天使から電話が掛かってきた時、慧は人形を作っていた。依頼内容は白皙の美少年の人形で、眼球を嵌めた後の瞼の形を整えているところだった。作業を再開する中で、聞いた話を思い返すと同時に、独り言が漏れる。
「そういうことだったのか……」
作りかけの人形の顔部分をテーブルに置き、澪央に電話をしてみようとスマートフォンを手に取る。しかし、耳に届くのはコール音ばかりだ。
(……居ないのか)
食事中か家族との団欒中か、家事の手伝いでもしているのかもしれない。いや、もしかして――
自らの首に掛かっている湿り気を帯びたタオルを触り、生乾きの髪を摘む。
「…………」
湯煙の中を想像し、小刻みに首を振る。切り忘れていた呼び出しを中断しようとして、『神谷君!?』と声がした。
『ごめんなさい。ちょっとお風呂に入っていて……』
「え? あ、そうか」
先程の想像がより具体性を増して浮かんできて、また首を振って脳内の湯煙でそれを掻き消す。動揺したのが伝わっていないことを心から祈った。
『どうかした?』
「あ、いや……問題があるなら掛け直すけど……」
『問題……? あっ、えっと……』
戸惑った声がして、どうしたのかと思い、遅ればせながら気が付いた。風呂上がりで問題があると言えば、まず着衣について考えるだろう。動揺を悟られたくなかったのに、変な言い方をしてしまった。
『私は大丈夫だけど……』
「そ、そうか。ほら、女子は色々やることあるんだろ。だから。トリートメントとか、化粧とか……」
急いで言い足すと、くすくすと笑い声が聞こえてくる。
『化粧水ね。そんなに慌てなくてもいいのに。化粧水は神谷君もつけた方がいいよ』
「あ、ああ……」
『それで、何か話があったんじゃないの?』
恥ずかしさとバツの悪さで口ごもってしまう慧に対し、澪央はすっかりリラックスしたのか、声は朗らかで暖かさを感じられる。
「そうだ。天塚から電話があって……」
『そういうことだったのね……』
話を聞いて、澪央は納得したようだった。今日の昼休みに化学準備室に集まった時、天使に会いに行かないかと提案した彼女に、明日香が『今日はまだそっとしておいた方が良いんじゃないかな』と言ったのだ。その様子がどこか不自然で誤魔化しているみたいで、雫は突然不機嫌になるしで、何か隠しているような気がしていた。
『でも、私には隠さなくても良かったのに』
澪央は不満そうで、実際にそんなことはしないだろうが、口を尖らせている姿が思い浮かんだ。
「確かに……そうだな」
何も聞かされていない彼女は、放課後は慧と二人で帰宅した。『負』の痛みを受ける心配が無いのだから秘密にする必要性が考えつかない。
「先生に隠すのは当然として……」
紗希は、明日香に朝の天塚君は元気でしたよねと訊かれて肯定していたが、若干困惑してもいた。元気だったけど……と語尾を濁したところに、ほら! と言葉を被せられていて、明日香のような不自然さは感じられなかった。美容院にも同行していないし、髪を染めることは知らされていなかったのだろう。
「椎名にも反対されると思ったんじゃないか?」
『私に? 何で?』
「何でって、それは……」
完璧を目指すことには激しい心労と抵抗があったとはいえ、澪央が真面目で、品行方正な学生であるのは間違いない。しかし、本人に優等生だからとは言い難かった。
「俺と良く一緒に居るから……じゃないか?」
『え? あ……』
適当とはいえ、少し気恥ずかしく感じていると澪央の声が小さくなった。スマートフォンを遠ざけたわけではない――と思う。
「じゃあ、そういうことだから。また明日」
『う、うん……』
通話を切ると、慧は人形作りを再開した。無言のままに手を動かし――
「……あ」
人形の顔は美少年ではなく、美少女になっていた。
□■□■
「……青い春だな」
慧の『本』を閉じ、アレクシスは苦笑を漏らした。空いた時間を金色の『本』の研究に使っていた彼は、天使が澪央に黙っていた理由も把握していた。慧と良く一緒に居るからというのは全くの的外れだった。明日香達と同じように秘密にしてと頼めばいいだけで、隠す動機にはならない。
やはり、ポイントは彼女が優等生だからという部分であり、『優等生だから』風紀に反することに賛成せず、『優等生だから』慧にも秘密に出来ずに放課後の予定を話すと思った。そこに二人の親密度は考慮されていない。
優等生という言葉は澪央にとって特別なものだ。慧がこの単語を言わなかったのは賢明だろう。
そして、アレクシス自身は天使の『反抗』に口を挟むつもりは無かったし、大して興味も無かった。彼の行動は人として成長するのには必要なものだろう。天塚家の方針とは価値観が全く合わない為、現場に居合わせれば色々と言いたくなってしまうが――そこまで感情移入しているわけではない。
彼にとって大事なのは、天使の『本』が無かった理由と出現した理由を知ることだけだ。
「何故、途中からの記述しか無いのか……」
天使の思考が他の高校生の『本』に紛れ込んだことから、この『本』がキオク図書館の何処にも無かったのは間違いない。人類全ての歴史が記録されていると謳っておきながら、『本』が存在しなかった間の歴史は記録されないということか。
「それで、人類全ての歴史、か……」
嘲りを含んだ笑みと共に呟き、金色の本の冒頭を開く。天塚家での話し合いの日から始まったページの前が破れた痕跡も見当たらない。そもそも、誰が破るというのか。
「残ったのは当初の疑問だけか。この『本』が図書館に無かったのはどうしてか……」
一ページ目の内容と天使の境遇を考えると、予測は出来る。
「彼には彼の人生が無かった。無いものは『本』にもならない。両親の方針に沿って生き、それ以外の選択肢があることさえ知らなかった。彼は真実、両親の持ち物に過ぎなかった。キオク図書館にもそう判断される程に……」
だが、妄信していた両親から梯子を外された天使は、大きな精神的ショックを受け、怒りを感じ――そこで明確な自我――自ら考える意思が芽生えた。
「そうは思うが、結局は状況証拠からの推測だ。確定する方法がないのだから、正とするしかないのだろうが……」
何かすっきりしない上に、この推測を認めてしまったら――アレクシスを含む三人の『本』が存在しない謎は不明なままだ。手掛かりだと期待した事象が決して掴めない幻だったなどと、そうは思いたくなかった。
(幻……?)
