織田備後守信秀の死は天文九(1551年)年三月三日のことであった。
享年四二。
死因は流行り病と伝えられている。
三月九日に行われた葬儀の場所は、信秀自らが十年近く前に建立した亀岳山万松寺。
開山はもともとも信秀の叔父にあたる大雲和尚であり、導師として寺僧を四十人、海道上下の会下僧も三百六十人あまりを仏前に招いていた。
僧侶たちの読経は伽藍全体を震わせ、織田信秀という偉大な人物を荘厳に見送っている。
上座に坐っているのは継室の土田御前であり、惣領息子の信長は無言のままいつもの通りの婆娑羅と呼ばれる格好でいた。下座には信長の家老である林佐渡守通勝、平手中務大輔政秀、内藤勝介らが付き従っている。
信長の弟である勘十郎信勝は、柴田権六勝家、佐久間大学を連れてきていた。
万松寺の境内の外には、信秀を慕う町人、百姓、庶人が何百人も集まって、うずくまって哀しんでいた。
境内の松林には白黒の幔幕が張り巡らされ、士分以上のものだけが中に入ることを許されていた。
池田恒興ら近習は本堂には入れてもらえないので、外から様子を眺めている。
本堂までの長い石畳は、なぜか一部が開いていて、風がそこから吹きつけていた。本来は大香炉から立ち昇る抹香の煙と匂いが広い本堂を埋め尽くしていくはずだが、この風のためにうまく空気が流れていく。
信長はその風の流れをじっと見つめていた。
四百人の僧侶による奏楽読経は他の雑音を完全に締め出してしまい、それ以外の音は何も聞こえないほどになっている。
信勝と眼があった。
すぐに逸らされた。
母親に似た美男で、艶のある顔つきのため、信長とはあまり兄弟という印象はない。
信長はどちらというと父の信秀に似ており、それは庶子である兄の信広と同じであった。
土田御前は、本堂に入ってからも、一切信長の方を見ようともしない。
はじめて腹を痛めて産んだ子に対して欠片ほども愛情がないのだ。
もともと、信長が今のような大うつけとして相応しい婆娑羅な姿をするようになる前から、息子を嫌い抜き、自分つきの家臣を使って悪評を流布する母親である。
当主が死んで、その後継に息子がなったとしてもそれを認める気はさらさらないのだろう。
信長は子供の頃以来、久しぶりに小さく胸が痛くなった。
まだ彼の傷は癒えていないのだ。
ただし、今の彼はそれを無視できるだけの年齢に育っていた。
読経が終わった。
これから焼香が始まる。
番僧が礼をして、焼香を信長に促した。
焼香の順番は記名帳によって決められていて、その筆頭は信長であったからだ。
跡継ぎに信勝を推す動きを見せていた林通勝などは、土田御前か信勝を最初にあげたいところであったが、葬儀の形式として喪主である信長を蔑ろにすることは絶対にできない。
いかに肩衣と袴という姿でなかろうとこればかりは仕方ないところだ。
信長は立ち上がり、仏前の香炉の前に進み出た。
信秀の位牌には大雲和尚の筆によって戒名が書かれている。
たった一人、身内の中で自分を信じてくれた父親がこんな木の塊と似たような扱いになってしまうのか。
悔しくもあり、哀しくもあった。
香箱に詰められた香に手を伸ばした。
そのとき、本堂の外から獣のものとも人のものとも思えぬ遠吠えが聞こえてきた。
意味は――ない。
――信長以外には。
彼にしかわからない合図だったのである。
反射的に跳び退った。
ほぼ同時に大香炉が炸裂した。
中に詰められた香がばっと広がる。
角度によっては、まるで信長が香をぶちまけたようにみえた。
本堂内の人々は静まり返った。
何が起きたのかよくわからなかったのだ。
ただ一人、状況を完全に把握していたのは信長だけであったのかもしれない。
「爺、あとは頼んだ!」
信長は走り出した。
人々は息をのむ。
冷静になると、大香炉が触れもしないのに飛び散ったことを近臣たちはほぼ理解していた。
今でいう銃による狙撃の結果であるとわかるものはいなかったが、何か異常な出来事がおきたことだけは戦国の世の武人の勘が告げるのだ。
信長が間一髪命拾いしたということも。
なんという乱暴な焼香だと思うものもいただろう。
だが、凄まじい気勢を発し、本堂を駆け出していく信長を止めるものは誰もいなかった。
