「イーサン、何か言ったか?」
「いや、言っていないが……」
イーサンとヘイデリクはコトハたちの部屋から帰ってきた後も、二人で話し合っていた。そんな矢先、ヘイデリクが眉間に皺を深く刻む。彼がこんなに表情を変えるのは、マリの時だけだ。
イーサンはすぐに女性棟にある二人の部屋へと身体を向けた。
「ヘイデリク、行くぞ」
「ああ」
二人は部屋を飛び出す。
屋敷は静まり返っている。
走りながらも、イーサンは食事の時に屋敷の管理人から告げられた言葉を思い出していた。現在この屋敷にいるのは、コトハ、マリ、イーサン、ヘイデリクの他に、セイキと管理人である。管理人とセイキは食堂の奥にある管理棟という場所で寝泊まりすると話していた。
管理棟の二人が関係しているかは分からない。だが、まずは女性陣の元へと行くのが先だ。コトハの無事を祈っていたイーサンは、目の前を走っていたヘイデリクが止まった事に驚く。
「ヘイデリク、どうしたんだ」
「イーサン、先にマリの部屋へと行っていてくれないか?」
「……成程、ここは任せたぞ」
複数の気配を感じ取ったイーサン。これくらいならヘイデリクでも問題ないであろう、と判断した彼が走り出す。するとそれを止めようとするかのように、黒い何かがイーサンの目の前に飛び降りてきた。その黒いローブの中からチラリと何かが光り、それが自分の胸に向かって突き出される。
金属と金属がぶつかるような甲高い音が周囲に響き渡った。袖の下に付けていたイーサンの金属の鎧と暗部の男の黒いナイフらしきものがぶつかり合っていたのだ。
「刃物か、厄介だな」
「……!」
目の前の男は目を見開いてイーサンを見ている。防がれるとは思ってもみなかったのだろう。
イーサンの目の前にいる男は後ろに視線を送り軽く頷いた。すると、三人ほど黒いローブの者たちがヘイデリクに襲いかかる。イーサンとヘイデリクを分断してから一人がイーサンを相手し、複数人でまずヘイデリクを倒す……そんな作戦のようだった。
イーサンと対峙している男は、あの人数であれば早々に決着がつくであろうと考えていた。目の前にいる
逃げるのもやっとこさ……つまり自分の速さについてくるのがやっとの事なのだろう。眉間に寄せている皺も、自分の速さに辛うじて付いてきているだけのように見える。こんなに楽な仕事はないな、と薄気味悪く口角を上げていた。
イーサンとヘイデリクがこんなに早く気がつくとは思っていなかったため、彼は二人の評価を上方修正したが、それでも自らの足元には及ばないだろうと判断していた。ヘイデリクとイーサンでは、どちらかと言えばイーサンの方が強いだろう。そう判断して暗部の中で一番実力のある自分が相手をしたのだから。
ヘイデリクも強いだろうが、三人も相手にできまい。そう考えてこの布陣にしていた。
その判断は正しかったようだ。男は戦闘中、ヘイデリクと呼ばれた男の方を一瞥すれば、三人に対して彼が四苦八苦して攻撃をかわしているように見える。あとは睡眠薬を塗った刃物で三人のうちの誰かが、ヘイデリクの身体に傷をつけるだけでも……彼は戦闘不能に陥るはずだ。そうすれば、四人でイーサンを叩く事ができる。簡単な仕事だ。
刃と金属のぶつかり合う音が周囲に響き渡る。簡単に終わる任務だと思っていた男だったが、ふと疑問に思った。相手は苦戦しているはずなのに、何故戦闘が終わらないのかと。
様子を見る限り、一瞬で決着が着くだろうと男は踏んでいたのだが。
男は何か思い違いをしているのではないか、と感じた。その時だ。目の前にいたイーサンが声を上げて笑ったのだ。
「……何が可笑しい」
目の前のローブの男がイーサンへと問う。男からすれば、イーサンとヘイデリクは彼らによって倒されるのが確定している。それにもかかわらず、そのうちの一人がおかしそうに笑っているのだから、苛立ちも募った。
「いや、甘く見られたものだな、と思ってな……それっ!」
「……は?」
気の抜ける掛け声と共に、間抜けな声が出た男は地面へとうつ伏せになっていた。刃物を持っていた右手首を思い切り掴まれた上、捻り上げられた男は思わず地面に刃物を落とす。左手も拘束されており、身動きできない状態になっていた。
違和感はこれだったのだ。男は
彼らは簡単に自分たちを無効化する能力があったのだ。その事に気づかず、この男の掌の上で踊らされていたのだろう。まあ、しかし自分たちの任務は最低限こなしたはずである。問題ないと判断した。
管理棟からパタパタと足音がする。そこに現れたのは驚愕した表情でこちらを見るセイキの姿が。
「あなたは……!」
「……」
セイキの声を無視した男は、何かを呟いて消えていく。それはヘイデリクが倒した暗部たちも一緒だった。
消えていく黒装束の男たち。目を細めてその様子を睨みつけていたイーサンは思った。
あれは、コトハの浄化とはまた違う力である。コトハの浄化が光だとすれば、あの力は闇。なんとなく神の力に近いものを感じるが……女神アステリアよりも根本的な力は弱そうだ。
あの男たちと一分にも満たない戦闘ではあったが、ある程度の手練である事は理解できた。だが、竜人であるイーサンとヘイデリクから見たらそれだけである。どちらかと言えば正面切っての戦闘よりは、暗殺の方が得意なのだろうが……この力量であれば、倒される事はないだろうと判断した。
それよりもコトハとマリの事が心配だ。イーサンは身体の力が抜けてへたり込んでいるセイキへと視線を送る。
「セイキ殿……あれはお前の指示か?」
彼は恐る恐るイーサンの顔を見てから、思いきり首を横に振った。彼は漠然とだが、セイキは嘘を言っていないと感じた。
「イーサン、行くぞ」
「ああ、今は時間が惜しい。向かっている間に話を聞かせてもらおうか」
「……は、はい……」
立ちあがろうとするセイキだったが、力が入らないらしい。ヘイデリクは肩を竦めた後、彼を腰の横に抱えて走り出した。
「セイキ殿、あの者たちは暗部だろう?」
「……はい。そうだと思います」
セイキは顔面蒼白である。まるで幽霊でも見たような表情だ。
「……そうだと思います、というのはどういう事だ?」
「私は暗部の者たちを見るのが、これで初めてですので……我が村の暗部は長老直属。年寄衆の前ですら、顔を出すことはありません」
「……その割には驚いていたようだが、何かあったのか?」
彼はイーサンに訊ねられ、一度言葉が詰まったが……ポツポツと話し始める。
「イーサン殿と戦っていた者なのですが……私の亡くなったと言われていた幼馴染にそっくり……いえ、幼馴染本人でしょう」
「なに……?」
「幼い頃の面影を残しているのもありますが……右の目元にほくろがふたつ……亡くなった幼馴染と同じ位置にありましたから」
「何歳頃にその幼馴染は亡くなったんだ?」
「そうですね……十歳頃かと……」
セイキの話によれば、子どもが亡くなったと聞いた彼の両親たちも崩れ落ちて泣いたそうだ。つまり、両親たちにもこの事は知られていないという可能性もある。子どもが亡くなる事故は度々あるらしいが、もしかしたら幾つかは暗部として育てるための偽装事故を装っている可能性も否定できなくなった。それに思い至ったヘイデリクも眉間に皺を寄せている。
その後全員が無言のまま、マリたちの部屋へとたどり着いた。