電話があったのは、片付けも終わり、冷蔵庫に残っている一人分の食事を前に溜息を飲み込んだ時だった。蓋を閉めて応答した馨は、予想外の報告を聞いた。
『彼は財布を持っていませんでした。その状態で堂々と……』
夕食を終えたばかりの胃が収縮するのを感じる。天使がそんなことをした理由自体は、本人に訊かないと分からない。だが、真っ先に思い出すのは帰宅時の出来事だ。
電話を切り、警察からの話を雇用主に報告する。
「天使様が……署に居ると。万引きで補導されたそうです」
「万引き? ……そうか」
聖夜は眉を顰め、ノートパソコンを叩き出す。夫の正面で、妻も手帳を捲っている。
「聖夜様? ……真莉愛様も」
「何?」
一言だけ口を開いたのは真莉愛の方だった。
「警察から、出来るだけ早く来てくれと。盗んだ分のお金を払えば帰すそうです」
「行く必要は無い」
「……そうね。天使はもう
馨は閉口した。しかし、雇用主が――天使の実の両親がそう言うのなら、これ以上の口出しは出来ない。
「気になるなら馨が行けばいい」
「私は……他人です……」
「行く前に電話したら良いんじゃない? 門前払いにはしないでしょう」
夫婦は仕事から顔を上げない。真莉愛の方は、傍らにあるワイングラスを取り、美味しそうに飲みさえする。
「……分かりました」
天使の番号に電話を掛けてみる。しかし、続いたコール音の後に留守番電話の案内が流れるだけだった。何度掛けても変わらず、馨は何か予感がしてリビングを出た。二階に行き、天使の部屋に入る。案の定、スマートフォンはベッドに置きっ放しになっていた。コートも壁のハンガーに掛けられたままだ。急いで階段を下り、リビングに入る。
「天使様は、スマホを持って出ていません。コートも着ていない可能性があります。学校用のが壁に掛かったままです」
「そう。それで?」
「それでって……真莉愛様……」
「私達には関係の無いことだ」
無味乾燥に聖夜が言う。馨は大きく息を吸った。
「……あなた達が何と思おうと、天使様は正真正銘あなた達の息子です。対外的にも、皆、それを知っています。息子が警察に捕まったのに迎えにも行かないと噂が広がったらどうなりますか?」
その途端、聖夜が立ち上がった。面倒くさそうな息を吐き、ソファに掛けられていたコートを羽織る。真莉愛も続いたが、「お化粧を直す時間くらいあるわよね」と彼女はリビングを出て行った。
□■□■
時は遡り、天使が尻餅をついた後――
彼はすぐに立ち上がれないまま、長い時が経ったような気がしていた。実際は数分にも、もしかしたら一分にも満たなかったのかもしれない。
身を起こした天使は、三人が消えたリビングへのドアのノブに触れ――手を離した。ふらふらとした足取りでそのまま玄関に向かい、ローファーを履いて外に出る。呆然としてはいたが必要最低限の思考力はあり、もう家には居られないんだと、自分は異物で、あの煌びやかな部屋は僕には
誰も見ていないのだから自由な筈なのに、部屋には戻れなかった。十七年過ごした家が他人の家のようで、一刻も早く外に出たかった。
足を止めると、人工的な光に囲まれた。
(……………………)
日本庭園に施されたクリスマスイルミネーションは第三者からは滑稽に見えていただろう。それでも、これは自分を――天塚家を祝福し、誇示する為であり、喜びの象徴だと考えていた。しかし、今はそう思えない。
(……………………)
――この光の中に僕は含まれていたのだろうか。そうだとして、それは人としてだったのか、人の形をした道具としてだったのか――
(……僕はもう、ここには居ない……)
イルミネーションの間を通り抜け、門を押して敷地を出る。この辺り一帯は天塚家の土地であり、正しくは、まだ天塚の呪縛から抜け出せたとは言えない。
けれど――
ライトを点けた自転車に乗った青年が横を通り過ぎていく。
