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第36話 二人で

 コトハが練習を始めて一週間ほど経った。


「1、2、3、1、2、3……はい。お疲れ様でした」


 ブラッドの弾く音楽とバーサの手拍子に合わせて、コトハはマリと向かい合って踊っている。最近は割と慣れてきたからか、コトハは楽しく踊っていた。

 最初は難しそうに思えたダンスだったが、意外と覚えてしまえば問題なく踊れたのは嬉しい誤算だ。元々故郷では泉の浄化のために頻繁に山道を歩き回っていた事に加え、祭りの舞をほぼ毎日行っていたからか、いつの間にか体力や筋力が鍛えられていたらしい。一時間ほど踊っていてもあまり疲れることもなく、濃密な練習ができた。


「ここまで踊れるのでしたら、問題はありませんね。舞踏会までに忘れないよう毎日何回か通して踊るだけで充分でしょう」

「本当ね! 最初から筋が良いなあ、とは思ったけれど……まさかこんな早く習得するとは思わなかったわ」

「バーサさん、マリさん、ご指導いただきありがとうございました」


 今日も何度か通して踊っているために、少し息が上がっている。少し疲労も感じてはいるが、それが心地よい。


 念のため後で自主的に練習しよう、と思ったところで「そういえば」とバーサが呟いた。


「コトハ様、そろそろイーサン様と踊ってみてはいかがでしょうか」

「そうね。本番前に一度練習してみると良いと思うわ。イーサン様と私だと体格が異なるから、踊り方も違ってくる可能性があるわよね」

「マリ様の仰る通りです。今のコトハ様でしたら、練習なしでも問題ない可能性もありますが、やはり練習した方が当日の安心感が違います」


 そう二人に勧められて、コトハは戸惑った。

 二人の言う事は尤もだし、彼女としても一度は踊っておいた方が良い、というのも理解している。ただ、頭で理解していても、心が付いていかないのだ。


「もう少し練習してからでも、良いですか?」

「分かりました。では、カルサダニア王国を出立する前に一度イーサン様と合わせてみましょう。イーサン様の予定を確認してから、日程についてはお知らせいたします」

「ありがとうございます。我儘言ってしまい、すみません」

「いえ、問題ございません……むしろその方が良いかもしれません」


 後半にバーサが呟いた言葉を聞き取れなかったコトハは、謝罪して聞き直そうとしたが、バーサが「いえ、何でもございません」と言っていたため、聞き出すのを止めた。


「バーサさん、お手数をお掛けしますが、調整はよろしくお願いします」


 と、コトハが頭を下げると、「承知いたしました」とバーサも頭を下げたのだった。



 結局イーサンとの合同練習が叶ったのは、オウマ王国へと出立する四日前の事だった。

 イーサンはカルサダニア王国との会合――これは神子とは別件の内容らしい――や、オウマ王国との舞踏会の件、そして帝国と決定事項に対するやり取りと多忙だった。そのため、ここ一週間は顔を合わせる事も少なかったのだ。


 だからだろうか。より一層コトハの緊張は高まる。


 いつものように借りているダンスフロアへコトハが向かうと、既にそこにはイーサンがいるらしく、扉の向こうから彼のものであろう声が聞こえた。と言っても、何を話しているのかまでは聞き取れなかったが。

 会話を邪魔しないように部屋に入ると、そこにいたのはイーサンとニックだった。


 イーサンは襟のついている飾り気のない黒いシャツに、黒いズボンを履いている。今までにない非常に簡素な装いだったが、それが彼には非常に似合っていた。彼は後ろを向いていたので、最初にコトハの姿に気がついたのはニックだった。


「おはようございます、コトハ様」

「おはようございます、ニック様」

「ああ、僕は堅苦しいのが苦手なので、様なんてつけなくて良いですよ〜。良ければよび……あ、何でもありません」


 ニコニコと話すニックに、コトハもつられて彼に微笑んだ。その時、ニックの肩が跳ねる。彼を見るイーサンの目が笑っていないのだ。背を向けているため、コトハには気づかれていないが、ニックはその視線に怯む。

 そこで彼は気づいてしまった。イーサンはコトハに呼び捨てで呼ばれたがっている事に。それを部下である自分が軽く告げそうになったので、阻止したのだろう。 いつものノリでコトハに接してはいけないと察したニックは、口を噤む。

 後は彼女が呼び捨てで呼ばないよう願うだけだ。そしてアステリア様はそんな哀れなニックを助けてくれたようだ。


「では、ニックさんとお呼びしてもよろしいですか?」

「勿論! それで! お願いします!」

「は、はい……」


 彼女の言葉に祈りを捧げるような格好をするニック。その様子に「どうしたのかしら?」と首を傾げるコトハ。彼の様子に戸惑い、助けを求めるかのように背中を向けているイーサンへと視線を向けたところ、彼と視線が交わった。

 それで改めて彼と踊る、という事を思い出し、照れからか頬をほんのりと赤く染める。そんな彼女を見たイーサンも、照れからか頬を掻いていた。


 そんな初々しい空気にニックはニコニコと……いや、ニヤニヤと二人を交互に見る。二人は自分たちの世界に入っているようで、ニックの存在を忘れているようだ。普段表情を変えない室長イーサンの恋模様に笑みが止まらなかったが、バーサとマリ、ヘイデリクが訪れた事で初々しい空気は離散していった。


「さて、コトハ様。今までのおさらいになります。よく練習されていたので、普段通りに踊れば問題ありません。イーサン様、コトハ様は練習したとはいえ初心者ですから、リードの仕方にはお気をつけください。では、折角ですから誘うところから始めましょうか」


 二人は頷く。コトハには緊張が走る。

 彼女はバーサへと送っていた視線をイーサンに向けた。丁度彼も同じようにコトハへ視線を向けていたようで目が合う。いつ見ても蒼玉のように美しい瞳に見惚れてしまうコトハだったが、そんな彼の瞳が近づいてきて我に返った。

 イーサンとは身長差があるため目の前に来ると少し彼の顔を見上げる必要がある。少しだけ顔を上に向けようとしたところで、イーサンが頭を下げた。そして跪き――。


「私と踊っていただけますか?」


 そう告げてから手を差し出される。おおむねバーサに教えられた通りの方法で誘われたコトハは、頷いて差し出された手に自分の右手を置いた。思いの外自分の手をイーサンの掌の上にスッと差し出せた事だけでなく、優しく握られた手に恐怖を感じなかった事にコトハ自身が驚く。


「よろしくお願いいたします」


 そう微笑んで告げれば、少々緊張して硬くなっていたイーサンの肩の力も抜けたらしい。イーサンの顔にも笑みが浮かんだのだった。

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