セラフィーナはがばっと勢いよく起き上がった。
まるで、長い長い夢を、それも悪夢を見ていたような気分だった。
けれど全て夢ではなく現実だと、セラフィーナは知っている。
だからこそセラフィーナは現状が全く理解できず、戸惑っていた。
(わたくし、死んだはずなのに……ここはいったい……)
セラフィーナがいるのは、ふかふかのベッドの上。
そのベッドも、周囲に配置された家具も、窓にかけられたカーテンも、セラフィーナにはとても見覚えがあった。
(わたくしの、部屋……?)
決して、死ぬ間際の、ではなかった。
もっともっと、セラフィーナが幼い頃の部屋に非常によく似ていた。
セラフィーナは自分自身の存在を確かめるかのように、自身の両手を見つめた。
(わたくしの手、こんなに小さかったかしら……?)
とても18歳を迎えた女性の手とは思えない、小さな手がそこにはあった。
(いったい、何が起こっているの?)
普通に考えれば、死後の世界、なのかもしれない。
けれども、セラフィーナは死後の世界を見知っているわけではないが、どうもそんな風には感じられないのだ。
とりあえず周囲を見てみよう、そう思ってベッドから出ようとしたセラフィーナは、思っていたよりも床が遠いことに驚く。
それでもなんとかベッドから降りたセラフィーナが、真っ先に向かったのは鏡の前だった。
(やっぱり、縮んでいるわ)
小さな手、遠い床、そこからなんとなく想像はしていたけれど。
鏡の向こうには、とても18歳には見えない小さな小さなセラフィーナの姿が映っていた。
かちゃっと扉が音を立てて開き、幼い頃からセラフィーナに仕えてくれた優秀なメイドだったサリーが現れた。
「あら、起きていらっしゃったのですね、お嬢様」
そうして微笑んだサリーの姿が、セラフィーナは妙に懐かしさを覚えた。
死ぬ間際までセラフィーナに仕えてくれた人だ。
最後の瞬間を迎える日にも、当然その姿を見たにもかかわらず。
「しゃりー」
サリーと呼ぼうとしたはずなのに、上手く発音できない。
中身だけはしっかり18歳のセラフィーナは、恥ずかしくて口を押さえて俯いた。
「お嬢様、どうしました?」
すぐにそう問いかけるサリーは、セラフィーナの舌っ足らずな様子をさして気にも留めていないようである。
(まるで、これがいつものことみたいだわ……)
上手く喋れないことがセラフィーナとしては、気になって仕方がなかったけれど、とりあえず一旦置いておくことにする。
「ききたいこちょがありゅの」
聞きたい事がある、ただこれだけの文章さえまともに発音できず、セラフィーナは泣きたくなった。
それでも、今は現状把握がセラフィーナにとって、最優先事項である。
「なんでしょう?」
「きょうは、にゃんねぇんの、にゃんがつ、にゃんにち?」
言葉を発する度に、恥ずかしさから顔が熱くなるのを感じながらも、セラフィーナはまず日付を確認した。
サリーが告げた日付は、セラフィーナが死ぬほんの2年前の日付だった。
(単純に2年前まで日付が巻き戻ったのだとすると、わたくしは16歳ということになるけれど……)
鏡の中のセラフィーナは、16歳にももちろん見えない。
「わたくち、いみゃ、なんちゃい、でしゅの?」
自身の年齢を人に訊ねるなんておかしいかもしれない。
しかし、これしか確認できる方法を思いつけなくて、セラフィーナは今度は年齢を確認してみる。
「まぁ、お嬢様。ご自分のご年齢を、お忘れに?お嬢様は今、6歳でいらっしゃいますよ」
丁寧に両手で6を作って、サリーはセラフィーナに見せながら告げた。
(6歳ですって!?)
