太地の網捕り法が確立するまで、捕鯨は銛突き法という、読んで字のごとく銛を中心に行われていた。
それまでは人間用の弓矢や槍・鉾といった武器で、傷ついたり老いたりして動きが鈍った鯨を捕えてきたが、銛という先端に逆鉤のついた刃先が抜けず、尻には舟に結び付いた綱をつけるという道具が発明されたことで捕鯨漁が格段に上がっていた。
室町時代の末期から、銛突き法が洗練されていき、銛を何本も打つ為に必要な人数を集める組織も作られるようになっていく。
沿岸地方に配置された大名も、藩で経営する鯨方を作り上げて、捕鯨に手を出し始めていた。
紀伊新宮藩が鵜殿で始めた鯨方もその一つであった。
ただ、太地村という他にはない大きな鯨方があるにも関わらず、あえて第二の鵜殿村というべき鵜殿鯨方を始めたのは、捕鯨によるあがりを直接藩にいれたいという欲が滲み出ているのは疑いようがない。
すでに存在している古座や三輪崎にある鯨方よりも、さらに影響力の強い藩直轄という立場が如実に物語っていた。
自分の仕事で忙しいはずの太地角右衛門に直接の指導をさせたのもあまりにも露骨すぎた。
ただし、いかに角右衛門の手助けがあったとしても人数が少ないできたばかりの鯨方では、太地と同じように洗練された網捕り捕鯨はできない。
それゆえ、時代に逆行する形で、鵜殿では銛突き法が採用されたのである。
銛突き法とは、単純に言えば鯨を舟で取り巻いて銛を打ち、鯨が潜航して逃げないように銛の尻についた綱で鯨を巻きつけて獲るというものである。
もっとも、どんなに多量の銛を打っても取り逃がすこともあり、体躯の大きな種類―――例えばマッコウクジラなどはとうてい仕留めることはできないという欠点があった。
効率が悪すぎるのである。
そのため、太地では角右衛門が網捕り法という手法を考案し、鯨の行く手に網を張って、そこに追いつめ、網に絡まって身動きが取れなくなった鯨を一斉に攻撃して仕留めるようにした。
ただし、網捕り法の効率はいいが、はるかに規模が大きく、少人数の鯨方ではできない。
鯨舟10隻、乗員100人前後をかろうじて用意できただけの鵜殿ではそもそも不可能な手法である。
後々、網捕り法に移行するとしても、人手が少ないうちは手持ちの駒でやりくりするしかないのだ。
鵜殿で時代遅れの銛突き法を採用したのはやむにやまれぬ事情があったという訳である。
とはいえ、できたばかりの鵜殿ではそこまで厳格な漁獲量は期待されていなかったこともあり、銛突き法で足りたともいえる。
ただし、役回りなどについては太地の習慣がそのまま使われていたのは、もともと村のあぶれ者が流れる形でできた場所だったからというしかない。
これらの事情もあって、鵜殿では、河口の周辺の海で比較的小型の鯨をとることに集中することにしたのである。
鵜殿の捕鯨のやり方は、まず港に近い高台に張りこむ山見という見張り役が鯨を見つけると、狼煙とほら貝で鯨方に知らせる。
彼らの役目は捕鯨時の指揮役も任されており、重要な役どころだった。
太地の場合では、網を張る位置まで決定することになっている。
次に、実際に銛を打って鯨を仕留める漁師たちがのる勢子舟であり、その船長が刃刺と呼ばれている。
各舟と連絡を取り合い、自分の指揮下の舟を操り、銛を打つ役割だ。
一艘の舟には十五人ほどの
太地では罠の中心となる網をはるための網舟も三艘あるが、これは念のために張られる程度の扱いでしかなく、網でからめとることはそもそも予定していない。
そのため、仕留めた鯨を持ち帰る持双舟の役割も兼ねており、十艘の限りある舟での運用が想定されていた。
そして、今のところはさしたる問題もなく順調に進んでいたのである。
◇◆◇
その日―――水平線の先に潮が吹きあがった。
捕鯨には早朝が適している。
未明には海上に待機していた猟夫たちを朝陽が優しく照らすだけでなく、光の加減もあって鯨の黒い影が発見しやすいからだ。
経験と知識から鯨の回遊路になっている潮流の傍でじっと時がたつのを待っていた海の狩人たちにわかりやすいように、ほら貝を吹く。
