日記2回目にして特に書くことも思い付かないのだが、それでも書くと決めた以上書くしかないので書くことにする。私たちは常に過去の奴隷なのだ。
先週(日曜日までを週末とする感覚が一般的だろうか。わたしも同じ感覚だ)も、その前の週と同じような感じで代わり映えのない日々を過ごしていた。
しかし妙に周りの人から気を遣われている気がしたし、社長がよく分からない理由で五千円くれた。私がよっぽど酷い顔をしていたのかもしれん。しかしあまり気を遣われているのもそれはそれで居心地が悪い、というのが私の非常に面倒臭いところだ。まあ普通に接してくれれば良いです。
時間的にも体力的にもさしてキャパい日々を送っているわけではない。なのになんとなく憂鬱なのはやはり「ルーティン化した日常に飽きている」部分が大きいのだろう、と気付いた。
同じ場所をグルグル回っているだけでは沈んでゆくだけだ。仕事以外の執筆も運動もライブ観にいくのもフットサルもあまりにルーティン化している。
青木はよく「日々を丁寧に積み重ねてゆきましょう」という言い方をする。突発的な幸運や周囲の助けでレベルが上がることなど無く、毎日コツコツと努力を繰り返してゆく中でしか自分のレベルを上げる方法は無い、ということなのだと思う。そしてそこに異論の余地は無いと私も思う。
だがそれが出来るのは強者の特権なのではないか、と最近の私は思ってしまう。
精神的資本の弱さ。幼少期からの育ちの悪さ。それが今頃になって結実し私を蝕んでいるように思えるのだ。……10年前も20年前も似たようなことを思っていた気はするが。
まあ別に良い。自分のしていることを世間的に価値のあることとして認めさせることにさして強い執着があるわけではない(ないわけではない)。
最近はあまりアニメも映画も観られていないのだが、アマプラで「片田舎のおっさん、剣聖になる」を観てみた。
以前から話題なのは知っていたが「なろう系の最終兵器らしくて、チラ見したらやり口がグロすぎ…」という批判的ツイートが袋叩きに遭っているのを見たためでもある。
1,2話を見た私の感想としては件の問題ツイートとほとんど同じである。
願望充足の提示の仕方があまりに露骨で品がなく、安いポルノ動画を見ているかのようだった。(露骨に性的な表現があるとかそういう話ではなく、特定の感情になるという明確な目的の手段として用いられるような作品だという意味ね。)
そしてまあそれはWEB小説としてはとても良くできた作品である、ということの証左でもある。
件のツイートは総叩きに遭っていた。その内容としては「願望充足もご都合主義も何も、創作物ってのは元々そういうもんだろ!」「冴えないおっさんの実力がバレて若い女子にモテモテになるなんて定型は池波正太郎の頃からあったわ!」というのが代表的のように見えた。
まあこれはどちらも多くの世間的同意を得る意見だろう。
だが私個人としては当然反発したくなる。
それはやはり物語に何を求めるのか? という価値観の違いだ。
現代人が本当に疲弊しているのは確かだろう。何にも考えずボーっと見て何となく上手くいっている風な気分さえ味わわせてくれればそれで良い……という視聴者が大多数だろう。それはわかる。
だが私はそれだけでは済ませたくない。
私は子供の頃読んだマンガや小説から本当に感動を味わった。心揺さぶられ、世界が広がり、自分の生き方を問われるような作品が沢山あった(もちろんそうでない作品もいっぱいあった)。
イデアを描くこと、新たな価値観を提示すること、読み手の心を揺さぶること……そういった作品が評価されて欲しいという思いが強くある。
繰り返しになるが「おっさん剣聖」に描かれる願望充足の露骨さは、現代WEB小説としての完成度の高さの証左でもある。
これは当然書き手としての私にジレンマを突き付ける。
「書き手としてある程度人気を得たい」というのも本音だし、しかし「人気のために自分のスタイルを完全にそっち側にシフトはできねえだろうな」というのも正直なところだ。
……単なる日記のはずだったが、創作論に差し掛かり想定以上にカロリーを使ってしまったのでこの辺で終わります。コメント頂ければこの辺の続きも書くかもしれません。
ごきげんよう!