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終章

第32話 〈悪霊〉の奸計


 信長の一行がやってくる前に、先触れとして若い足軽たちが走り抜けていく。

 しばらくして響きを立てて、千人の織田衆が近づいてくる地鳴りがした。

 ほぼ先頭集団に信長がいた。

 道三でさえはっと目がくらむような美しい白い馬に乗っている。しかも、馬には銜も手綱もついておらず、ただ鞍が乗っているだけの優美さであった。帝でさえあれほどの名馬を手にしてはいないだろう。


 だが、信長自身の格好はというと、まさにとんでもないものだった。

 天に届かんばかりの茶筅髷、赤い浴衣を着て、獣の皮で出来た半袴、片袖を外した右手には鉄砲を抱えていて、大小の刀は差してもおらず、太刀持ちらしきものが抱えている。道三とて、初めて見る異相であった。

 婆娑羅と呼ぶのも生ぬるい、恐ろしい異国の蛮族のようであった。


「なんだ、あれは……」


 さすがに言葉を失った。

 そのうちにおかしなことを始めた。

 信長を運んでいる白馬が、まるで道三の存在に気付いているかのようにこちらの方を向き、高らかに嘶いたのだ。

 それを合図としたかのように、信長が背中に背負っていた鉄砲を持ち替える。

 随行していた小姓らしい少年が恭しく差し出した何かを鉄砲に回した。

 鉄砲についての知識がある道三には、それは火のついた縄による点火だとわかる。

 そして、銃口を向ける。

 道三目がけて。

 タァン。

 鉄砲の射程距離ではないため、当たることはなかったが、道三は震えた。


「あやつ、儂を狙いおった」


 隣にいた氏家直元は首を振る。

 まったく信じられない出来事であったからだ。

 道三の居場所を見抜いていた?

 あえて撃った?

 そんなバカなことがあってたまるものか。

 自分がいる方に目掛けて鉄砲で撃たれるというかつてない体験に慄然となる道三。

 それに、例え領内といえども兵が移動中に戯れに鉄砲を撃つ武将などいるものか。

 しかし、銃先は完全に隠れ見をしている道三を狙ってやったとしか思えない行動であった。

 信長は射撃がなかったかのように、そのまま悠然と馬を進めていく。

 信秀の頃とはまったく違った軍装となった兵を率いて。


「―――足軽の槍はすべて三間槍でございます。ざっと見たところ、五百。あれだけ長ければいくさで間合いを取られたら懐に入れなくなります」


 足軽たちが天に構えた槍はすべて赤く染め上げられていて、全体として統一された意匠になっていた。

 行進も足並みが揃っていて、日頃の訓練による練度が想像つく。

 鍛え抜かれた清栄のものであった。


「弓は三百、鉄砲も約二百。まさか、尾張にあれほど数の鉄砲があるとは……」


 弓はともかく、ざっと数えただけで鉄砲の数が尋常ではない。

 鉄砲の優位性に気づいていた蝮の道三といえど、美濃一国において三十挺ほどしか所有していないのも関わらず、信長の部隊はその六倍強を所有しているのだ。

 あれは一つの部隊としていくさにおいて運用が可能な数である。

 明敏な道三の思考はまたたくまに戦略での優位性を見抜いていた。

 ただし、思考が現実に見たものに追いつかない。

 想定をまったくしていないほど高い質を備えた軍勢である。

 実際に視察に来てよかった。

 そう道三は心底思った。


「……あの小僧、狂っておるわ」


 これが疑いようのない、蝮と呼ばれた男の本音であった。


   ◇◆◇


 ……道三が裏木戸から抜け出し、信長たちよりも早く聖徳寺に到着するために、迂回して馬を飛ばしていた頃、同様にじっと織田家の軍勢の行進を見詰めていた異人も動き出した。

