刃刺の弥多は、腹の立つ噂を聞いて居ても立っても居られなくなっていた。
愛用の銛を掴むと鵜殿の中を走り回った。
百戸もない小さな村だ。
しかも、ほとんどが小屋程度の建物しかない。
その気になれば簡単に村中を回れる。
すぐに目当てのものを見つけることができた。
「おい、わいつ」
呼び止めたのは五本の銛と藁でできた案山子を担いだ巨漢だった。
大きい。
船乗りにしては筋肉が付きすぎている。
銛を打つ為に鍛えるのは必要だが、狭い舟を移動するのにあまり大きすぎるのは不利だ。
この男は漁師としては規格外なのである。
だが、それも当然。
この権藤伊左馬はもともと漁師ではない。
「なんだ、弥多か」
弥多と違って権藤は顔色一つ変えていない。
彼からすれば、日課の鍛錬に行こうとしている途中に急に知り合いに呼び止められただけのことなのだ。
弥多ほど感情がむき出しになっているはずもない。
それに声をかけられた理由もわかっていない。
「わいつ、どこに行く」
「銛打ちの鍛錬だ。わしはまだまだ未熟なのでな。わずかな刻も惜しまねばならんのだ」
「本当か?」
「嘘を言ってどうする」
権藤は平然と返した。
「お汐となにをしているんだ」
思わず、そう問い詰めてしまいそうになった。
だが、弥多は辛うじてそれをこらえる。
呼び止めてはみたものの、噂の真偽は定かではない。
単に、権藤が銛打ちの練習をしているのをお汐が見物に行っているというだけの話なのだ。
二人が睦あっているというわけでもなく、男と女の関係にあるというものでもない。
噂もまだそこまで下種な段階には達していないのだ。
だから、あえてことを荒立てるべきではない。
それに、この権藤という男はもともとは―――武士だったのだ。
しかも、六番舟の刃刺となっている。
四番舟の長として、いくら若い者同士とはいえ舟長同士が揉めるのはとてもまずい。
「ふん、侍のくせに鯨漁師になったやつは銛打ちがいつまで経ってもうまくならんのか」
あてこすってみた。
何かあったのかと耳を澄ましていた村人たちはぎょっとした。
明らかな挑発だったからだ。
ここのものはみな、権藤伊左馬がもと武士であり、家がつぶれて浪人になった挙句、藩の命令で鯨漁師になったことを知っている。
まだ士籍は削られておらず、藩さえ許せば他の土地に行って仕官し侍に戻れる立場であることもわかっている。
この第二の鵜殿が藩直営の鯨漁基地であり、太地と異なりその運営を武士が牛耳るためのいわば要石としての立場ということも。
同じようなもと武士は他にも数名いたが、刃刺というか実際に漁師となっているものは権藤だけだ。
その権藤と諍いを起こすということは新宮藩と揉めるということだ。
村としては遠慮したい事態である。
挑発された権藤がどういう反応を示すか、周囲はかたずをのんで見守った。
だが、彼はのんびりと、
「うむ、まだわいつたちに比べればうまくいかん。さすが、太地で生まれながらに鯨と生きてきたものどもよ。わしも、そちら側に産まれたかったぞ」
特別、挑発を受け流したわけではない。
言葉通り、そう思っていたのだ。
太地で生を受けたかった、と。
権藤は鯨漁に憑りつかれていた。
生計を立てるために漁をしている他の村人たちと違うのはそこであった。
もと武士だからなのか、生来の性格なのかはさておき、権藤は鯨漁という仕事そのものに惚れこんでしまっていたのだ。
それは五年前にこの村ができたときに、藩の肝入りでやってきて以来変わらない情熱であった。
刃物を使うのはまったくの素人ではないが、それでもほとんど漁が初めてという段階で舟に乗り、あっという間に刃刺の位置についた。
藩の意向に村の重鎮が従ったというのもあるが、誰よりも漁に詳しい大地角右衛門までが推挙したこともある。
「伊左馬殿を刃刺にせよ」
と。
もともとできたばかりで、大地のような世襲制となっていなかった鵜殿では、実力だけが村での地位の序列をあげる物差しだ。
そして、銛打ちについて権藤は凄まじい膂力と感覚を持っていた。
人手が少ないため、太地のような網漁ではなく、昔ながらの銛漁が中心の鵜殿ではその投擲能力がなによりもものを言った。
一番から三番船は全体の船団の指揮を執るための経験が必要なので、太地から連れてこられたものどもが刃刺となったが、四番船からは誰がついても問題がない。
権藤は実力で六番船の舟長となったのだ。
その権藤に「おまえの方が銛を打つのが上手い」と言われても素直に喜べるはずがない。
弥多もわかっている。
だからこそ、腹が立つ。
「いつまでもいい気になるなよ。藩の犬が」
「なってなぞおらんよ。誤解されているのかもしれんが、わしはもう武士に戻る気はさらさらないのだ。これ一本で生きていく覚悟はできておる」
手にした銛を握りしめる。
顔にはやや照れがあった。
こんなことを自分が口にしていいものか、権藤なりの葛藤があるのだろう。
ただ、口にしていることは嘘偽りなく本当だった。
「だが、どうした? わいつらしくないぞ」
「わいの何がわかるというんだ。あざけるなよ」
弥多には権藤がわからない。
わかるはずもない。
生まれも育ちも死生観も、何もかもが違う。
腹腔に熱く焼けた鉄が突っ込まれたようだった。
弥多は顔がくっつかんばかりに接近し、
「次の漁では忘れるなよ。所詮、侍あがりなんぞに鯨漁の神髄はわからんというのを教えてやらあ」
それだけ吐き捨てると弥多は去っていった。
遠ざかる背中を、権藤は首をひねって見送る。
生粋の漁師生まれが彼のような転んだものを敵視するのは理解できるが、弥多にはそれ以上に突っかかられている気がしてならないと思ったのだ。
弥多にわからないように、権藤からも弥多はわからない。
理由がさっぱりなのに突っかかられては身の処しようもなかった。
だから首をひねるのだ。
権藤伊左馬は自分と幼馴染の関係を弥多が疑っているなどということは夢にも思わないのであった。