その後モイラが起きてから、イーサンとコトハは部屋から退出した。
目を覚ましたモイラは落ち着いていた。起きる前にレノが訪れ、「私の力が役に立つかもねぇ」と言ってアーベルの側にいてくれる事になったのだ。レノは昔から人の心の機敏に敏感らしい。アーベルも心強い、と感謝を述べていた。それを見届けたコトハは安堵からふう、とため息をつく。
「コトハ嬢は先に部屋に戻るといい」
「え、よろしいのですか?」
「ああ、問題ないだろう。君のお披露目は終わっているし、無理に神子と面会を取り付ける者はこの夜会にいないはずだ。俺は親善大使の長として王族の皆様へ挨拶はしなくてはならないが、その時に休んでいる事は伝えておこう。ああ、勿論部屋までは送って行くから心配しないでくれ。君を送ったとしても、夜会はまだまだ続いているだろうからな」
イーサンは宣言通り、コトハを部屋まで送ってくれる。部屋の中で待っていたバーサとマリにコトハは「ただいま」と伝えると、着替えや入浴など寝る支度を始めたのだった。
寝る支度を終え布団に潜り込み、バーサとマリは自分の部屋へと戻った頃。
目を瞑ろうとすると思い出すのは、モイラの怯えた表情だった。まるで巫女姫ではないと判断された時の自分のようだ、と。巫女姫としての誇りを踏み潰され、頑張ってきた時間を否定され……気丈に振る舞ってはいたが、段々と口を開かなくなったのは自分の頑張りを否定されるのが怖かったのだ。
モイラはきっと父に認められたかったのだろう。娘として見て欲しかったのだ……でも実際は実の父に虐げられ、奴隷のように働かされる。頑張っても頑張っても認められない、むしろ怒られて手を出される。それが常習化し……心の傷として残ってしまったのだろう。
コトハの言葉で彼女を救えたかは分からない。だけど、少しでも前向きに過ごしてもらえればと願うばかりだ。
そんな事を考えていると、外から微かに音楽が聞こえた。眠気はなく目が冴えてしまっていたコトハは、ガウンを羽織ってからバルコニーへと足を運んだ。音楽は広間から流れてきているのだろう、ベランダに出て逢瀬を楽しんでいるらしき人影がポツポツと見える。
今頃、イーサンは王族に挨拶をしているのだろうか。そして誰かと踊っているのだろうか。そんな事をふと思い、胸が痛む。そんな胸の痛みを隠すかのように、バルコニーの縁に顔を埋めた後、彼女は呟いた。
「……一曲くらい一緒に踊りたかったな」
「どうした? もしかして体調が悪いのか?」
聞き覚えのある声が聞こえて、声のする方へと振り向く。そこには隣のバルコニーに立っているイーサンがいた。コトハはまさか今頭に思い浮かべていた人が現れるとは思っておらず、顔を真っ赤にして何度も口を開閉する。
幸い、暗がりだったからか、コトハの頬が赤いところは見られていないらしい。何故ここにいるのか、何故隣の部屋にいるのか……聞きたい事が多すぎる。けれども、かろうじて出てきた言葉は――。
「……イーサン様、なんで……?」
呆然とイーサンを見つめるコトハ。彼は頭を掻きながら答える。
「国王陛下にも引き留められたが、やはりコトハ嬢が心配で……先に退出させてもらった。元々君以外と踊る気はないからな」
君と踊る気がない――その言葉に胸が高鳴る。そして恥ずかしさから、赤らめている顔を隠すために俯いた。いきなり下を向いた彼女にイーサンは驚き、慌ててひらりとバルコニーの柵を飛び越える。
「大丈夫か? 夜風は冷たいからな……体調でも崩してしまった……か……」
心配になったイーサンは彼女の顔を覗き込みながら尋ねると……そこには
勢いよく顔を上げたイーサンが気になったコトハは、心を落ち着けるために大きく息を吸った後、恐る恐る顔を上げる。
「あの、イーサン様、どうしたのですか?」
