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第8話 解体作業


 かつて太地角右衛門頼治が考案した工夫は、鯨の網捕り法だけではなかった。


 網で捕らえて銛で刺すことで瀕死にまで追いやった鯨を、持双舟という船で挟み込んで曳航するという手法も編み出していたのである。

 これによって、陸から何里も離れた沖で獲れた大型の鯨を浜辺まで簡単に運べるようになっていた。

 ただ殺すだけでは海中に沈んで行ってしまうザトウクジラなども、このやり方によって漁の対象にすることができるということで、これ以降の捕鯨の幅も広がったのである。

 もっとも、太地に比べて鵜殿は三分の一以下の数の船しかないため、持双舟までは準備することができない。

 太地では三十艘で行うものを、わずか十艘で行うのであるから当然である。

 代わりに勢子舟と網舟が持双舟の代わりをしなければならず、鯨との死闘を繰り広げたばかりの漁師たちが疲労困憊した身体に鞭打って曳いていく。

 鵜殿が体力に余裕のある若者ばかりなのは、この若さに依存せざるを得ない台所事情によるところが大きかった。

 まだまだ若い村だからこそできる無茶といえよう。


 船団を率いる勝太夫としては、早めに人数を増やし、一人ずつの負担を減らしていかねばならんと常日頃から思案していた。

 まだ、五年しか経っていないがもう五年である。

 鵜殿の実質的な経営者である新宮藩からは、早く軌道に乗せろ、太地のように稼げという矢のような催促がきている。

 ただ、そんなに簡単に鯨方が組織できるというのならば誰も苦労などしない。

 太地角右衛門でさえ、三代にわたって、何十年とかけて今の繁栄を築き上げてきたのだ。

 半ば素人を集めて作り上げたような村がすぐに先達のように盛り上がるはずもない。


「……まったく陸の侍どもは変わらんな」


 思わず愚痴が零れる。

 すると、坊主頭が蛸のような副船長格の刺水夫が、


「あれだけ暴れまわった熊野の水軍も今となっては落ち目ですからねえ。むしろいつも勇魚と命がけでやりあっている太地辺りのほうがなんぼか修羅場を潜っているんじゃないですかね。熊野にはまともな船乗りはもういませんよ」

