「このまま、ここにいてもアンジェリカ様にとって良いことはなにもありません。逃げることを強く勧めます」
アンジェリカは驚いてルイスを見上げた。
筆頭執事のルイスは、常に冷静沈着な人物だった。どんな時にも顔色一つ変えず、淡々と仕事をこなす。
それが今は感情を露わにアンジェリカに訴えかけているのだ。
けれどアンジェリカは首を振った。
「……行くあても無いのに、逃げられません」
「でしたら私の故郷に行かれてみてはいかがですか? ここから汽車で2日もあれば行く事が出来ます。のどかな田園風景が広がる自然が美しい場所ですよ?」
「お金も無いのに逃げられません。生活費どころか汽車賃だってありません」
「お金が必要とあれば、私が援助いたしますよ?」
ルイスは何としてもアンジェリカを助けたいと思っていた。
「ルイスさんには迷惑かけられません。それに父に知られたら、それこそルイスさんもただでは済まされません。私のことで巻き込みたくはありません。そのお気持ちだけで、十分ですから」
「アンジェリカ様……」
淡々と話すアンジェリカの目は、生気を失っている。
ルイスは心配でならなかった。
「私のことなら大丈夫です。御心配していただき、ありがとうございます。それでは私、もう行きますね」
「は、はい……アンジェリカ様。お休みなさいませ」
アンジェリカが家の中まで入っていく姿を見届けると、ルイスは再び屋敷へ戻って行った。その顔には険しい表情が浮かんでいた――
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「……ただいま」
アンジェリカが離れに戻ると、ヘレナが駆け寄ってきた。
「アンジェリカ様! お帰りなさ……! まぁ! ど、どうなさったのですか!?」
「ヘレナ……」
ヘレナはアンジェリカの頬を包み込み、顔を覗き込んだ。
「旦那様に叩かれたのですね? 何て酷い方なのでしょう。女性に暴力をふるうなんて、最低です! あぁ……それに怪我をされているではありませんか……」
ヘレナの優しさがアンジェリカの心に染みわたる。
(ヘレナは優しい人だから、私がお父様に暴力を振るわれたことを知れば、ますます心配するに決まっているわ。もしかすると、お父様に文句を言いに行くかもしれない……)
アンジェリカを庇ったことで、罰を受けてクビにされてしまったニア。
産まれた時からずっと傍に居てくれたニアと別れの挨拶すら出来なかった。
ヘレナまで同じような目に遭うことだけは耐えられない。
そこで嘘をつくことにした。
「いいえ、これは違うの。帰り道、足元が暗かったから転んで顔をぶつけてしまったのよ」
「転んだって……そんな……」
「本当よ。ヘレナが心配するようなことではないから大丈夫」
「分かりました……では怪我の様子を見せて下さい。お部屋に参りましょう?」
「分かったわ」
ヘレナはアンジェリカを部屋に連れてくると、早速怪我の様子を見た。
「……血も止まっているようですし、大丈夫そうですね?」
「ね? だから言ったでしょう?」
「そうですね。……あの、アンジェリカ様。お屋敷で何があったのですか?」
「ヘレナ……」
するとヘレナはアンジェリカの両手を握りしめてきた。
「お願いです、一体旦那様はどんなご用件で呼びつけたのか教えてください! そうでなければ……心配で夜も眠れません!」
ヘレナは真剣な眼差しでアンジェリカを見つめる。
(このままでは言わないほうが、かえって心配かけさせてしまうかもしれないわ)
「分かったわ……」
アンジェリカは心を決めると、屋敷での出来事を報告した――