朗々とした音色が響き渡る。
日ノ本の住民たちはこのほら貝の音色にいくさの始まりを覚えるが、それは捕鯨においても変わりはない。
一番の勢子舟が呼応して、ほら貝を吹きならし、前へと飛び出していく。
セミクジラを意味する合図の旗があがった。
太地でならば、ここで村長からの開始の合図があるが、鵜殿では省略されている。
一番舟の刃刺に完全に任されているのだ。
伝統と生まれが物事を決する太地と違うのは、鵜殿ではまず実力が第一となるということだった。
そして、一番舟の刃刺は海上では村長よりも上とされる。
本来、鯨獲りの船団には指揮を執る沖合という役が、舟の長である筆頭刃刺とともに一番船に乗り込むのだが、人手が足りず経験者も少ない鵜殿ではその二つを兼ねざるを得ない。
この時の筆頭刃刺の名は勝太夫。
太地の鯨組においては、刃刺に選ばれることで優れた職人として太夫という称号を与えられ、改名することを習わしとしており、この風習はその後日本中の鯨捕りに広まっていった。
太夫という称号には、物事に精通している者という意味合いが含まれているため、銛突きのみならず操船についても優れた人材でなければならず、刃刺になるにはそれだけの修練が必要となる。
もっとも、鵜殿の鯨組においての刃刺たちはまだまだ経験が足りない若輩者扱いで、太夫と呼ばれているのは親父と呼ばれる一番船、二番船、三番船のものたちだけであった。
山見の指示に従い、網舟が目標の鯨の進行方向に網を張る。
もしも、うまく追い込まれて引っかかってくれたらご愛敬様という程度の他愛ない仕掛けだった。
鵜殿の鯨漁はすべては銛打ちにかかっているのだ。
網には頼らない。
山見からの旗の合図で鯨の種類はもう掴めている。
彼らは体の大きさだけでなく、噴気、泳ぎの速さなどの様々な情報から正確に鯨の種類を判別し旗で教えてくれるのだ。
セミクジラだ。
このセミクジラは、ゆっくり泳いで、正面から口の中に海水を流しいれ、髭板を通して押し出し、濾し取られた獲物を食らう。通常ならば深い水中でする採餌をこんな水面すれすれでやるのはとても珍しい。
おそらくまだ若いのだろう。
用心深さが足りていない。
「セミか。―――でかいし、若いぞ」
一番舟の刃刺である勝太夫が喚いた。
喚くぐらいの大声でなければ通じないのだ。
「いや、いい天気ですなあ。これだけ晴れ晴れしていると鯨狩りもはかどりそうだ」
「くだらんことを抜かすな。漁は仕留めるか、取り逃がすか、それだけだ。気分など終わってから決めることだ」
「刃刺は頭が堅い」
刃刺の助手といっていい役回りの刺水夫とくだらないことを騙りながらも、勝太夫の指示の下、残りの六艘が陣形を敷いていく。
網捕り法ではないため、通常の追いみ囲む操船では無駄が多い。
そのため、銛突き法では鯨に並走する形での舟を動かす。
またも潮が上がった。
セミクジラの噴気は、高さが六尺から九尺(約2~3メートル)で太く、前後からみると二股に分かれている。
居場所を自分から教えてくれるようなものだと、勝太夫は獰猛な笑みを浮かべる。
鯨捕りとなって二十年ほど。
流れる血が病みつきになってしまった男である。
銛が刺さったときの鯨の叫び声で興奮してしまうぐらいだ。
「まだ、気づいていねえな。楽しい飯の最中だからか」
人間たちの接近に気が付いたときには、一番舟はすぐそばまできていた。
尾羽が振り上がり、叩きつけられた海水が瞬時に霧となる。
逃げることにしたようだった。
ただ、その逃げ方はまっすぐなだけだった。
勝太夫の言う通りに、まだ若いのだろう。
こうやって人間の船に寄られた経験がないのだ。
セミクジラは群れを好まないくせに、用心深さが足りない。
漁師からすれば恰好の獲物である。
その進路を遮るように斜めに一番舟が入りこむ。
網に誘導する必要がないため、舵を調節する必要性がないからか、全力漕走がしやすい。
運がいいことにこのまま泳いでくれれば、網舟の張った網に突っ込む角度だった。
(さて、懐かしい網捕りでもするか?)