コトハが尋ねれば、イーサンは一度コトハの方へ顔を向けるが……次は手で目を覆った後に、右へと向いてしまう。だが、コトハの目には
――イーサンが照れている。
そう気づいたコトハは彼のその姿をじっと見つめてしまう。イーサンはその視線を感じたらしい。こほん、と咳払いをした後、コトハに顔を向けた。
「それよりも、体調は問題ないか?」
心配そうに尋ねられたので、コトハは「大丈夫です」と答えようとしたのだが……。ふとイーサンが思った以上に近くへといる事に気づく。彼との距離の近さにコトハの頬は、また赤らむ。
「はい、体調は大丈夫なのですが……」
口籠る彼女にイーサンは首をひねる。
「えっと……」
まさかイーサンの事を考えてたら、本人がいて嬉しかった……なんて言えない。それよりも、コトハはあれ、と首を傾げた。
「それよりも……あの、なんでこちらに……?」
「ああ、柵を飛び越えてきた」
「えっ! 飛び越えて?! 危ないのでは?!」
「いや、これくらいの高さなら楽に飛び越えられるが……」
そう告げて頭を掻くイーサンと心配そうに彼を見つめるコトハ。そんな二人の視線が交わり合った瞬間、お互い吹き出した。
「イーサン様、そんな事してよろしかったのですか?」
「ああ……君が心配で思わず……」
「ありがとうございます。ですが、危険ですから、今度から気をつけて下さいね」
「そうだな、善処しよう」
お互い笑っていた二人。だが、どちらからともなく……まるで時が止まったかのように見つめ合う。彼の瞳に吸い込まれたのではないか、と思うほどイーサンから目が離せない。
その時ふと聞き覚えある音楽が耳に入ってくる。我に返って舞踏会会場の方を見れば、ワルツが始まったらしい。遠目ではあるが、見覚えのあるステップを踏んで踊っている人たちの様子が見える。
ぼうっと会場を見ていると、目の前にいたイーサンが視界の端で動いたような気がした。どうしたのか、と彼を見れば、イーサンは片膝立ちでこちらに手を差し伸べている。
「よろしければ、私と一曲踊っていただけますでしょうか?」
「……はい、お願いいたします」
バーサから習った作法とは全く違う誘われ方である上、そもそも二人の格好は夜着にガウンを羽織っているだけだ。だけれど、コトハは彼が誘ってくれた事、彼と踊れる事がとても嬉しい。
遠くから聞こえる調べを微かに感じ、二人は月の光に照らされながら、二人だけのダンスを楽しんだ。
だが、楽しいそんな時間もすぐに終わりが来てしまう。
ワルツが終わり、次の曲になり……コトハとイーサンは名残惜しくも身体を離す。彼と踊れた事が相当嬉しかったコトハの頬は上気していた。線を引いていた以前には考えられないような心の底からの笑みをコトハは見せていた。
「イーサン様、ありがとうございました! 一緒に踊りたいと思っていたので、嬉しかった……です……」
興奮からか、隠していた想いを思わず口にしてしまったコトハは、途中でその事に気づいて慌てて口籠る。だが、その言葉は勿論、きちんと、イーサンに伝わっていた。
「俺と……踊りたいと思ってくれたのか?」
彼も嬉しいのか、普段よりも上擦った声でコトハに尋ねる。
「……はい」
恥ずかしさから視線を逸らすコトハ。だが次第に無言の時間に耐えかねた彼女は、少しずつイーサンへと顔を向ける。するとそこには今までにないほど優しい表情でこちらを見ているイーサンがいた。
彼はまるで壊れやすいものを扱うかのように優しくコトハの両手を取る。そんな表情をするイーサンに彼女は目が離せなかった。そして――。
「俺は君を一生愛する事を誓おう」
二人の間に一筋の風が通り過ぎる。その言葉を聞いていたのは、コトハと彼らを照らしていた月だけだった。