城下の火付けの下手人を捕らえるためといって顔も出してくれませぬ」

「火付け……そういえば報せが来ていたな。勝三郎たちが向かっておるのか」

「はい。死人こそ出ておりませんが、少なくない数の小屋が燃やされておりますようで」


 数日前に、信長自身も焼け跡を検分に訪れていた。

 明らかに火付けとわかるのに、無人の家屋やどうでもいいものに火を点けられるという事件だった。

 関所を廃したことでそのような不逞の輩が領内に入り込んだのだと、林通勝が泡を吹きながら主張していたのが愉快ではあった。

 蟹でもあるまいし、とニヤニヤしながら聞いていたものである。

 そのとき、「あっ、殿がお探しのいつぞやの白馬が!」と、一巴が指さした先に、いくらか高い崖があり、あの素晴らしい白馬―――銀浪が立ち尽くしていた。

 ここ最近はどこにいたのかわからないが、高みから見下ろしてくる白馬は太陽の光加減であまりにも神々しい存在のように目に映った。

 帰蝶を救出し、那古野城に運んだあとしばらくすると煙のように消えてしまったあのときの姿のままだ。

 神の使いというイサクァの言葉が真実であるかのように思われた。

 銀浪の嘶きが耳に届いてくる。

 まるで、こっちに来いとでも呼んでいるかのように。


「おれをか?」


 だが、白馬は当然その問いには答えず、崖の上から動こうともしない。


「よし、いいだろう」


 逃げられない挑戦を受けた気がした。

 ここで逃げたら彼の恥をばら撒かれ、武士としてやっていけなくなる。有り得ない妄想ではあったが、信長は退くわけにはいかないと思った。

 一巴が護衛用に抱えていた鉄砲と弾、火薬の類いを奪いとると背負った。


「殿、どこへ行かれます!?」

「一巴。おまえはおれの馬を連れて先に城へ戻れ。ただし、帰蝶にだけはこのことを伝えよ」

「いえ、そのような……」

「行け」


 このような状態の信長を怒らせたらまずいということを知っている一巴は、信長が下馬した鹿毛の馬の手綱を掴むしかなかった。

 殿様を一人で置いていくわけにはいかないので、すぐには立ち去れない。

 じっと背後に立ち尽くしている一巴を一顧だにせず、信長は崖めがけて歩いていく。

 銀浪は青い目でまっすぐにこちらを見詰めていた。

 この白馬と二度目に会ったときのことを思い出す。

 あいつに乗らなければならないと腹のどこからか声が聞こえてきたような気がしたあの時を。

 そして、導かれるようにしてイサクァと〈悪霊〉の臭いを追い出したのだ。

 武士である織田三郎信長ではなく、別の誰かになったような上々の気分だった。あの高揚感はかつて味わったことがない。

 もしかしたら、あの不思議な感覚を再び味わいたくてイサクァを傍に置いておいたのかもしれない。そうでもなければ、あんな胡散臭い異人を領地に放し飼いにしておく意味はない。

 崖の麓まで辿り着く寸前、空が翳ったように暗くなる。

 空を見上げると、あの高さから銀浪が崖を器用に跳ねて飛んでくるところだった。

 同じ獣でもカモシカや鹿などがこのように急な崖を下ることは知っていたが、馬にもできるとは驚きだった。

 鵯越の九郎判官義経の故事のようであった。

 銀浪はまるで羽根でもついているかのごとく跳躍し、ほとんど音もたてずに着地する。

 何度見ても異常な馬であった。

 ひひん、と嘶く。

 しかも、顎をしゃくるように首を振った。

 乗れと言っているのだろう。

 背中には今回は鞍が乗っている。

 造りはよくあるものだが、雉の羽で装飾がしてあるあたり見知った異人の手製の仕業だと即座にわかった。

 イサクァの手のひらのうえで転がされているようで癪であったが、鞍から垂れた鐙がないと槍などは使えないので飲み込むしかない。

 再び乗った背からは、他の馬のものとは景色すら違って見えるようだった。


「さて、久しぶりだな、銀浪。今度はどこにおれを連れて行く気だ」


 銜がついていないうえ、手綱もないこともあり、信長が何もしていないのに勝手に並足で走り出した。

 銀浪には迷いなどまるでない。

 この不思議な馬の行く先が決まっているらしいことは誰にでも想像がつく。

 数か月ぶりに信長は風になりたくなった。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?