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第7話 2025.05.25

さて今週の日記である。

なんと今日はまだ日曜日だというのに一週間のノルマを達成しようとしている!

これは決して本来書かねばならぬ小説を書くのがしんどくて、日記を書くことでお茶を濁そうとしているわけではないのだ!(多分)


まあ例によって特筆すべきことはあまりないのだが、金曜の夜はライブを観に行った。『RAY』というアイドル主催のライブでそこには『BURGER NUDS』というバンドも出演していた。

RAYはシューゲイズ・オルタナロックの流れを汲むアイドルで、私が10代後半から20代前半にハマっていたバンドサウンドに近しい所がある。幾つかのこうした音楽性のグルーブに惹かれていわゆる地下アイドルに私はハマっていったのだが、そうした青春期当時にかなりよく聴いていたバンドの一つがBURGER NUDSだったのだ。

ルーツとなったバンドと、その影響下にあるRAYのようなグループとの共演はとても感慨深いものがあったが、まあそんな聴き手側の勝手な感傷など吹き飛ばすほどにとにかくBURGER NUDSの演奏が素晴らしかった。3ピースのスッカスカの音でありながらもその細かなアレンジの構築、3人のグルーブが凄まじかった。久々に生のバンドでしか味わえない感動を味わった気がする。




土曜半日仕事で日曜にフットサル……というスケジュールはあんまり休んだ感じがなくて「月曜くらい休ませろや!」という気持ちが強くなる。実に勝手なものだ。


休日の朝は近所の牛丼チェーン店で朝定食を食べることが多い。

……と言いつつ、最近は平日も早朝の現場を終えてから次の現場に移動する前の9時~10時ごろに早めの昼食として朝定食を喫することが多いのだが。

朝定食をまさかの昼食として利用する! ……私の生粋の反社会性がここには現れている! きんちゃんマジ! というわけである。

朝定食はコスパが良いし、焼き魚に味噌汁やお新香、卵……といったメニューが加齢ゆえか近年は特に好ましく思えるようになってきた。


今朝は『すき屋』の焼き鯖まぜのっけ定食を食べていた。

今時500円台で定食が食べられる機会は貴重になってきたが、『しんぱち食堂』のあのクオリティを知ってしまったらちょっと物足りなく感じてしまうなぁ……などと思っていた時に事件は起こった。

U字型カウンターテーブルの対面に座った30代ホスト風男性客が、南アジア系の若い男性店員に対して尊大で失礼な態度を取ったのだ。

「客だから店員に対して多少横柄な態度を取って良い」という精神で生きている人間のことが私は理解できないが、まあそういう人たちはそう振舞うことで利益を引き出してきた経験の積み重ねがあるのだろう。

しかし私は彼の振る舞いを倫理的観点から非難したいわけではない。


彼の態度を目の当たりにした時に私は「コイツの側頭部に丼を思いっ切り投げつけてみてえなぁ」と思い付いてしまったのだ。

無論そんなことをすれば3000%私の方がに決まっている。

でもまあ別にその後のことがどうなろうと知ったこっちゃない、こっちはとっくに人生棒に振ってんだ! ……いやだが丼を投げようと振りかぶった瞬間に挙動を察知されるだろうか? まあ純粋な殴り合いになっても勝てそうな相手には見えたが、今日はサンダルで来てしまったので踏み込みが不安定になるのが不安材料になるか……などと食事中ずっと考えていた。

そして言うまでもなく、何一つ行動を起こすことなく私は食事を終え普通に退店した。


当然事件を起こすことなくその場をやり過ごすことができた、という意味ではその方が良かったに決まっているし、良識的観点から見ればそんなことを思い付きそれについて考え続けていた私はかなり異常だと言われるだろう。

だがまあ正直に言えばそうしなかった後悔も少しだけある、というのが本音だ。

別にその店員さんを救おうとか、正義を執行しようという感覚は微塵もなかった。

私には暴力的な衝動が今も根強くある、ということだ。


「この歳までよく警察の厄介になることもなく、自殺をすることもなく無事に生きてこれたなぁ」と妙な感慨を抱くことがある。

私には暴力的衝動、あるいは破滅的衝動がそれなりにあるということだ。

もちろん友達と飲みに行って「人混みを歩いている時にどれくらい人をぶん殴りたくなる?」と話し合ったことはないので、余人と比較することはできないが。

ただまあ暴力的衝動を抱えている人間はそれなりに存在するに決まっているし、私よりテストステロンの強い人間は腐るほどいるだろう。体格や顔付きを見ても私はさしてテストステロンの強い人間ではない。

私の場合は生来の身体的資質というよりも、やはり抑圧されてきた幼少期~10代の時期に後天的に醸成された衝動なのだろうな、と思う。

それと同時に多分私はかなり理性の強い性質、あるいはそうした振る舞いが強固に身に染み付いてしまったタイプなのだと思う。当然それはより自らの抑圧を強くして衝動を溜め込む……というサイクルを進める。


私のルサンチマンは死ぬまで消えることがないだろう。

「世界は私に何も与えてくれなかった。奪われる一方だった」という感情が消えることはないし「それなら私が世界に対してどう振舞おうが究極的には自由だろう」という感覚がいつまでもあるということだ。

無論そんな独善的な感情の根底にあるのは「私はいずれ死ぬ。つまりどう振舞っても私にとっての世界がいずれ終わることは絶対に確実だ」という事実だ。

私が「無敵の人」に共感を覚えるのはこうした感覚を共有しているからだと思う。そうした感覚を論理的な反論で以って説得することは不可能だ。

「私はいずれ死ぬ。つまりどう振舞っても私にとっての世界はいずれ終わる」ということは揺るがし難い事実だからだ。

世界一般……個々人の視点による世界ではなく、誰もが共有している世界……の実在を信じその存続や平和を願って生きていけるかは、身体的感覚にかなり近いものだと思う。


近年は不平等や格差によって幸・不幸の分断がますます深いものになっている、と私は思っている。

倫理的・法的な観点から無敵の人、身勝手で凶悪な犯罪者を非難することは何の意味もない……もちろん本当に何の意味もないわけはない。一定程度の抑止になる部分も確かにあるとは思うが、そこを踏み越える人間が確実に存在し、そうした人間には効果がないことも確かだ……ということは知っておくべきことだと思う。

無論そこをあえて直視しないこと、その前提による言説を繰り返すことによって成り立っている倫理も間違いなく存在しているのであろうが。


今週はそんな感じでした。ではでは皆さまごきげんよう!

来週もともに幸せに過ごしましょう!




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