 鉄砲など見たことも聞いたこともない見物人の群衆は、音のした方角、撃った信長しか注目していないが、イサクァは逆に弾が命中した地点を観ていた。

 道三が隠れていた小屋。

 すぐ脇に、男どもが潜んでいた。

 どうして道三の一行が気づかなかったというほどにすぐ傍に。

 道三たちが出ていこうとするのを為すすべもなく見送ったこの男どもは、冬景色に溶け込みやすい装束を身にまとっている。

 彼らは忍びであった。

 信長が戯れのように鉄砲を撃つ寸前、忍びたちは白昼堂々と小屋の内部に押し入り、襲撃するつもりであった。

 しかし、信長の発砲によって気勢をそがれるどころか、完全に踏み込む機会を逃してしまったのだ。

 信長のうつけの格好などを嘲笑い、いささか緩み切っていた道三の警護たちもその後の鉄砲部隊の行進に度肝を抜かれた。

 中立地帯といえども、ここはもともと敵地の尾張だという事実を思い出し、再び緊張が高まった。

 油断しきっていたものを奇襲するのとはわけが違う。

 そのため仕方なく忍びたちは襲撃を断念したのである。

 忍びたちにとっては、蝮の道三が単独で行動するという本来はありえない絶好の暗殺機会を逃してしまったのだから腹立たしさは比較にならない。

 地団太を踏んで悔しがった。

 またも、あの尾張の大うつけの奇行によってしくじったのだ。

 この借りはいつか返さなければならないと、彼らは忍びらしからぬ執着を信長に抱くようになるのだが、それはまた別の話であった。

 とはいえ、依頼は失敗したのだ。

 すぐにでも依頼主に報告せねばならない。

 忍びたちは逃げ出した。

 やや油断していたともいえよう。

 まさか追跡してくるものがいるとは想像もしていなかった。


 イサクァは一里離れていても、目標とした野生動物を目視しながら追跡することができるショショーニ族である。

 隠密を旨とする忍びでさえ、それだけの距離を置いて尾行されれば気が付くことなどない。

 そして、イサクァは山の中を忍びと同等、いやそれ以上に駆け抜けることができた。

 忍びたちは一直線、最短距離で駆け、目印となる廃寺に辿り着いた。

 ここに彼らの依頼主がいる。

 合図として打ち合わせていた鳥の鳴き声を真似ると、奥から背の高い武士が一人現れた。

 忍びとの約定は常に代表者の一人で行うと相場が決まっている。

 大名から仕事を受けるときは窓口の統一を目的として、個人から受けるときは秘密の漏洩を恐れて、のことである。

 この約定を違えば、どんなに信頼のおけるものでもその場で殺されても文句は言えない。

 依頼主の武士もその約定を守ったのだ。

 天海十兵衛というのが、表向きのその武士の名前であった。


「……蝮殿を刺せたのか」


 その問いに対して、忍びの小頭は首を振った。


「しくじった。襲う寸前によけいなちょっかいが入ったのだ。我々の存在こそ気が付かれなかったが、そのまま逃げられてしまった。まったく、美濃の蝮の強運はたいしたものだな」

「全額前金で支払ったはずだ。……しくじったではすまされんぞ。なにしろ、蝮殿は刺客を恐れて滅多に外に出なくなっている。此度の会見は最大の好機だった」

「わかっている。我らの誇りにかけて、これから鷺山城に潜り込んでも仕事は成し遂げる。人数ももっとかける。それについての追い銭はいらん」

「当然だ。前金をもらってしくじったなど、貴様らにとっては死活のはずだ」


 侮蔑に満ちた言葉を小頭は聞き流し、そのまま背を向ける。


「―――あの、大うつけ。すべての道々の者がおそれる〈死人〉のおぬしにとっても天敵やもしれぬぞ。古い馴染みとして忠告しておく」

「三郎信長が? あれはただの婆娑羅よ」

「そうであればいいがな、十兵衛」


 音もたてずに忍びたちは去っていった。

 あっという間の出来事である。

 廃寺には、自らのことを天海十兵衛と名乗る武士だけが残った。

 誰かがいたという気配すらも消えている。

 さすがは忍び、である。

 ただし、十兵衛は単純に感心することはできなかった。

 わざわざ誂えた工作がまたも失敗したのだ。

 今回は、蝮こと斎藤道三を織田信長との会見に誘い出し隙を作り、大枚をはたいて雇った忍びの襲撃で亡き者にする策だったというのに。

 そのために、色々と行った根回しがすべて水の泡だ。


「―――こうまでうまくいかないとは……」


 十兵衛は近頃、何事もまったくうまくいかなくなっているような空虚な手応えに悶えた。

 尾張に手を出すようになってから、何度も感じてきた虚しさだ。

 まさか、さっき忍びが言ったように織田信長が本当に彼の天敵といえる存在だととでもいうのか……

 そんなことはないと首を振りかけたとき、ぼうぼうに荒れ果てた境内の隅に見覚えのある男が立っているのに気が付いた。

 彼らしくない油断だった。

 まさか、こんな近くに他者の接近を許すとは……

 だが、それも仕方のないことかもしれない。

 立ち尽くすのは、顔に乾いた土を塗り、目の下に涙のような石灰を塗った男だったからだ。


「―――那古野の蛮人か」


 だいぶ前から噂にはなっていた。

 那古野の山の奥には襤褸の着物をまとい、泥で化粧をした狒狒がでるという。

 信長が退治しようとして戦い、なぜか友情が芽生えたという話も流れている。

 十兵衛も一度出会っている。

 確か名を……


『おれはイサクァだ。〈悪霊〉よ。遂に追いつめたぞ』


 と、高らかに宣言したのであった。

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