ここは不特定多数の、顔も名前も知らない他人が自由に往き来する場所だ。そう思うと、全身を覆っていた重い不可視の塊が軽くなった。
屋敷の周囲は住宅街だ。偶にキラキラとした装飾を見て、心の中の
季節は真冬であり、部屋着一枚で外に出てきた天使の体は、小刻みに震えていた。冷え過ぎて耳が痛い。頭は呆然と、ぼうっとしたままなのに、両腕は勝手に体を抱き、猫背になる。
住宅街を過ぎ、様々な店が並ぶ都会らしい表通りに出ると、行き交う人々の殆どが天使を一瞥して去っていく。それが、これまでのような羨望や憧れという好意的なものではなく、哀れみ、憐れんでいるのだというのが分かった。
(誰も、僕が天塚家の子供だなんて思わないだろうな)
寂しさと惨めさと歓びが、同時に湧き上がってくる。口元に笑みが浮かんだ。
そろそろどこかで温まりたいし空腹も感じていた。夕飯を摂ろうとしたところで両親が帰ってきたから、昼食を最後に何も口にしていない。数メートル先にはコンビニがあって、吸い込まれるように中に入る。明らかに季節外れの格好をしている天使に店員の怪訝な目が刺さる。
レジに近い場所にあるおにぎり売り場から数個を取り、隣のコーナーからホットブレンド茶のペットボトルを選ぶ。
(……あ)
そこで気付いた。外出するつもりが無かったから、完全な手ぶらであると。
財布は勿論、こういう時の救世主であるタッチ決済可能なスマートフォンも無い。その全ても親から提供されたものに過ぎないという現実が頭を掠め、自分を嗤いたくなる。
(……でも、どうしようか……)
商品を持ったまま、立ち尽くす。ブレンド茶を手にした右掌だけが暖かい。
すぐ近くで、レジの店員が相変わらず怪訝そうにしている。聖夜より年上に見える、眉と体が太い男性だ。このコンビニの店長かもしれない。
(どうすれば……いや、そうだ)
その時、自分と一度も目を合わせずにリビングに入った両親の顔を思い出した。
(ここで僕が店を出れば……)
両親は警察に呼ばれるだろう。何よりも世間体を気にする二人だ。警察の前でまで無視はしてこないだろう――
おにぎりとお茶を棚に戻さず、堂々とレジ前を通り過ぎて自動ドアを潜り抜ける。
「ちょっと、君」
よく温まった手に肩を掴まれたのは、全身が寒風に晒された時だった。
□■□■
「俺と話した後に、家の中でそんなことがあったなんて……」
警察署の廊下を早足で歩きながら、慧は悔しさを覚えていた。天使はあれから穏やかな夜を過ごしたのだと思い込んでいた。澪央は隣で下を向き、辛そうな顔で黙っている。普段より、髪から花の香りを強く感じる。二人と、代表として前を歩く紗希はアレクシスとのグループ通話で天使に起きた出来事を知った。金色の『本』に書かれた内容を説明する通話には雫と直斗、明日香も居たが、彼女達はキオク図書館で『本』を通して状況を把握することになった。七人でぞろぞろと行く場面でも無い。
雫達は、アレクシスがそれぞれの『本』を持った状態で図書館から迎えに行くと言っていた。今頃はあの白い空間に集まっているだろう。
「甘かったわよね。あの状態で、両親と何も無いわけないのに……」
澪央が歯噛みをすると、紗希も後悔を口にする。
「私も……様子が変なことには気付いていたの。生徒に堕天使と言われるくらいだもの……。でも、時間を置くのも必要だと伊瀬さんに同意してしまったわ。まさか、髪を染めていたなんて……」
あの時、ちゃんと話を聞くべきだったし、天使君にも声を掛けなきゃいけなかったのよ。と紗希は言う。
一番前を歩いていた制服姿の警官が立ち止まる。
「この部屋になります」
案内された取調室は狭く、寒々としていた。鈍色の机の前に座る金髪の少年の後ろ姿が、いつもより小さく、痩せて見える。
「天塚……」
「神谷君……?」
振り返った天使は、そのまま消えてしまうんじゃないかと思うような痛々しい表情をしていた。