少し思案したが、すぐに首を振る。
「駄目だな。しめしがつかん」
並走しつつ、舵を握る艫押に行く手を塞ぐように命じる。
駆け引きはいらない。
沖へと逃げようとする鯨を好きにさせなければいいだけだ。
刺水夫が銛を差し出した。
刃刺の補助として、銛を用意したり、砧で舟の側面につけた張木を叩いて鯨を混乱させたりする役どころで、海の上での女房役といっていい。
気心が知れないとやっていけない役どころだ。
「二番舟の錦太夫と三番舟の花太夫にとっとと追いぬくようにいえ。あとはそのままわいらに続け」
耐久力では鯨に劣っても、短時間での全力艘走は勢子舟が上回る。
一番舟は並走しているが、四番から七番までがぴったりと後ろに張り付いた。
鯨は舟から距離をとろうと足掻くが、慣れない窮地のためか目論見通りには動けない。
賢いはずのセミクジラでも若さゆえに恐慌状態に入ると思考が硬直化するのだ。
潜水して逃げるという発想にいたるまでに時間がかかりすぎた。
セミクジラは潜水の前に五数える間に楕円の形で潮を噴き出し、それが四回から六回繰り返される。
そのため、潜る瞬間がわかりやすく、さらに最後の噴気後に頭を海面から高くあげて深々と息を吸うという特徴がある。
潜るときには頭を下げて深い角度に肉体を曲げて、尾羽を器用に使って直角の姿勢で下りていく。
ゆえに、ようやく潜行するため尾羽を振り上げようとした瞬間、早矢銛を振りかぶった勝太夫が吼えた。
「てぇ!」
早矢銛がセミクジラのずんぐりとした黒い背中に突き刺さった。
この銛での投擲はいったん高く天へと投げ上げてから、落下速度を利用して皮膚を突き破り肉に食い込むという方法となる。
鯨への接近を避け、急所を狙うためには長年の修練がいる。
だが、刃刺の中でも太夫という称号を与えられるものは、これを難なくこなす。そうでなければ与えられない称号なのだ。
勝太夫の放った銛は見事に弧を描き、分厚い鯨の皮膚を突き破った。
初めて受けた痛みにセミクジラが啼く。
おかげで潜るのにしくじった。
それでもなお反射的に潜水を試みようとするが、次々と他の勢子舟からも銛が飛んできて打ち込まれていく。
錦太夫と花太夫がそれぞれ銛を投擲すると、水夫たちもそれに倣う。
グサグサグサと二本、三本、四本、五本と次々にセミクジラの黒い皮膚を突き破り銛が刺さっていく。
すべてが命中し、鯨の背中は槍衾ならぬ銛衾となった。
眼にしていたすべての水夫たちが歓声を上げる。
ここまで見事な腕前そろいの船団はそうはないからだ。
しかし、最高の歓声はその次であった。
ドスっと弧ではなく水平に突き立った銛があったのだ。
銛にはかなりの重量があり、さらに尻に綱が付いているため、水平投擲では鯨の厚い皮下脂肪を貫くことはよほどの膂力の持ち主でも難しい。
にもかかわらず、その銛の投げ手は落下速度の力を借りずにセミクジラの頭に突き立てたのだ。
銛は「一番銛」が最も栄誉あることとされ、「二番銛」「三番銛」と報奨金が与えられることになっているため、この銛の主は何ももらえない。
だが、目撃した突組のほぼ全員がこの最後に突き立った銛とその投げ手の凄まじい腕前に震えた。
すでに何度も目の当たりにしているが、それでも慣れることはないかもしれない。
同じ刃刺でも感想は同じだ。
「……ち、化け物め」
吐き捨てたのは弥多であった。
彼の銛は三番銛となっているから、当然、報奨金が出る。
無事にこのセミクジラを仕留めることができれば、あの凄まじい銛の主とよりも功績は上ということになる。
ただし、他の連中がどう思うかはまったく別の話だ。
つい先日、弥多は喧嘩を売ったばかりなのである。
次の鯨漁のときに覚えていろという捨て台詞も吐いたばかりだ。
このままで終われば、まるで負けてしまったかのような印象が付いてしまう。
実際はそうでなかったとしても。
(どうにかしねえと……)
弥多は焦り始めた。