「わっ、見てください」
バレアさんに教えを仰いで今日で3日目。
その最後の最後になってようやく目標を達成できた。
「ん、こりゃすごいな」
部屋の中を飛び回る虹色の蝶を見ながら、バレアさんが感嘆の声をあげた。
僅かな時間で霧散していまったけれど、それでも成功は成功だ。
「本当にありがとうございました」
「俺は何もしてないしてない。というかこっちこそ部屋が片付いてありがたいくらいだぜ。これで研究も捗るってもんだ」
「そういえばバレアさんの研究って、何をするためのものなんですか?」
私がそう聞くと、バレアさんは遠い目をする。
そして低い声で唸るようにいった。
「……奇跡ってやつを起こしたいのさ」
あまりの迫力に思わず声を失った。
それはこの人が掛けてきたものの大きさを感じさせるのには十分だった。
「お二人とも、お疲れ様ですー」
不意に張り詰めた空気をそんなゆるーい声が弛緩させる。
どうやらお茶を運んできてくれたようだ。
「お、おい! こりゃ例のヤバいやつじゃ?」
バレアさんはカップの中身を覗き込むようにして叫んだ。
「大丈夫ですよー。あの腐りきってカビが生えてたくっさい茶葉は捨てましたからー」
「じゃあこれは?」
「私が昨日買ってきておいたものですよー」
そういってメリンダはお茶を机に並べた。
いい香りのそれは集中して疲れた心にすーっと染み込んでいく。
「うまい……な」
「でしょでしょー。私の好きなお茶なんですよ。置いていきますからよかったら飲んでくださいねー」
嬉しそうに笑うメリンダを見て、やっぱり連れて行かないことにして正解だったと思った。
私がいなくなっても……きっとメリンダはこの街で楽しくやっていけるでしょう。
「じゃあそろそろ迎えもくるでしょうし、帰る準備をしましょうか」
明日、私は——この街を出る。
早朝、小さくまとめた荷物を持って家を出た。
お父様と、お母様には昨日伝えておいたから見送りはなしだ。
メリンダにはどうするか悩んで、結局伝えなかった。
面と向かうと別れるのが辛くなっちゃうし。
でも感謝の気持ちを書いた手紙を部屋に残してきたから、あとできっと読んでくれるでしょう。
「いつもありがとう」
家の前で待っていてくれていた馴染みの御者さんにお礼をいって、荷物を積み込む。
いつもの送り迎えは辺境伯様の家紋が入った豪奢な箱馬車だった。
けれど、今日は一般的な荷馬車が用意されている。
食料や水、荷物を運ぶとなると、当たり前かもしれない。
「こちらに座ってください」
幌を被せた荷台の一部に厚手の布を敷いて、乗車用のスペースが設けられている。
本当は何台かの馬車で向かうことも提案されたけれど、必要最低限でいいと断った。
だから少しでも快適にしようと工夫をしてくれたのだろう。
「それでは出発します」
私が乗り込んだことを確認すると2頭の馬がゆっくりと歩き始めた。
——さよなら。
また戻ってきたら変わらない笑顔を見せてね。
それは幼い頃からずっと一緒だった
王都を出るのは久しぶりだ。
こうやって旅のようなことをするのは生まれてはじめてといってもいい。
私はなんだか新鮮に感じる空気を胸いっぱい吸い込んだ。
はじめは物珍しさもあって、体を乗り出すようにして景色を見回していた。
けれどすぐに御者さんから止められてしまった。
どうやら色々と危ないらしい。
落ちて危ないのは当然だけれど、この馬車に令嬢が乗っていますよと喧伝するのはもっと危ないそうだ。
「仕方ない、天啓の練習でもしよう」
目を閉じて魔力の流れを調整する訓練をしようと思った。
けれど、やっぱりもう一度あの蝶が見たくなって刺繍入りのハンカチを探す。
「あれ、どこかしら? かばんに入れたんだっけ」
かばんは手を伸ばせばなんとか届く位置にある。
よいしょっと勢いよく手を伸ばすと——。
「お探しものはこれですかー?」
そういって幼馴染のメイドからかばんを手渡された。
「メ゙、メリンダ! どうして……?」
「お嬢様、知ってます? 私って
そうだ、メリンダの天啓は直感だった。
私が街を出ることなんてとっくにお見通しだったのね。
「ビビビッときましてねー」
「何がビビビよ。まったく……あ、それより手紙は読んだ?」
「手紙ってなんですー?」
考えてみれば知らないのも当然だ。
手紙は家を出る直前に置いた。
けれどメリンダは私が家を出る前から馬車の荷台へ潜り込んでいたのだろうから。
「え、今から戻れるかしら……」
「それはさすがに無理では? それより手紙ってなんですー?」
はぁ、最悪だ。
メリンダへの感謝と愛をこれでもかと綴った手紙は、殿方への恋文を見られるより恥ずかしかった。
まあ殿方への恋文なんて書いたことないのだけれど。
「悪口じゃないなら別にいいじゃないですかー」
「良くないわよっ! それよりあなた、バレアさんはいいの?」
「バレアさん……? ああ、お嬢様の先生ですか。それがどうかしましたー?」
「ああ、それも勘違いだったのね……。でもだからって何でこっそりついて来るのよ」
私はがくっと項垂れることしかできなかった。
たくさん悩んでちょっと泣いて。
それでもそれがメリンダのためになると思ったことだったのに。
「とかいって、本当は嬉しいんでしょう?」
メリンダがそんな意地悪をいうから。
「バカ……」
そう言い返して、ぎゅっと抱きしめる。
「当たり前でしょう」
「はぁ、お嬢様のメリンダ離れはまだまだ先になりそうですねー」
憎まれ口を叩くメイドははにかんで、それから嬉しそうに笑った。