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第30話 独り立ちのとき


「爺、爺、死ぬな!」


 十九になった男が、老人の死骸をかき抱き、周囲を憚らず泣きわめく姿は異様だった。

 父の葬儀でも涙一つ零さなかった男が、である。

 慟哭。

 まさに慟哭であった。

 あまりの激しさに、平手政秀の長男である五郎右衛門が悲しむこともできず、じっとその有様を見詰めるしかなかったほどである。

 月が隠れ、暗闇に等しい夜のため、蝋燭でゆらゆらと揺れる主君の顔はあまりにも昏かった。


(――このお方は生涯苦しむことになるだろう)


 五郎右衛門は、信長が政秀の数年前に書いた忠諫状の内容を暗誦できるほど読み込んでいることを知っていた。

 わかっていても素行に反映させることができなかったのは、余人には知らせることのできない何かに関わっているからだと薄々勘づいてもいた。

 大うつけと呼ばれている振る舞いに、いくつも巧妙な芝居が含まれていることも父親からの指摘でわかっていた。

 外見と行状のみで信長を判断すると痛い目にあうということも。

 少し前に、五郎右衛門の飼っている駿馬を信長が欲しがっていて、それを断られたのを理由として恨みに思い、憎んでいるという噂がたったこともある。

 おそらく、平手一門の取り崩しに励んでいる信勝派の撒いた噂だろうが、那古野城のものたちはそんなことはあり得ないということをよく知っていた。

 時折領内で信長が駆っている白馬の見事さを知らない者にしか流させない嘘に満ちた内容だからだ。

 あの白馬と信長の組み合わせの豪華絢爛さを一目でも見たことがあれば、たかだか五郎右衛門の上等な駿馬などを憎むほどに欲しがるはずがない。

 つまり、信長への悪評のほとんどは、彼のことについて無知なものによる流言飛語にすぎないと一笑にふせる程度のもので、要するに噂による攻撃を受けているということである。

 那古野城のものたちは信長のもとに団結しつつあった。

 中心が平手政秀であった。

 その彼が死んだ。

 形としては、信長に諫言するために死を選んだように見える。

 しかも、城内の納戸で正室帰蝶の侍女が殺されていたことを考慮すると、忍び込んだ曲者による殺害と偽装だと容易に想像がつく。

 これが信長派を崩すための何者かの陰謀以外の何だというのだ。

 しかし、その効果は信長への心理的な打撃が強すぎた。

 ここまで取り乱す主人を始めてみる家臣たちは戸惑い、どうすればいいかもわからなかった。

 逆説的に、このようなときにこそ、平手政秀が必要だったのだ。


「―――三郎殿よぉ」


 身辺を警護する森可成が慰めても、信長の号泣は止まらない。

 どこにこんなに水分が隠れていたのかと思うぐらいに滂沱の涙が続く。

 これ以上は城主としての威厳が危ないと、特に親しいものだけを残して、五郎右衛門は人払いを命じた。

 朝になったら、この事実は尾張の領内を駆け巡るだろう。 

 信長にとっての最大の後ろ盾であった父親と家老を一年ほどで失ったのだ。

 すぐにでも周囲は動き出す。

 平手家の嫡子として備えをせねばならない。

 一族のものをまとめなければならない五郎右衛門はその場から離れ、正室の帰蝶と恒興、そして可成だけが政秀の死骸とそれをかき抱く信長のもとに残った。

 ただ、嗚咽と思い出したかのような慟哭だけが流れる悪夢であった。

 しばらくすると、障子がすっと開いた。


 信長以外の視線がそちらに注がれる。

 現れたのはおかしな姿をした赤黒い肌の異人であった。

 一同は驚きの表情を浮かべる。

 なぜなら、彼らがこの異人が城内の建物には一切上がりこまないことを熟知していたからである。

 どんなに誘っても畳はおろか板の間にすら上がろうとしない男なのだ。

 身分を考えてのことでないのは明らかである。そんなものに鼻もひっかけない蛮族であるのだから。

 その異人―――イサクァが緊急事態とはいえ城に上がってきた。

 何か理由があるのは明白だ。

 イサクァは室内を見渡して、嘆く信長を一瞥する。

 状況はすぐにわかった。

 悲しむものを責める言葉は吐かない代わりに慰めもしない。

 人の死の意味は、いい日に死んだかどうかだけ。

 それがわかるのは死人だけだろう。

 信長の隣に片膝をつく。

 愁嘆場を無視して、顔を近づけてくんくんと鼻を鳴らした。

 信長ではなく―――政秀の死骸に。

 今度は周囲が色めき立った。

 共感できない、まるで理解できない異常そのものの行動。

 身を揉むように泣いていた信長が不意に顔をあげた。


「なんだ……?」


 イサクァはしばし沈黙してから囁くように言った。


『〈悪霊〉の臭いがする。おまえをずっと狙っていた奴だ』

「なん……だと?……」


 雷に打たれたかのごとく信長の無表情にひびが入る。

 分厚い冬の氷に鉄塊を叩き落としたときのように。

 それは、どこかへ消えていた感情が主人のもとに戻ってきたかのようでもあった。


「―――まさか、爺を殺したのは……」

『間違いなかろう。執念深い奴だ。ついに、ここまで辿り着いたとみえる』


 刻が止まったかのような無音の時間が続き、信長はそっと政秀の死骸を横たえた。

 政秀を殺した十兵衛の仕草とは正反対の優しさと赤心に満ちていた。

 老人の血で赤く染まっている着物を気にせずに、手を合わせた。


「爺、おまえはおれなんかに肩入れしたために、こんなにも無惨に殺されることになったのか。おれなんかに…… なあ、おい。聞いてくれよ。……辛いなあ、爺よ」



 最後に流した涙が一気に体温で乾いていくのは、熱くなった魂が肉体を燃やそうとしているからであろうか。

 父も育ての親も奪われて、たった一人で遺された子どもは、すべてを欲しがる駄々っ子ではいられない。

 彼を無条件で守ってくれるものはもういないのだから。

 今からは自分で探さなくてはならない。

 戦いつつ。

 悲しみつつ。

 ただ一人で。


「……殿、各務野は情深き女でありましたが、男を受け入れたのは鷺山城でだけだと聞いたことがございます」


 帰蝶が言葉を選びつつ言った。

 彼女も美濃の国以来の自分の侍女を殺されたことに憤っていた。

 そして、彼女の知る限り、各務野という女は惚れて捧げた男以外に素直に従うものではない。

 そうであるのならば、この城に刺客を招き入れたとすると、それは鷺山城にいたもの―――美濃衆の何者かに限定されることになる。

 帰蝶は、彼女の実家斎藤家に関わる何者かが下手人であると指摘したのだ。


「……爺を殺した下手人は蝮どのかもしれぬぞ」

「わたくしは三郎信長の妻でございます」

「であるか」


 信長は帰蝶にさえ振り向かずに外に出た。

 美しい月が出ていた。

 さっきまでは黒々とした雲に隠されていた。

 いつのまにか月を覆い隠す雲を強き風が追い払っていたのだ。


「―――蝮に使いをやれ。富田の聖徳寺までおれの顔を見にこいとな」


 そして、その年の四月。

 那古野城の大うつけと美濃の蝮は初めて邂逅した。

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