「そういえば、わいつ、水軍の出だったな」

「爺様が水軍だったというだけでさ。今でもこっそりとばはんをやっとる連中もいない訳じゃありませんが、血の気のあるやつは太地行きですかな」


 ばはんというのは押し込み強盗のような略奪行為のことだ。

 要するに野盗もどきに堕ちていると言っているのだ。


「風に聞いた話だが、つい最近まで倭寇の真似事をしに大陸にまで行っていた連中もいるそうだな」

「ええ、いまどき八幡船でもあるまいに、ですがね」

「紀伊の殿様の逆鱗に触れんのか」

「ですから、こっそりとばれないようにやっているんですよ。藩のお歴々の中にとっても金が好きな御人がいるらしいでさ」


 勝太夫は新宮藩ともやり取りをしている手前、藩の内情にはそれなりに詳しい。

 刺水夫の今の台詞をきいて脳裏に浮かんだのが一人だけいる。

 名前とは裏腹に誠の一文字のない男だった。


「くだらぬ男の使い走りか。音に聞こえた熊野水軍の名が泣くな」

「まったくで」


 彼らの帰りを待っていた納屋衆の声が聞こえてきた。

 久しぶりの大物に沸き立っているようだ。

 巨大な轆轤を回して鯨を浜に引き上げるための準備をしている。

 女子供も含めた鵜殿の集落にいる人出のすべてを費やさねばならない、一大仕事の始まりである。


     ◇◆◇


 仕留められたセミクジラは解体係の検尺の結果、鼻の先から肛門までが十二間と判明した。

 鵜殿では滅多に獲れない大物である。

 鯨の解体作業はまず血抜きから始まる。

 そのため、海水も砂浜も真っ赤に染め上げられ、上空を死肉に惹かれた鳥どもが舞っていた。

 血の匂いが凄まじく、慣れないものはすぐに嘔吐してしまうほどだ。

 鉢巻を巻いてふんどし一丁になった解体係の魚切りたちが、薙刀のような大型の包丁をはじめとする様々な解体用の道具をもって、定められた慣れた作業に没頭し始めた。

 分厚く、部位によっては一尺もある脂肪を乱暴に切り裂いていく。

 まずはこれを裂かないと、赤身が出てこない。

 赤身をさらに露にするため、轆轤を巻いて脂肪皮をびりびりと剥いでいく。

 切り離された胴体はそのままで、まずは尾から解体していくのである。

 皮を剝ぎとり、筋と肉を分け、内臓を摘出し、骨を外していく。

 どれもこれも手際よくやらないと次の作業に取り組むことができない。

 場合によっては篝火を焚いて夜を徹して行わなければならない大仕事である。


 解体された鯨の部位のうち、内臓・頭部・骨・皮・皮下脂肪などは釜焚き・油汲みなどの係によって、大きな精油釜で長時間煮られて、脂をぎりぎりと搾り取られていくのだ。

 精油釜には、桶が伸びていて油を溜める槽へと流れていくようになっていた。

 槽に溜まった油は海水で冷やされ、油分と蝋分に分離し、前者は加工されて鯨油として各地に売られていく。灯火用と食用、どちらにも使われる便利な品であった。

 後者については、水分を除いて圧搾し、蝋燭に加工される。

 鯨油は菜種油と比べても廉価であり、臭気も比較的少ないため、一般の家庭でもよく使われた。

 また、後のことであるが、害虫駆除役として農家もよく購入するにようになるほど大量消費されていたのである。


 肉もそうだ。

 鯨肉はやんごとなきお方や権力者たちに食され、織田信長が天皇家に、長宗我部元親が豊臣秀吉に献上したという記録が残っている。

 信長自身、珍味として鯨肉を好んで食していたともいう。

 江戸の世になってからは鯨の捕獲量が増え、一般庶民も口にするようになったが、江戸城でも大晦日に鯨汁をだす習慣が定着するほどであった。


 ―――適度に分割された肉片を鉤にひっかけて、運ぶ男たちの中に、ひと際大柄な男がいた。

 ただでさえ、屈強な海の男たちの中でもひときわ大きく、運んでいる肉片も他の男たちの倍はあろう。

 六番船の刃刺であり、元武士であるところの権藤伊左馬は解体現場でさえ異彩を放っていた。

 他の水夫たちが疲労困憊して動けなくなり、隅で死骸のようにだらしなく寝こけている中、まったく疲れを感じさせることもなく平然と歩き回り、猟夫でありながら納屋衆の手伝いをもくもくと行う。

