オウマ王国で行われる舞踏会まで王宮での滞在許可と、ダンスフロアの貸し出し許可を得たコトハたちは早速練習に来ていた。教師はバーサ、側ではマリがニコニコとコトハの事を見ていた。
「僭越ながら、私が講師を勤めさせていただきます。この一週間でコトハ様にはワルツを踊れるよう指導させていただきます」
「ワルツ、ですか?」
「はい。ワルツ、というのは三拍子のリズムを感じながら円を描くように踊ります。ゆったりと淡々とした曲調なので、カルサダニアの貴族たちはまずこれが踊れるように指導されます。勿論、オウマ王国も同様です」
どうやらダンスの基本になる踊りらしい。
「踊れるようになるのは……その、ワルツだけで良いのですか?」
「貴族でしたら色々と覚える必要がありますが……コトハ様は神子様ですから。神子様の力を示している貴女様を踊りが踊れないくらいで見下すような者はほぼおりません」
「そうそう。神子は貴族ではないのだから、そこは大目に見てくれるはずよ。気にしなくて良いと思うわ」
「もしそのような者がいたとしても、イーサン様が黙らせるでしょう、物理的に」
儀式の時に突っかかってきた男性に、毅然と反論したイーサンだ。なんとなくその姿が思い浮かぶ。
「そもそも、私としては神子様にダンスを踊らせるのもどうかと思うのですが……まあ、それは私の個人的な意見ですので、聞かなかった事にしていただけると嬉しいです」
「分かりました」
「話を戻します。なので、コトハ様にはまずワルツで使用するステップを覚えていただきたいのですが……ワルツをご存知ないとの事なので、実際どのような踊りか見ないと分かりませんね。マリ様、実演をお願いできますでしょうか?」
「ええ、勿論!」
「では、マリ様が男性パートを、私が女性パートを踊りますのでまずはご覧ください」
そう告げてバーサは後ろで待機していたブラッドに視線を送った。
ブラッドは彼の何倍も大きい何かの前に座り、手元にある板のようなものを押し始めると今まで聞いた事のないような音が流れ始めた。非常にゆったりとした心地の良い音色である。コトハが感動してブラッドを見ていると、その間に入ってきたのはマリとバーサだった。
マリはバーサに左手を差し出しており、彼女がマリの左手を取ったと思った瞬間――。
「……近い」
思わず小声で呟くほどコトハは驚く。お互いの身体が近いのである。コトハが踊り、と言えば舞を思い出す。舞は一人で踊るものだったため、男女で踊るものと聞いて、お互いが向き合って個々人で踊るものかと思っていたのだ。
だが、目の前の踊りは二人が密着し、息を合わせて踊っている。そこでふとコトハは気づいてしまった。今は目の前で実演のためにマリとバーサが踊っているが、本番は男女で踊る、という事に。
――男女、つまりイーサンとコトハの二人で、である。
ふと彼の事を思い出したコトハは頬を染めた。
最初に出会った時は瑠璃色の髪と蒼玉のような瞳に目を惹きつけられたが、最近は彼の顔を見て、綺麗だなと思う事が多くなっていた。
カルサダニア王国に来てからは、王城で働く女性使用人たちの中でもイーサンは一目置かれているらしく、彼とすれ違う時に目を奪われている女性が多いのをよく見かけるのだ。
結構な確率で女性たちが見惚れているので、コトハの美的感覚は王国の人とあまり変わりないのだろうと思うが……そんな彼の隣に自分が居ても良いのか、と最近は思っている。
それだけでなく……相手と触れ合う、というのがどうにも慣れない。この間レザボンを食べた後も食堂へ入るまでイーサンに肩を抱かれたが、どうしても身体が強張ってしまった。
本番も身体が強張りそうだ、そう考えたコトハは、イーサンに迷惑をかけないよう踊りを叩き込むしかないと思った。
コトハがイーサンと踊る事に気づき、狼狽えている頃。
王国から借りている執務室でイーサンは帝国から届けられた手紙を確認していた。部屋にいるのは、外交官室付きのニックだけである。