ふと、桂花の声が脳裏に響く。
“私自身はこの図書館について何も知らなかったのに、今はあなたよりも知っています”
あれは栞の桂花の台詞だったが、『本』の幻影にも同じことが言えるのだろうか。
「……天塚君。天塚天使君。話は可能か?」
開いたままの金色の『本』を軽く撫でる。テーブルの一席に、幻影が現れた。以前、本物の天使が使った席だ。
「椅子に座れるのか」
『やろうと思えばね』
プラチナブロンドの美しい少年が、皮肉気に笑う。自我が生まれてから誕生したのだから当然だが、無垢な子供っぽさは無くなっている。屋敷の前で別れてから本人と会っていないアレクシスには、良く似た別人にさえ見えた。
『……えーと、僕の本が無かった理由だよね?』
「話が早いな。聞いていたなら呼ばずとも出てきて欲しかったが」
『そんな義理は無いからね』
幻影は小さく首を傾げ、話し始めた。
『想像通りだよ。僕はお父さんとお母さん……ううん、天塚家の一部だったからね。僕自身もそう思ってた。それが切り離されて、僕の人生は僕のものになったんだ』
「……百パーセント、言い切れるか?」
『うん。百パーセント、言い切れるよ』
幻影の揺らぎのない表情に、アレクシスは落胆した。この事例は、三人の『本』を探す手掛かりにはならないだろう。
「そうか……」
『僕だけじゃない。この図書館に親に支配されて生きた人の本は無い。親の本の中の記述として取り込まれてしまうんだ。勿論、親視点でね。僕の場合は……親視点でたくさん書く程、関心が無かったんだろうね』
天使の幻影は寂しそうに目を伏せるが、アレクシスの関心は別のところに向いていた。
「……他にもいるのか……? だったら……」
美咲夫婦が祖父母に支配されていたという可能性は、あるのだろうか。
『アレクシスさんにはもうどうでもいいかもしれないけど……』
ただ耳に入ってくる音として、自嘲した幻影の声がする。
『僕、補導されたみたいだよ』
「そうか……。…………?」
台詞にノイズが混じっていた気がして、思考の海から顔を上げる。椅子は無人で、キオク図書館にはアレクシスの姿しかない。
「ほどう……ほどうされたとは……歩道……補導……? ……!」
金色の『本』を開き、慌てて最終ページを確認する。
『アレクシス……?』
地の底から響くような、桂花の声が聞こえた。彼女の幻影が笑っている。笑って――否、これは、かなり怒っている。怒って――
桂花の背後に、見知ったアレクシス達の幻影が立っている。呆れていたり、顔を顰めていたり、表情は様々だ。四角い顔をした幻影が言う。
『ソンナ自己中ニ育テタ覚エハアリマセンガ……』
「……育てられた覚えも無いが」
『私には……』
桂花はまだ笑っている。
「育てられたかもしれないな」
アレクシスの心に少しだけ余裕が戻った。開いた『本』はそのままに、彼女達に見送られてキオク図書館を出た。
□■□■
――松浦家には、静かな時間が流れていた。父は炬燵に入ってテレビに目を向け、徳利から手酌で酒を注いでいる。母は台所で食器を洗っている。紗希は弟の晴希の仏壇に供えていた、小皿に盛った夕飯を引き上げる。
テレビでは男性アイドルグループが陽気な歌を披露しているが、画面外の空気までは明るく出来ず、家の中で笑い声がすることも、鼻歌が聞こえることもない。
それでも、前とは違う――と紗希は思う。今の家を包んでいるのは、晴希を亡くした悲しみが伴う静寂ではなく、穏やかで優しい静けさだ。家族の死を受け入れて尚、前に進もうとする暖かさだ。
「こんなに難しいダンス、よく踊れるなあ。いっぱい練習したんだろうな」
父は純粋に感心していた。以前は、若い男性タレントを見ると無言でチャンネルを変えていたが、普通に見られるようになったのだ。
「お父さんも練習したら踊れるわよ」
冗談めかした母の言葉に、父は困ったように――ささやかな笑みを浮かべた。
「いやいや、さすがになあ。これはなあ」
紗希のスマートフォンが振動したのはその時だった。小皿を片付けた手を軽く拭いて電話に出る。着信は学校からで、時間が時間なだけに嫌な予感がした。
「はい、松浦です。……え? 天塚君が?」