「平手政秀の死。おまえか」
相変わらず身内には言葉の足りない斎藤道三の問いに、氏家直元は静かに首を振った。
尾張に対して間諜を送り、信長と信勝の対立する兄弟を煽り、もともと信秀に反感を持っていた土豪たちにせっせと金をばら撒いてはいたが、殺せという指示は一切出していない。
工作だけならとにかく、暗殺まで行えば、それが発覚したときに二度と関係が修復できなくなるからだ。
工作についてはどちらの陣営もやっていることですむが、人は死んだら生き返らない。取り返すことができないのだ。
「残念ながら。ただし、上総介信長どのがどう考えておるかはわかりませぬ。帰蝶さまの婿さまはたいそう気の短い大うつけであらせられるそうなので」
もっとも、直元は那古野城周辺の出来事について完全に正確な知識を有している訳ではない。
最初の頃は、帰蝶につけていた侍女や山県郡の福富平太郎貞家らが折に触れて連絡をしてきたのだが、ここ数年は一切報せがやってこなくなっていたのだ。
代わりに増えたのは、帰蝶本人からの文の山である。
口下手な父とは違い、能弁な娘であったからか、誰かに話したくて仕方のない衝動を踏みに書くことで紛らわせているのだろうと考えていた。
だが、その内容からは那古野城や城下が想像以上に賑わっていることが伝わる程度で内容の薄いものばかりだった。
むしろ、道三に伝えるべき情報を隠しているのではないかと思えてならなかった。
「―――うつけが国を繁盛させられるものか」
「それは平手政秀の功では?」
「あやつではない。あれは別のもののやり口だ」
「殿のような、でございますか?」
「信長だろう」
「まさか、上総介信長は尾張全国から仕入れた噂通りのうつけものだともっぱらの……」
道三はぎょろりと直元を睨みつけた。
「信長の手勢は那古野城の八百がほぼすべてだ。他はすべて敵よ。敵の流す評判など自分たちに都合のいいまぼろしの類いでしかない」
そこで初めて主人が諧謔を言っているのではないと悟る。
道三が見ているものと家臣が見ているものは違うということだ。
「見極める」
腹の底から唸るような小声で、
「どこぞで儂と会おうとかぬかしておったな」
と、忌々しさを隠さず言った。
(いつも冷酷な蝮殿にしては珍しい。――もしや、平手政秀を殺すように仕向けたのは殿なのかもしれんな)
そんな疑問を抱きながらも、家臣としての忠義を尽くすために直元は道三を残して部屋を出ていく。
ほんのわずかな時間が経ってから、隣の間と隔てる衾がすっと一寸ほど開いた。
闇の奥に誰かが控えていた。
「……おまえか」
「拙者でございまする」
「平手が死んでも信長は変わらぬ」
「さようで」
「おまえの読みもたいしたことはない」
「申し訳ございませぬ」
「次は?」
「道三殿と織田の御曹司の二人で聖徳寺において会見するのがよろしいかと。そこで、かのうつけ殿を始末させていただきます」
「――儂は、おまえが美濃はおろか天下そのものをよこすというので飼ってやっているだけだ。殺しても死なぬ化け物のおまえをな」
「どれだけをしてもしつくせませぬ」
「だが、世の中には限りがある。おまえが軽んじている信長。あれはおそらく
「一指しの運。……そのようなものがこの世にあるのですか」
「儂は坊主の
「ならばどうなされるというのでしょう」
「聖徳寺での会見。おまえがそのときに信長を討てなんだら、儂はあの婿殿につくことにする。――仔細は任せる」
「御意」
一切目を合わせぬまま会話が終わり、再び衾は閉まった。
気配は完全に途絶えた。
もういなくなったことを確認することもなく、道三は脇息に右手を乗せてくつろぎながら天井を見上げた。
「殺しても死なぬバケモノと死んで生き返ったバケモノ。果たして、どちらが天下を握るものか。……娘をくれてやったのだから白黒つけて欲しいものだ」
と、長いため息をつくのであった。
◇◆◇
聖徳寺は、尾張と美濃の中間である富田庄に建立されていた。
富田庄は、二国を隔てる木曽川の傍、どちらかというと尾張よりではあるが、距離的には四里から四里半とまさに中間地点であり、門前町としての扱いを受けている土地である。
門前町とは、大名たちの行意見が及ばず、軍事行動も制限を受ける町というもので、一向宗の大寺として参詣がたえない聖徳寺を中心に、参詣人目当ての商人、宿屋が軒を連ねて栄えていた。
ゆえに織田信長と斎藤道三の初顔合わせの場所としては文句なしといえた。
互いに申し合わせた結果、供回りは千人ずつ。
八百足らずの那古野城の兵だけでは足りないということもあり、信長は末森城から二百人を臨時に派遣させた。
当然、林通勝は会見自体に反対していたが、すでに決まってしまったことに逆らうことはできず、柴田勝家を目付役として派遣することで我慢をすることになった。
勝家は家中の若い武士の中で反信長派の筆頭というべき立場であったが、認めておらずとも当主の命令なので従わざるを得なかったのである。
双方ともに間諜としての草のものを富田に送り込み、下準備は万端であった。
ただし、道三としては聖徳寺に入る前にするべきことがあった。
「大うつけを見たい」
いつものごとく簡単に命じられた氏家が、信長の一行が通るであろう適当な百姓の家を押さえて、そこに忍ぶように手配した。
街道が自由に見渡せる絶好の場所であった。
ここでならば信長の顔も拝めるであろう。
わずかな警護しかつけずに、こんな危険な真似をする主人に呆れつつも、氏家は従った。
完全なお忍びだと疑いもしない。
だが、そんな道三を百姓の家の外から見張り続ける男がいた。
半里離れていても動物とヒトの区別をつけられる眼を有する蛮人であった。
しかも、木曽川を渡る遥か前、鷺山城を出発したときよりずっとイサクァによってつけられていたことを知るよしもなかった。