単純に時間が巻き戻ったと仮定した場合の年齢から、さらに10歳ほど年齢が若返ってしまっている。
(いえ、単純に日付があわないだけで、12年前に戻っているのかもしれないわ)
時間が巻き戻ったのも、正しいのかはわからないけれど。
ただ、セラフィーナが6歳の時に戻っただけで、時間が戻るなんてわけがわからない事が起きたから、日付がズレただけかもしれない。
セラフィーナはそんな仮説をたててみた。
「ねぇ、なら、おうちゃいしでぇんかは……」
王太子、もまともに発音できないことに、セラフィーナは嫌気がさした。
しかしセラフィーナが言葉を止めた理由は、それではない。
もしも、アルバートも6歳ならば、アルバートはまだ王太子ではなく第一王子という肩書だ。
言い直すべきか悩むセラフィーナにその必要がないと悟らせたのは、続くサリーの一言だった。
「ああ、そうでした。本日お嬢様は、王宮で王太子殿下をお会いすることになっておりますから、急いでお仕度なさいませんと!」
悠長にお話をしている場合ではなかったと、サリーはせわしなく動きはじめる。
そのため、セラフィーナはそれ以上サリーに質問することができなくなった。
(とりあえず日付は2年前、わたくしは6歳、そして立太子は終わっていて……王太子は、アルバート殿下なのかしら……?)
サリーの言葉から、王太子が存在することは確認できても、その座に就いたのが誰かまでは確認できていない。
(王宮に行けば、きっともっと多くのことがわかるはずだわ)
とりあえず、セラフィーナはサリーにされるがままに、王宮に行く準備をした。
その光景は、ほんの少しだけセラフィーナに既視感を覚えさせた。
かつて、セラフィーナが身も心もともに6歳だった頃、セラフィーナは両親に連れられてはじめて王宮を訪れた。
そしてその時、アルバートがセラフィーナを出迎えてくれた。
ほとんどが、その時とほぼ変わらない風景に見えた。
けれど、決定的に違うのが、出迎えてくれたアルバートの姿だった。
かつて出迎えてくれたアルバートは、セラフィーナと同様に小さな6歳の姿だった。
しかし、今目の前にいるアルバートは、王太子であり、とても6歳には思えない立派な青年の姿だった。
「セラフィーナ、王太子殿下にご挨拶を」
父に言われた言葉も、かつてと少しだけ違う。
『セラフィーナ、王子殿下にご挨拶を』
かつて、セラフィーナが父から聞いた言葉はこんな言葉だった。
セラフィーナは、父に言われるがままに一歩前に出て、自身のスカートをつまんでお辞儀をする。
ここまではよかった、セラフィーナにとっては、慣れた動作だったから。
「はぢめまちて、おうちゃいしでぇんか……」
王太子殿下、と上手く発音できなくて、セラフィーナは恥ずかしさのあまり顔を赤らめ目を潤ませる。
「ち、ちが……っ、おうちゃ……お、おうっ、おうちゃいし……じゃなくて、おう、おうちゃ……っ」
何度発音し直して上手くいかなくて、そこから先に進めない。
かつて、6歳でアルバートに挨拶をした自分は、いったいどうやって挨拶したのだろうか。
身も心も6歳だった自身には、舌っ足らずな言葉遣いも、もしかしたら気にならなかったのかもしれない。
しかしながら、中身だけはしっかり18歳の今は違う。
気になって気になって仕方がないというのに、何度言い直そうともただ一言が上手く発音できない。
襲い来る恥ずかしさと、背後からの両親の早くしろという無言の圧から、セラフィーナは焦りを覚え始める。
しかし、焦れば焦るほど上手くいかず、セラフィーナの目尻には涙が溜まる。
(わ、わたくしったら、こんなことで泣くわけには……っ)
この国では、16歳で成人を迎える。
