その夜、町は赤かった。
秋祭りの
太鼓と笛の音が夜空を震わせる中、少女・くれはは母と一緒に参道を歩いていた。
人混みに押されながらも、晴香の手をしっかり握り、背伸びをしては屋台の明かりを覗き込む。焼きそばの匂い、綿菓子の甘い香り──そのすべてが祭りのはずだった。
だが、不意に耳の奥をかすめた囁きがあった。
──くれは。
自分の名前。
思わず足を止め、振り返る。
人混みの向こうに、誰かが立っていた気がした。
影。いや、ただの錯覚だろうか。見ようとした瞬間にはもう、そこには誰もいなかった。
「どうしたの?」
晴香が振り返る。
「……ううん」
くれはは小さく首を振った。
再び歩き出すが、胸の奥でざわめきが広がる。耳の奥には、まだ残響のように声がこびりついていた。
参道の石段を登りきったところで、屋台の灯りが途切れた。人の声が背後に遠のき、木々の影が濃くなっていく。
風に舞う葉が、ひらりと頬をかすめた。
赤い。
くれはは目を見張った。
まだ紅葉には早すぎる時期だ。それなのに、その葉はまるで血を塗り広げたような鮮烈な朱を放っている。
指先でそっと触れる。冷たい。
だが落ち葉特有の乾きはなく、肌にぴたりと張り付く感触があった。慌てて払い落とすと、頬に赤い筋が残っていた。
血──?
心臓が一度、大きく跳ねた。
慌てて辺りを見回すが、母の姿は人混みに紛れて見えなくなっていた。
「お母さん……?」
囁くように呼んでも、返事はない。代わりに、再び声が聞こえた。
──くれは。おいで。
背筋が凍る。
その声は、確かに自分を呼んでいた。
参道の奥、闇に沈む森の入口が見えた。
黒々とした木々の隙間が口のように開き、風にざわめく。幹と幹の間からは、誰かの顔が覗いている気がした。
次の瞬間、くれはの足は勝手に動いていた。
森の中は、祭りの音が嘘のように消えていた。
聞こえるのは風の音と、葉がこすれるざわめきだけ。いや、それは人の囁き声に近かった。
──かえれ。
──おいで。
──ここに。
誰の声ともつかぬ声が、幾重にも重なって森全体から響いてくる。
足元でぐしゃりと音がした。
見下ろすと、落ち葉を踏んだはずの足跡が、赤黒い液を滲ませていた。まるで肉を踏み潰したような音と感触。
「……いやだ……」
くれはは後ずさる。だがその背に、ひやりとした何かが触れた。
振り向いた。
そこには木の幹。──だが、ただの幹ではなかった。
幹に浮かび上がったように、人の顔があった。
目は閉じている。だが口だけが大きく裂け、そこから赤い葉がぞろぞろとあふれ出す。葉は地面に落ちるたび、血のような液を滴らせていく。
「……!」
喉から声が出ない。背筋が冷たく凍りつき、足が震える。
幹の顔が、ゆっくりと目を開いた。
黒い瞳孔がこちらを見た瞬間、くれはは悲鳴を上げて駆け出した。
枝が顔を掠め、赤い葉が降り注ぐ。
葉はただ舞うのではない。彼女の体に吸いつき、皮膚に張りついて血管をなぞるように走っていく。
必死に剥がそうとしても、葉脈が生き物のように指に絡みつき、爪の間に食い込んだ。痛みが走る。血が滲む。
涙で滲む視界の奥、さらに奥へと進んでしまっている自分に気づく。
祭りの灯りはもう見えない。戻れない。
──くれは。
囁き声が耳元で重なる。
右から、左から、頭上から。気配は四方八方に広がり、まるで森そのものが名を呼んでいるようだった。
「お母さん……!」
叫んだ瞬間、地面が崩れた。
いや、葉が積もっていたのだ。無数の赤い葉が彼女の足を呑み込み、膝まで、腰まで絡みついていく。
必死にもがくが、葉はどこまでも深く沈めていく。
視界が赤に閉ざされ、息が苦しくなる。
──おかえり。
最後に聞こえたのは、母の声だった。
くれはの体は、葉に呑まれ、闇に消えた。
賑やかな祭りの広場。
晴香は人混みをかき分け、必死に娘を探していた。
「くれは? どこにいるの、くれは!」
だが誰も気づかない。人々は太鼓に合わせて踊り、酒を酌み交わし、笑い声を響かせる。母の焦りなど、祭りの喧噪に紛れて誰の耳にも届かなかった。
参道の石段に、一枚の葉が落ちていた。
晴香は足を止め、それを拾い上げる。
濡れたように艶めき、まるで血を吸ったような赤。
その葉を胸に押し当てると、晴香の肩が細かく震えた。
顔は青ざめ、唇は何かを呟いている。
──また始まってしまった。
瞳には、誰よりも深い恐怖が映っていた。
二十年前、あの夜と同じように。