男が機嫌良さげに歩き出したのでそれに続こうとクロくんを見ると、クロくんの見開いた目がある一点を見つめていたのに気付いた。そこには、他の人間たちを殴ったり蹴飛ばして出来た隙間に体を捩じ込み本に向かって手を伸ばすひとりの青年の姿があったのだ。
「俺に新しい精霊をよこせ!あんな奴よりもっと強くて大きくて、誰にも馬鹿にされない精霊だ!俺は王子だ!お前らとは違う……こんな所で落ちぶれていい人間じゃないんだぞ!」
目を血走らせて叫ぶが、捩じ込んだ隙間から体を弾き出されて本から遠のくと「くそぉっ!!」と硬い床を拳で殴る。何度もそうしているのか、彼の拳は真っ赤に染まっていた。
『……ジェス坊』
クロくんの事情は聞いている。彼がクロくんに何をしたのかも。これまでフィレンツェアにしていた所業も合わせれば同情する気にはなれないが、クロくんにはツラい光景だ。あの男も先に行ったまま戻ってこないところをみると、たぶんわざとジェスティード王子の姿を見せつけているのだ。クロくんは教会の奴らに攫われそうになったというし、ここでショックを与えて再び弱ったところを付け狙う気かもしれない。
「……クロくん、これが最後のチャンスだよ」
『えっ……!いや、それは……』
周りに聞いている人間がいないのを確認して、視線を合わさないように声をかけるとクロくんが驚いた顔をした。別に咎めるつもりはないのに、気不味そうだ。
「生まれた時から見守ってきたんだから、簡単に割り切れなくて当たり前だ。まぁ、平気な精霊もいるだろうけど君はそうじゃないだろう?けれど彼の元に戻るのならば今しかない。……この後どうなるかなんて誰にもわからないんだから」
それに、フィレンツェアに危険が及ぶ状況で彼を選ぶのならば絶対に許さない。だから
「きっとフィレンツェアは何も言わないよ。あの子はそうゆう子だ。守護精霊との繋がりを誰よりもわかっている子だから……」
『フィレンツェアお嬢ちゃんは、人が良すぎるんだ』
「いい子だろ?自慢の娘なんだ」
『ああ、親の顔が見てぇくらいだよ。いい子過ぎて……やっぱり心配だな』
それが答えか。フィレンツェアの味方をしてくれるのは親として感謝しかない。
だからクロくんの意志を尊重してその場を離れようとした。クロくんがそう決めたのならば下手に刺激するのは危険だとも思ったからだ。
だが、立ち去るのが少しだけ遅かったようだった。
「……パ、パーフェクトファングクロー!?」
なんとこちらに気付いたジェスティード王子が、突然走って来たかと思うとクロくんに抱きついてきたのである。そして血に塗れた手で鬣を撫で回し、涙を溢れさせた。
「良かった!パーフェクトファングクローなら、絶対に俺を迎えに来てくれると信じていたぞ!お前ならきっとわかってくれると思っていたんだ!
ジェスティード王子は希望に満ちた目でクロくんを見ているが、クロくんの瞳の熱は逆に冷めていくように感じる。きっとこの態度に失望しているのだ。なにせ反省の色が全く見えない。だって今もクロくんに謝罪する様子すらないのだから。
「俺も悪かったとは思っているんだ……でも、あの時のは本気じゃなかったから!だから俺も、あんな冗談を真に受けて俺を見捨てたお前のことをちゃんと許してやるぞ!俺は心が広いからな……これでおあいこだ!お前が戻ってきてくれれば全部元通りになる!
それにしても、やっぱり“加護無し”は最低だ!きっとフィレンツェアの本性もここにいる奴らと同じに決まってる!まぁ、あいつならすぐにこの地獄のような場所に連れてこられるだろうが巻き込まれる前に婚約破棄して捨ててやるつもりだからパーフェクトファングクローは、へぶわっ?!」
次の瞬間、ジェスティード王子の体が吹っ飛んだのは言うまでもない。傍から見たらフィレンツェアの細腕で殴り飛ばしたように見えただろう。これでも普段は穏健派なのだが、娘を馬鹿にされてまで黙っているほどではない。ただ、あまりやり過ぎるとポンコが怯えて気絶してしまうので手加減は必須だし、要注意なのだ。
「な、何をする……フィ、フィレンツェア?!きさま、いつの間にそこに……?!これだから“加護無し”は……!」
どうやらクロくんに夢中でフィレンツェアの存在に気が付いていなかったようだ。意外と頑丈だったな。
そして殴られた頬を押さえながら、さらに興奮したジェスティード王子は聞くに堪えない罵詈雑言をフィレンツェアに浴びせてくる。クロくんを騙したのかとか、こんな事になったのはフィレンツェアと婚約して“加護無し”がうつったせいだとか。生まれてこなければ良かったんだ、なんて……。
あぁ、本当に入れ替わっておいて良かったと心の底から思ったほどだ。
そう言えば、フィレンツェアが婚約破棄したいと言っていた事を思い出した。元々はこの王子を王太子にする為の婚約だったはずだ。まぁ、どのみちこんな事になっては婚約は無かったことになるだろうけれど……。フィレンツェアへの対応を改善しない王家にもムカついていたし、ちょっとくらい意趣返しをしても許されるだろうか。それに、暴力や無理強いをするつもりはない。
「……クロくん、もういいかな?」
『あぁ……俺様はもう
クロくんの許可も得たし、最後に出来る限りの笑顔を見せてやった。それを見てジェスティード王子が「はひ?」と怯えたあたり、ちゃんと笑えていなかったのかもしれない。まぁ、いいか。