もうとっくに成人を迎えているセラフィーナは、かつては人前で簡単に涙を見せたりしなかったはずだ。
それでも、6歳の涙腺は弱いのか、セラフィーナは今にも泣いてしまいそうだった。
「落ち着いて、大丈夫だよ」
ふいに優しい声がかかり、セラフィーナは恐る恐る声の方へ視線を向ける。
すると、アルバートがセラフィーナと目線をあわせるようにしゃがみ込み、セラフィーナを安心させるように、セラフィーナの震える両手を握った。
「大丈夫だから、そのまま続けて?」
こんな優しい笑顔のアルバートは、かつての自身は見たことなかった。
セラフィーナがそう思うような柔らかく優しい笑みが、今の小さなセラフィーナへと向けられている。
「おうちゃいし、でぇんか……」
「うん」
「わ、わちゃくちは……っ、しぇ、しぇらふぃーにゃ、おーるぢしゅと、もうしましゅ」
自身の名前すらまともに言えない、それでもアルバートは揶揄うようなこともなく、柔らかな笑みが崩れることもなかった。
「はじめまして、セラフィーナ・オールディス嬢」
ちゃんと伝わっている、そうセラフィーナに伝えるかのように、アルバートはセラフィーナの名前を呼んだ。
「僕は、アルバート・フォレスターだ。よろしくね」
「ありゅびゃーとでぇんか……」
せっかく名乗ってもらったアルバートの名前さえ、まともに発音できず、セラフィーナは慌てて自身の口を押さえ恥ずかしそうに俯いた。
「呼びにくいなら、『アル』って呼んで?」
「えっ!?」
それは、かつてのセラフィーナが決して呼ぶことのなかった、アルバートの愛称だった。
「ありゅ、しゃま……」
「様も、なくて大丈夫だよ。短い方が、呼びやすいでしょう?」
「いいん、でしゅか……?」
「うん、セフィならいいよ」
アルバートは楽しそうにそう言った。
(セ、セフィですって!?)
国王以外、今まで誰も呼んだことのないセラフィーナの愛称。
それをさらりと呼ぶアルバートに、セラフィーナは驚いた。
姿も名前も同じであっても、表情や言動はセラフィーナの知るアルバートとは、まるで別人に思えた。
「よいしょ」
そんなアルバートの掛け声とともに、セラフィーナの身体がふわりと浮かぶ。
気づけばセラフィーナは、アルバートの腕の中にしっかりと抱きかかえられていた。
「でぇ、でぇんか!?」
「だから、アルでいいってば」
やはり、慣れとは怖いものだ、と驚く自身とは対照的に、にこにこと笑っているアルバートを見ながらセラフィーナは思った。
かつてのセラフィーナは、愛称を呼ぶことを許されていなかった。
そのため、アルバートを呼ぶときは、殿下、もしくはアルバート殿下、と呼んでいた。
長年そう呼んでいたため、咄嗟に出る呼称はどうしてもそちらに引きずられてしまう。
愛称を呼ぶことに慣れるのは、とても時間がかかりそうだと思った。
「僕の両親のところに、案内するね」
そう言うと、アルバートはセラフィーナを抱えなおし、視線をセラフィーナの両親の方へと向ける。
「お二人もご一緒に」
2人が頷くのを確認して、アルバートはそのまま歩きはじめる。
(このまま、移動するの!?)
セラフィーナをしっかりと抱っこしたまま歩みを進めるアルバートに、セラフィーナは驚きを隠せない。
だが、そんなセラフィーナに、アルバートは気づく様子はなかった。
「ねぇ、セフィ、セフィの両親って……」
アルバートは、そっと視線を後方のセラフィーナの両親に向ける。
その距離が思ったより近かったのか、あるいは話す必要がなくなったのか、そもそも何を言うつもりだったかさえ想像がつかないつかないセラフィーナには何もわからないけれど。
アルバートはごまかすように笑って、言葉を切った。
「ごめん、なんでもない」
そう言うと、アルバートは少し足早に目的地を目指した。