目次
ブックマーク
応援する
8
コメント
シェア
通報

第37話 ダンス

 今はイーサンと向かい合ってワルツを踊っているところだ。最初に手を出された時と、手と肩に触れる時は彼女も少しだけ緊張したのだが、始まってしまえばイーサンのリードが上手なためか、非常に踊りやすかった。

 踊りながらイーサンの顔を見た。すると彼と視線が交わり、イーサンは柔和な笑みをコトハに向けている。


 コトハは久し振りに楽しい、という想いが胸に溢れていた。


 故郷での舞は楽しむもの、ではなく神に捧げるものだ。そのため、彼女は常に完璧な踊りを求められた。巫女姫だと彼女が判明した時から、踊りに関しては厳しい指導が行われ、できない時は鞭で叩かれたりもした事がある。

 勿論、コトハも華族を守る星彩神に捧げる舞だと理解しているため、生半可なものではいけないと覚悟を決めて舞を踊っていたのだが……では、その舞が楽しかったか、と言えば否だ。

 ミスなく踊る事に注視していたため、感情は二の次。身体を動かす舞は嫌いではなかったが、楽しいと思う余裕もなかった。


 それがどうだ。ワルツは気負う事なく踊る事ができていた。勿論、神事と舞踏会という違いはあるのだが、何となくそれだけでは無いのだろうなと思う。このワルツをズオウと踊ったら……多分楽しい、という言葉は出てこない。相手がイーサンだからだろう。

 ズオウや村の人に暴言を吐かれた時、彼女の心は床に陶器を投げつけた時のように、粉々に砕けていた。けれども帝国に来て、周囲の優しさに触れているうちに、割れた心の破片ひとつひとつが修復していったのだ。だからこそ、コトハは彼や帝国の人たちならもう一度信じても良いかもしれない、と思い始めていた。


 もう一度イーサンをチラリと見る。するとその視線に気づいた彼もまた、コトハへと視線を送る。再度視線が交わった時、イーサンがコトハに声をかけた。


「コトハ嬢、踊りにくくないか?」

「いえ。むしろ練習の時よりも踊りやすいです」

「それは良かった」


 お互い微笑み合いながらも、ワルツは続く。


 幾分慣れもあり余裕のできたコトハが周囲を見渡してみれば、マリとヘイデリクは話しながら踊っている。二人の表情はとても明るい。その後バーサとニックへ顔を向けると、二人もこちらを見ながら何かを話していた。その時にバーサと目が合ったが、満足そうに頷いていたので、合格点は貰えたのだろうと理解する。

 最初の緊張が嘘のよう。むしろコトハはこの時間が永遠に続けばいいのに、と思っていた。それと同時に、こんな感情を抱く事ができるなんて……と、自分の中に現れた感情に驚きを隠せなかった。




 「ああ、素敵だわ……」


 バーサは慌てて漏れ出た言葉と恍惚こうこつな表情を引っ込める。


 彼女も侍女の端くれだ。だから表情には全く出さずに二人のダンスを見る事なんて朝飯前、と思っていたのだが……想像以上に麗しい二人の姿に顔が緩みそうになる。ブラッドの音楽に合わせて踊るイーサンとコトハの素晴らしい事。と、バーサは一人感動していた。

 一緒に来たマリは舞踏会の雰囲気を出すためにヘイデリクと共に踊っているし、イーサンの付き人のような立ち位置にいるニックは少し離れた場所で皆の踊る様子をニコニコと見ていたため、彼女の言葉は誰の耳にも届く事がないだろう。


 レノ以上の力を持つ神子が現れた、と聞いてどんな女性かと興味を持っていたが……まさか新人神子であるコトハが、可愛らしく真面目な頑張り屋だと誰が思うか。

 本人は最初他人とは一線を引いていた、という話をレノから聞いていたが、現在ではそれがまるで嘘であるかのようにイーサンと微笑みあっている。そしてもうひとつ……婚約者、番というような相手の特別であるような言葉に忌避感を持っているらしい事も教えてもらっていたが、どう見ても婚約者同士のダンスにしか見えないのは、ふたりの世界が出来上がっているからか。


 またコトハもダンスを踊り始めたのが二週間前とは思えないほどの上達を見せている。元々故郷で踊っていたのかリズム感が非常に良く、踊りに必要な体力もある程度ついていたのが良かった。

 イーサンもしっかりとコトハの事を見ているからか、無茶な踊りをする事はない。相手に合わせて踊る、リードにおける基礎の基礎が叩き込まれているからこそ、コトハも微笑みを崩さず……むしろ楽しそうに踊っているのだろうと思う。


 もう言う事はないな、と満足していると、知らぬうちにニックが隣に来ていたようだ。改めて顔を引き締め、にやけていたとバレないようにバーサから話しかけた。


「ニック様、お二人の様子はいかがでしょうか?」

「本当に息ぴったりだねぇ。舞踏会も心配なさそう。バーサさんはどう思う?」

「私もそう思います」

「うちの室長が直前まで『コトハ嬢に触れられて落ち着いていられるだろうか……』って悩んでいたけど、あの人は本番に強い人だったか……それとも、コトハ様に情けないところを見せられないと奮起したか……かな?」


 イーサンの沽券こけんに関わるので、バーサは言葉にはしないが軽く頭を縦に振って同意する。こちらから見ていると、度々コトハに見惚れているイーサンの姿が目に入るからだ。まあ、見惚れていたとしてもきちんとリードをしているので問題なさそうだが。


「後はコトハ様がドレスを着て踊れるかどうかですが――っと、ニック様どうなさいました?」


 今も一応ドレスに似たような長い丈のワンピースをコトハは着ているのだが、やはり一度はドレスで踊るべきだろうとバーサは考えた。そう言えば、数日前にコトハ用のドレスはオウマ王国へと先に送っておく、と言われた事を思い出しふと口について出たのだが……ニックの表情が曇っている事に気づく。


「いやぁ、コトハ様のドレス……ははは」


 歯切れの悪いニックに何となく理由を察したバーサは、彼を追及する事なく口を噤む。慌てなくてもオウマ王国で見る事ができるのだ。それよりも一度ドレスで踊る時間はあるか確認するべきだろう、と彼女は頭を切り替えた。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?