加藤屋敷に戻り、竹千代の無事を確認すると、信長は日が昇る前にイサクァと捕らえた森可成をつれて那古野城へと帰った。
可成の他の手下たちも、すべてイサクァによって捕らえられていた。
手加減など微塵もしないように思える異人が、人死にを出さなかったことについて信長は感心した。
むしろ、鉄砲の一撃で竹千代を襲った相手を仕留めた彼の方が下手をうったような気分になる。
「おまえ、なぜ殺さなかったのだ。逃げるだけの相手だったろう」
「食うのでもない生き物を殺すのは無駄なことだ。この国でもそうであろう」
「――であるか」
絶対に宗派が違う相手に仏の教えを説かれたような屈辱感があった。
そして、そのイサクァの行動が正しかったのか、手下を皆殺しにされずに済んだ可成が激しい抵抗をせずにいるのも腹立たしい。
(手下をすべて殺されていればこやつも窮鼠となったかもしれない。それが小なりと言えども集団を率いる頭領というものだ。であるならば、イサクァの行いこそが正しい。だが――くそ、なんだこの苛立たしさは)
きっと、囚人を睨みつける。
胴体をぐるぐる巻きに縛られ、両手の親指まで紐に巻かれたら身動きはできない。
さらに荷馬に括りつけられているため、顔を左右に動かす以外はなにもできない状態であった。
那古野城についてから尋問をする予定であったが、なんともいえない気分を晴らすためもあり、馬上から問いかけてみた。
「おまえ、森可成といったな。なぜ、おれに嫁ぐ帰蝶を攫い、今回も竹千代の命を狙った。森越後守といえば美濃の土豪の一人。父が泣くぞ」
「――親父は土岐の頼芸さまのもとでまだ時機をうかがっている。いつか、頼芸さまを裏切って蝮と組んだ織田信秀を殺しに来るぞ。そのときは、貴様も一緒に死ぬがいいさ。いいか、まだおれたちは負けておらん」
信長の記憶によれば、この可成の父親である森越後守可行は美濃の守護大名土岐政房の次男・頼芸の家臣であったはず。その頼芸は一族と対立して、美濃とその周辺国を巻き込んだ争乱の末、土岐氏当主を継ぎ、美濃守護となったが、臣下であった斎藤道三に追放されることになった。
頼芸は隣国の織田信秀を頼り、一度は守護の座に返り咲くが、結局は道三と和睦した信秀の裏切りのためにもともと嫡流であり甥の頼純に守護の座を奪われている。
可成の父親はその頼芸とともに雌伏しているとの話だった。
「なるほど。おれの婚儀を邪魔したのは、そういうことか。舅どのとの和睦がなくなれば、親父もこのまま頼芸どのを支援せざるを得ないからか」
「――まさか貴様が、自らやってくるとは思いもよらなかったがな。そんなに蝮と事を構えたくなかったのかよ」
「なに、おれはもともと斎藤家との和睦など推進する気はなかった。帰蝶を助けたのは、それ、そこの異人の手助けのためよ」
可成の視線がイサクァに向けられた。
さっきからずっと気になっていた。
明らかにこの国の人間ではない顔立ちと大うつけの信長に匹敵する婆娑羅な格好。
どうみても尋常ではない。……もちろん、このときの可成は、信長こそがこのイサクァの姿を真似ているのだという発想はなかった。それほど雰囲気が二人は似通っていたともいえる。
『おまえ、〈悪霊〉に誑かされていた。〈悪霊〉のことを話せ』
どんな戯言をほざいているんだこいつは、という目線を送ってくる可成に、
「そやつはな、自分の国では他人を害する〈悪霊〉なるモノノ怪を追っておったらしい。そして、何の因果かこの日ノ本にやってきても、まだ追い続けている。一生の目的だということだ。おれにもどんな意味があるのかはわからん。ただ、おれも、その〈悪霊〉というものは退治する必要があるのではないかと思い直している―――おまえを見てな」
「……どういう意味だ」
可成の問いには複数の意味がかかっていた。頭の回転の鋭いものがする問いだった。意味に気が付いた信長だったが、一つ一つ説明するのが面倒だったのであえて簡単に答える。
「おまえをここに送り込んだ〈悪霊〉というやつは、おれと帰蝶の婚儀を潰し尾張と美濃を争わせ、いくさを長引かせようと謀った。頼芸どのには悪いが、所詮守護の座につきたいがために、他国の大名を後ろ盾に自国に攻め入る心ははっきりいって醜悪よ。蝮の舅どのと手を組んだおれの親父の方がよほど民のことを考えていやがる。そして、おれの弟分の竹千代を殺し、松平広忠を爆発させて三河ともいくさを引き起こそうとするのも吐き気がするほど邪悪な振る舞いだ。おまえは〈悪霊〉とやらに言われて織田を弱らそうとしているだけかもしれないが、それはさらに深甚ないくさによる傷をばら撒くだけの天に唾吐く愚行だ。断じて許せぬ。もし、その〈悪霊〉というやつがそうやって天下の静謐を乱すことのみを企むというのならば、おれはイサクァの言う通りにそやつを退治せねばならぬ。……ゆえに礼を言うぞ、三左」
突然に愛称で呼ばれて、森三左衛門可成は狼狽した。
「何をだ!?」
「今回の件で実感した。これまでのおれは、そこの異人に手を貸すのを躊躇っておった。あやつへの手助けを、なすべき必要のあるものとはどうしても思えなかったのだ。だが、わかったのだ。あやつのいう〈悪霊〉のこと。世に戦乱を引き起こし、血の雨を降らせることを至高とし、武士も百姓も殺しつくさんばかりの地獄を呼ぶものは、おれの命にかえても絶対に始末せねばならん。それでなければ、おれが死んで生き返った甲斐がない。母に憎まれてきた意味がない。そうだな、イサクァよ」
無表情で話を聞いていた異人がようやくわかったのか、という風にしたり顔でうなずいた。
『そうだ、キモサベよ。それこそが〈歩む死〉の宿命よ』
勝ち誇ったような態度にややひっかかるものがあったが、それでも言葉の中に少しだけ賞賛の気配があったことを信長は嬉しく感じてしまった。
「――三左。おまえもここで心を入れ替えろ。小事を見るな、遥か大事に生きろ。この世に騒乱の種をばら撒く悍ましい連中の言いなりになるな」
「おまえはおれが小さいというのかよ」
「この信長に比べれば、小さすぎるわ」
「ちっ」
可成は訳が分からなかった。
ただ、信長のいう〈悪霊〉(なんのことかさっぱりだったが、心当たりはあった)の言う通りにして、女を攫ったり火付けをしたり餓鬼を殺そうとしたりして、それが武士のやることかという忸怩たるものはずっと抱えていた。
父親とその主人のためにはなるかもしれないが、それは本当に可成のなすべきことだったのだろうか。
顔をあげる。
尾張の大うつけと呼ばれている若者がじっと凝視している。
噂も評判も考えずに、自分の目だけを信じてみよう。
……ならば答えはおのずから明らかとなる。
「土岐の男だ。そう頼芸さまから紹介された―――顔はいつも隠していてわからなかったが、名は
「であるか、三左」
信長は天を見上げた。
一歩前進である。
正体不明であった〈悪霊〉とやらにようやく名前がついたのだ。
よし、次こそはその企てを阻止するとともに、退治てくれよう。
そう決意する、信長であった。