 桁外れの体力の持ち主であることは誰の目にも明らかであった。

 しかも、この男が先ほどの捕鯨で死力を尽くし、誰よりも銛を打っていたことは皆が知るところである。

 鵜殿では珍しい年寄りの納屋衆が持っていた肉を半分取り上げて自分の分に上乗せする。


「どれ、わしが持とう」

「ありがてえ、権藤さま」

「なに、早く仕事が終わればわしの鍛錬の時間も増えるのでな。全部、わしのためさ」


 手助けをされた納屋衆の老人が目を丸くした。

 この武士上がりの巨漢が、日頃、鯨漁のないときは朝から晩まで銛打ちの鍛錬をしていることは有名であった。

 銛打ちの訓練は行われることもあるが、権藤に並ぶほどは誰もしていない。

 しかも、一つの漁が終わり、解体までやってからそのまま鍛錬にいこうと考えているだけで並の漢ではない。

 見た目以上の怪物かもしれなかった。

 年寄りは呆れた顔で、


「あんたぁ、バケモノやな」

「酷いことを言うな。わしはただの人だぞ」

「いやいや、あんたなら鯨どころか、伝説の竜ですら仕留められそうだ。嵐の日には潮に乗って登ってくるという話だぜ。なんと身の丈が十間もあるというしな」


 すると、権藤はにやりと笑い、


「ほお、その程度だったらわしならばできるかもしれんぞ。大きさならばザトウと変わらんぐらいじゃないか」

「無理じゃよ。竜は首が長く、海面にいる漁師を上から下からねらうそうじゃ。暴れられたらどうにもならんだろうさ」

「なに、派手に暴れるというのならばその前に眉間か眼に銛を打てばよい。それでなんとかなるであろう。まあ、竜というものがいるのならの話だがな」


 そう軽口を叩くと、大きく笑いながら権藤は人の倍の肉をもって大納屋へと去っていった。

 納屋衆はなんともいえない目つきでその大きな背中を見送った。

 本当に規格外の男だと思っていた。

 そして、鯨捕りはああいう勇魚のようなでかい男を敬うのが好きである。年齢は関係ない。ただただ、たいしたものだと感心していた。


「権藤」


 大納屋に入り、担いでいた肉を釜茹で係に渡していると、背後から名を呼ばれた。


「おお、木曽野蔵之介きそのくらのすけではないか」


 そこにいたのは、新宮の城下でよく知った顔の黒紋付と袴を着た二本差しの武士であった。

 権藤よりも年上だが、幼少のころ同じ剣術道場で学んでいた仲間でもある。

 浪人どころか、ほとんど士籍を削られたに等しい権藤を同輩扱いしてくれる数少ない知己でもあった。

 新宮城下にある奉行所の同心でもある。


「珍しいこともあるのだな。わいつ、どうして鵜殿におるのだ?」

「付き添いだ。おぬしも知っておるだろ、あの山川どののな」

「山川? 山川久三郎やまかわひささぶろう―――ああ、若白髪か。どうして、あやつの付き添いなどをしておるのだ。むしろ、そちらの方がわからんぞ。……隠密か」

「まさか。抜け荷の探索だ。ただし、近頃は鯨がらみのものも大量に見つかるということもあってな、鵜殿にも警告をしにきたというわけだ」


 確かにあり得る話だった。

 鯨からとれる様々な物品―――特にマッコウクジラの龍涎香のようなものはこっそりと売り払えばそれなりの額で取引される。

 また、鯨の筋は、筋師という職人が慎重に解体して、弓弦として高値で市場に供給される高級品だ。

 この鵜殿が藩直轄である以上、その横流しはご法度といっても過言ではなかった。


龍涎香りゅうぜんこうは常にお城に送っておるし、帳面もしっかりと書き留めておる。ここを疑うだけ損ではないか」

「私もそう思う。だが、まあ、山川殿にはそうではないということさ」

「お役目というわけか。大変だな。……だが、妙だな。若白髪がどうして奉行所の役人のような真似をしているのだ。わしが知っている限り、あやつは勘定方でもないはずだぞ」


 権藤は、山川久三郎のことをよく知っていた。

 理由は簡単である。

 道場の古参の一人だからだ。

 同じ柳生新陰流の同門だった。

 世代が異なるため、親しくなることはなかったが、たまに稽古を共にすることがあった。

 そのときの記憶が強いのだ。


「自分勝手によお喋る男であったな。剣の筋の方も舌の滑らかさ同様にするするしているだけで大したものではない癖に、他人のことはよく詰るつまらぬ奴であった」


 すると、木曽野は渋い顔をした。


「おぬし、少しは弁えろ。ああ見えても、加判家老の松井様のご親戚だぞ。下手にもめたら、紀州にいられなくなる」

「かまわん。わしはすでに浪人の身だ。殿の命などもう聞く気もない。わしはもう刃刺として鯨方として生きると決めておるのだ」

「……まったく、おぬしほどの武士が鯨漁師などになるとは」

「なに、わしはまったく後悔しておらんよ。わいつこそ、鵜殿に来たらどうだ」

「悪いな、まだ小さい息子と娘がいるとなっては、勝手は出来んよ」


 そして、あと二言三言言葉を交わすと、木曽野は大納屋をでていった。

 自分に比べて友には変わりがなさそうで、権藤は少しだけ安堵した。


「さて、わしも仕事に戻るかね」


 権藤はそのまま鯨の肉をとりに戻っていった。


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