平手政秀だけが、なんとか動き出せたが、それ以外は何できずにただ立ち尽くすだけであった……
◇◆◇
本堂から出ると、信長の目の前に白黒の幔幕を抜けて銀浪が姿を現わした。
参列した者たちが何事かと興奮し騒ぎ出す。
しかし、彼らを尻目に信長は鞍に跨ると、
「イサクァのところへ行け! 奴ならば刺客を追っていっただろう!」
人語を解したかのように手綱をつけていない馬は走り出す。
群衆を割って、山門を抜けると、銀浪は松林に入り込み、障害物があるとは思えない速度で駆けていく。
すぐに、山中を猿のように跳びまわるイサクァに並んだ。
「どうだ?」
『キモサベを撃ったやつがいる。見たこともない大きな鉄砲を使う』
「であるか」
松林をいく下手人の後姿が見えた。
かなりの速さだが、山窩や忍びと同等に山々を走るイサクァと野生の馬に匹敵する銀浪ならばすぐに追いつくことができるだろう。
そのとき、横合いから槍が突き上げられてきた。
信長は馬上で、イサクァは横に飛んで躱す。
十人ほどの武装した男たちが茂みの中から現れる。
明らかな待ち伏せであった。
「何をする!?」
「うるせえ、死ねぇい!」
男たちが槍を繰り出してくる。
松林ということで遮蔽物も多いため、馬上の有利がとれず、刀をうまくふり回せない。
イサクァは三人を相手にしていることもあり、防戦一方だった。
まさか、伏兵を用意しているとは思わず、二人は足止めをされてしまう。
「三郎どの! 助太刀するぜ!」
「殿、遅れました!」
背後から声がすると、十文字槍を構えた森可成と池田恒興が加勢してきた。
信長の近習と小姓たちは、数少ない手勢として要所に配置されていたために集まってくるのに時間がかかったのだ。
前田利家にいたっては反対側にいたため合流できるかどうかすら危うい。
「……あんたが狙われているとは思っていなかったからよ、これまで役に立てない近習ですまなかった」
可成は、信長が予想していた通りに万松寺で信長を狙う刺客による暗殺が起きたことを素直に驚いていた。
(まさか、ここしばらくずっと狙われていたとは知らなかったぜ。くそ、おれたちはとんだ役立たずだ)
ことのおこりはイサクァが今年に入ってから、三度〈悪霊〉の匂いを嗅ぎ取ったのが発端だった。
イサクァを救い続けてきた勘が不吉な予感を告げていた。
それはキモサベである信長の命に危機が近づいているというものであった。
本来、戦いにおいて誰にも殺されない〈歩む死〉である信長の命の危機というのはありえない。
だが、ただ一つだけ、〈歩む死〉が殺されることがある。
原因が〈悪霊〉によるものである場合でだ。
〈歩む死〉を殺害できるのは〈悪霊〉だけなのだから。
そして、尾張に例の〈悪霊〉が入ってきたことと合わせると、これまで二度も〈悪霊〉による悪事を防いできた信長を直接襲うことに決めたのではないかという推測が生まれる。
イサクァは信長を守るために、今までは避けていた城での信長の護衛を開始したのだ。
加えて、理由は不明だが銀浪もどこからともなく城に入るようになっていた。
どちらも信長を守るための行動であった。
しかし、何時まで経っても〈悪霊〉は信長を狙わない。
これは常に近くに一人と一頭の護衛があったからかもしれないが、敵の事情まで彼らにわかるはずもない。
二月たち、そろそろ何も起きないのではないかと考えだしたときに、当主の信秀が亡くなり、葬儀のために那古野城を出ざるを得なくなった。
そして、信秀の葬儀の場には異人のイサクァも馬の銀浪も傍にいることはできない。
絶好の暗殺機会であった。
〈悪霊〉に知恵があるのならばそれを逃すとは思えない。
そのため、信長はわざと葬儀の席に隙を作り上げて、誘い出すことにしたのである。
結果は成功だった。
しかし――
「まさか、これほどの手勢を用意するとはな!」
最初に待ち伏せした十名だけでなく、あとからさらに援軍として十数名が加わったせいで、可成の配下を含めてもかなりの大乱戦になる。
ようやく囲みを抜けて、イサクァが〈悪霊〉のあとを追える段階になったとき――すでに逃げられた後であった。