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第7話 クジラ漁 弐

 弥多がある意味では一人相撲をしているときに、先ほどの凄まじい銛の打ち手である権藤伊左馬は六番舟の刺水夫から次の銛を受け取った。


「やりまんな、権藤さま。この調子ならば、そろそろ太夫の名がもらえますぜ」

「権太夫あたりになるのか? ちぃとばかり気が乗らんのぉ」

「何を言ってやす。鯨漁師たるもの、誰だって刃刺になりてえもんですし、刃刺となったら太夫の名が欲しいってもんですぜ。権藤さまほどの腕の冴えなら、何の問題もありゃしませんって」


 刺水夫をはじめとして、六番舟の乗組員たちはこの無骨な浪人あがりの刃刺を慕っていた。

 最初の頃は身分による反発もあったが、いつのまにか馴染んでしまった。

 権藤の豪放磊落な性格と、海にでたら一個の漢でしかないという船乗り特有の死生観を共有できていたこと、そして何よりとてつもない銛の腕前が認めざるを得なくさせたのだ。

 なによりも、陸の上でも分け隔てなく漁師たちと接することができる、この気のいい若者が荒くれものたちに好かれないはずもない。


「それより、権藤さま。さっきから、弥多のやつがずっと睨みつけてきていやがりますぜ。うちの進路もそれとなく邪魔してくれてますし。文句をつけてやりやしょうか」

「四番舟がか? もしかして勝太夫殿の指示を破っているのか」

「いいや、そこまでじゃあ……」

「なら放っておけ。弥多はこのまえからちぃとばかり機嫌が悪いだけだ」

「しかし……」

「ゆがらにもそういうことはあるだろう。放っておくのが一番だ。掟を破っている訳じゃなかろうし」


 権藤からすれば、弥多が絡んでくることなどどうということもない。

 もちろん、もと武士として、新宮藩の覚えがあるものとして、刃刺とはいっても所詮漁師のいうことなど意にも介していない、というわけではない。

 武士階級にあったものとして権藤はそういった身分差をすぐに思い浮かべることはない男である。

 彼にとっては弥多のことなどよりも、鯨漁のことと、そのための銛の鍛錬の方が重要だっただけであるだが。


「それよりも、わいつらも打てそうならば銛を打っていけ。こんなにでかいセミだ。一度は潜ってくるかもしれんぞ」


 権藤の言葉通りに、セミクジラは上下どちらも黒く先にいくほど深い切り込みのある尾羽を振って潜水を開始した。

 セミクジラは水中で四半刻ほど潜っていられるが、結局は呼吸をしなければいきていけない。狙いはそこだ。

 勝太夫らはこれまでの経験と、今の目標の動きから、いつ頃呼吸のために顔を出すか計算し先回りをせんと舟を動かし始めた。

 散々突き刺した銛の尻から伸びる綱には葛という浮き輪が付いているので、それも目印になる。

 潜水時間が小半刻としても、あれだけ銛を刺されていたら、実際には半分も耐えられないと勝太夫は考えた。

 その読み通りに、普段の半分ぐらいの時間で浮き上がってきて海面に影をみせた。

 水泡があった。

 その下にセミクジラがいる。

 渦が生まれて、海面を貫いて、巨体が飛び上がる。

 大きく弧を描く口に二百本以上の髭、体長の四分の一から三分の一を占める頭からである。

 待ち構えていた人間どもを自分が生み出した波で攫おうとでもいうかのごとき跳躍だった。


 海面がうねる。


 波が叩きつけられて、舟が転覆するかのごとく揺れる。

 大量の水飛沫を浴びても舟は一隻も転覆しなかった。

 この程度の反撃、捕鯨ではよくあることなのだ。

 死に物狂いで四角い胸びれをふりまわし、怒涛の勢いで尾羽を叩きつける。

 荒れる海面を勢子舟は進み、さらに至近距離から銛を打つ。

 セミクジラは弱ってきていた。

 今だとばかりにまたも銛が突き刺さっていく。

 特に強烈なのは、やはり権藤の投げるものだった。

 第一投のときと同様、水平に投げられ、しかも他の銛よりも深く抉り突き刺さっていく。

 正確に急所に何本も差し込むのはもはや奇跡としか言いようがない。


 他の投げ手のものも合わせて、六十本ほどを全身から生やして、剣山のようになったセミクジラはついにおとなしくなった。

 海面は流れた血によって真っ赤に染まっていく。

 ほぼ瀕死だ。

 船団が次にすることは、とどめを刺すことであった。

 それによってはじめて漁が成功したものといえる。


「やれい!」


 四番舟の弥多が大剣を受け取って振りかぶる。

 セミクジラのすぐ脇まで近づけた。

 瀕死の鯨の最期のあがきによって被害を受けるおそれがあるため、それはとても勇気のある行動と言えた。


 これから行う、鯨の心臓を大剣で突き、とどめを刺すのは鯨方の誉れの一つである。

 陽光を刃が反射した。

 脇壺めがけて投じられる。

 見事に突き刺さり、これまでとは比べ物にならない大量の血が吹き出した。

 あまりの勢いに弥多の足元が血にまみれる。

 鯨の絶叫をかき消すかの勢いで、さらなる大剣が他の舟からも投じられる。

 とはいえ、まだ死んではいない。

 完全に死ぬと浮力がなくなってしまうため、このまま浜まで引っ張っていくことになる。


「権藤はん、六番舟が近いから、あんたが鼻きりをやってくれ」


 勝太夫が声を張り上げた。

 鼻きりとは、鯨の障子と呼ばれる鼻弁という部位を刃物できって開く行為である。

 鼻弁は鯨が潜水するために開いたり閉じたりする部位なのだが、これが開いたままになると潜水は二度とできなくなる。

 例え、命があってもこれで鯨の生き物としての生命は終わるのだ。

 本来は水夫がやるものだが、鯨漁師としての経験が足りない権藤のために、わざわざ勝太夫が指名したのである。

 権藤は頷くと、手形包丁をもってセミクジラの上に乗ると、堂々たる足取りで鼻弁に近づき切断した。

 まだ新参者で鯨漁の場数を踏んでいるはずもないのに、まるで産まれたときから鯨漁師であったかのような風格がある。


「わったぞ!」


 水夫たちがまたも大声を上げた。

 でかいセミクジラを捕らえた喜びの声だったが、まるで権藤伊左馬を讃えているようにも見えた。

 弥多からすれば納得できない光景だった。

 勝太夫が権藤を贔屓するのも腹が立つが、武士あがりの未熟な男をたやすく受け入れる他の水夫たちも気に食わなかった。誰彼構わずぶん殴ってやりたくなったが、なんとかこらえる。

 脇壺を刺して実質的に殺したのは自分だという自負がある。

 なのに、権藤だけが目立っている。


 もともとはお汐を巡る確執だったはずだが、弥多にはこの捕鯨という領分においても自分の立場を脅かされているということがどうにも我慢ならなかった……


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