手紙を読み終え、顔を上げたイーサン。それに気づいたニックが便箋を手渡してから、「あ」と声を上げた。
「ニック、どうした?」
「いえ、これとは関係ないんですけど。室長は、コトハ様とダンスをするんですよね? 大丈夫ですか?」
「何がだ?」
「いやいや、考えてみて下さいよ〜! コトハ様は神子ですから、ダンスといっても習得するのはワルツだけになりますよね? ワルツって終始密着するじゃないですか。向かい合って見つめ合いながら彼女と手を取って踊れるんですか?」
「……!」
ニックの言葉からその場面を想像したのか、イーサンの顔は真っ赤だ。ただ、触れられる事が嬉しかったのか……だらしなく開きそうになった口を無理やり閉じようとしているためか、少々口角が引き攣っている。
そんなイーサンの姿を横目で見ながら、ニックは面白いものを見たと言わんばかりにニコニコと笑いながら話を続けた。
「舞踏会で踊れるなんて良いですねぇ! 確かローブを上に羽織るとブラッド殿は仰っていましたが……流石に踊る時はローブを脱ぐと思うんですよ! ああ、着飾った美女と踊れるのですから羨ましい事この上ないですね!」
「……」
帝国でもそうだったが、カルサダニアでもコトハは神秘的な黒髪に美しい顔立ちで男性から注目を浴びている。この間の外出だけでなく、王城内でもそうだ。イーサンやバーサ達が片時も離れないため、そしてイーサンの番である事が知られているので男性が近づく事はないが、偶然すれ違った男がコトハに見惚れていた事が何度かあった。
隣にいる男が自分で良いのか、と何度も思っている。まあ、結局は誰にも彼女の隣を渡すつもりはないが。
そして極め付けはニックの「着飾った」という言葉で、青色のドレスを着たコトハの姿を想像したのである。悶絶した。
その事に気づいたニックは、面白いと言わんばかりに引き続きイーサンへと話し続けている。
「それに室長だって顔立ちが整っていますからね。美男美女、注目されるでしょうねぇ……って、室長?」
ふと彼を見れば、頭を抱え込んで下を向いていた。流石にイーサンをからかいすぎたか、と思ったニックは、彼の顔を覗き込もうと顔を下げるが、その前にまるで夕焼けのように真っ赤になった耳が目に入る。
まだ慣れていないのかぁ……とニックは思った。
「だから心配なんですって。コトハ様の様子を見る限り、ダンスをするのは初めてだと思うんですよ。ですから、室長が彼女の踊りをリードする必要があると思いません? ちなみに室長、最後にダンスを踊ったのはいつですか?」
「……三年ほど前だったか」
「室長の事ですから、ダンスを忘れているとは思いませんけど、ほら、番と触れ合った時に頭から抜けてしまう可能性も否めないじゃないですか。ステップくらい練習した方が良いと思いますよ」
「……そうだな、ニックの言う通りだ。コトハ嬢が練習していない時にフロアを借りて確認をしておこう」
一息ついて冷静になったのか、イーサンは先程机上で折れ曲がってしまった便箋を取り除き、ニックから再度差し出されたそれを手に取った。だが、まだ先程の影響か軽く頬が赤く染まっている。
彼はもう一度便箋を机上に置き、返事を書こうとペンを手に取ったが、思う事があったのかそれを机に置いておく。そしてニックに声をかけた。
「なあ、ニック。少し聞きたい事があるのだが」
「おや、室長が珍しいですね。なんです?」
立っているニックから、下を向いているイーサンの表情は見えない。だが、彼が纏っている空気から何かしらの覚悟が見て取れる。何を言うのだろうか……その空気に飲まれたニックが、ごくりと唾を飲み込んだ――。
「なあ、ニックは番と出会った時、どうだった?」
「……へ?」
「俺は兄さんやヘイデリクの話は聞いた事があるのだが……ニックの話は聞いた事がないと思ってな。人生の先輩として色々教えてほしい」
「えっと……」
自分に話の矛が向くとは思わなかったニックは、まさかの質問に狼狽える。真剣な表情で彼を見ているイーサンを見て、ニックは己の失敗を悟ったのであった。