「――いる? 六年前の新聞を読んでた学生が?」
「ええ、あの〝
銀縁の眼鏡が
ケイレブ・ノーマン・クロウリーを担当していたアロイシャス医師とも連絡がとれ、電話で直接ネッドが話を聞いた。
クロウリーはヴェトナム従軍時の心的外傷後ストレス症による解離性障害という診断で、入院時は自分が
症状が落ち着いてきた頃、クロウリーは病室でかつて自分が担当した〝魅惑の殺人鬼〟による連続殺人を基にした小説を書いていたそうだ。だがクロウリー自身はそれを自覚していなかったという。ネッドが、クロウリーが殺人を繰り返す可能性はと尋ねたところ、医師は繰り返すとしたら偶々でしょうと答えた。心的外傷を抱える患者は問題となる出来事を避けようとするし、クロウリーの場合は記憶や意識の連続性が失われていて、起こったことを次々と忘れていくから考え難い、と。
ネッドからそれを聞いて、サムはクロウリーを容疑者から完全に外した。
広大な敷地内に建つ大学の図書館。夏休みに入ってから少し経つはずだが、キャンパスには大勢の学生の姿があった。これから家族のもとへ帰る者もいれば、補講や夏期講習などに参加する者もいるのだろう。
職員から六年前の新聞を閲覧していた学生がいると聞き、州立、私立合わせサンフランシスコ中の大学をまたすべて廻らなければと思っていたサムとネッドは、最初に訪れた場所でいきなり引いた
「確かですね? ここの学生に間違いない?」
「え? ええ、貸出するときに学生証を出してもらう必要がありますから。ここの学生じゃなくても利用はできますけど、その場合は州発行の写真付き身分証明書の提示をおねがいしているんです。だからいつ誰がなにを閲覧したか、すべて記録が残ってますよ」
聞き込みで、これほど力強い言葉を聞いたことがあったろうか。サムとネッドは思わず顔を見合わせ、興奮を抑えようと努めつつ頷きあった。
ちょっとお待ちくださいね、と云って職員は奥へと引っこんでいった。その間、おそらくほんの二分ほどだったはずだが、既に気が逸っていたサムには二十分にも感じられた。
そして再び職員が目の前のカウンターの中に現れたとき。「これがそうです」と差しだされた貸出記録には、彼女の云ったとおり日付と閲覧した書籍名、専攻と氏名が記されていた。いくつか『一般』と書かれているところ以外は、すべてここの学生らしい。
「このファイルは五月分だね。すまないが、三月と四月、六月の今日までの分も確かめたい。……いや、持ち帰りはしない。後日、令状をとったらあらためて証拠品として提供してもらうかもしれんが、今はとりあえずそこで見させてもらって……そうだな、必要なところだけあとでコピーをもらえるかな?」
貸出記録ではないだろうが、コピーの依頼はよくあることなのだろう。別に不思議そうな顔をするでもなく、職員は事務的に一枚につき十セントですと答えた。
「……その学生は、コピーはとらなかった?」
サムがふと不思議に思って尋ねると、職員は少し考えるように首を傾げた。
「とってないですね。少なくとも私は頼まれた憶えがないです」
遺体の様子について詳らかに書かれた記事など、必要としているのを知られたくなかったのかもしれない。熱心にノートに書き写していたらしいということだったが、知りたいことが書いてある記事さえみつければ、メモをするだけで充分事足りるだろう。
「はい、三月から六月の、昨日の分までの貸出記録です。今日の用紙だけ、ここに置いておかなくちゃいけないんで……」
「それでかまわない。ありがとう」
礼を云いながらサムは、コピー代が一枚一ドルでも喜んで払いたいと、心から思った。
「――サイモン・エイブラムス、二十三歳、サンフランシスコ・ウエストリッジ大学の学生。エイブラムスは大学内の図書館で七二年十二月から七四年九月までの新聞を、五月七日から十一日までの計五日間かけてすべて閲覧してた。職員にはずばり〝魅惑の殺人鬼〟の事件について調べたいと云ったそうだ。だがコピーはとらず、ノートになにか書き写していたらしい。コピーをとらなかった理由は、あとで説明する」
これがその貸出記録だ、と云いながらネッドがとってきたコピーをだす。探偵事務所のオフィスでコーヒーを飲みながら、ジャクソンは文句のつけようがないというように低く唸った。
「……偶々、連続殺人犯の心理について論文でも書くだけじゃないのかと云いたいが――」
「確認してきたが、そういうテーマで論文を書くって話は誰も聞いてないそうだ。しかもエイブラムスの専攻は心理学や犯罪学じゃない。経済学だ」
サムがそう云うと、ジャクソンは納得するしかないというように、眺めていた貸出記録のコピーをデスクの上に放った。
「……で? どうする。事件の記事を読み漁ってたってだけじゃ、捜索令状は――」
「いや、もう部屋は見てきた」
「は?」
ネッドの言葉に、ジャクソンはぽかんと口を開けた。「見てきたってどういうことだ。まさか、令状もなしに勝手に留守中の部屋に――」
「まさか。令状なしでいきなり捜索なんて、そんなことはしないよ。ねえ、サム」
「もちろん。そんなことをして、もしなにか証拠がでたって裁判で使えないからな」
「そうそう」
とぼけた会話をするふたりに、ジャクソンが訝しげな目を向ける。
「……なんだその、小芝居めいたやりとりは」
「まあ、説明するとだな……俺とネッドは大学から戻るとき、道に迷ったんだ」
サムがそう云うと、ジャクソンはまたも「は?」と呆れた顔をした。
「いや、敷地が広くってさ。あっちでしたかね? って俺が云ったら、サムが、いやこっちだったって云って――」
「俺の所為にするのか? まあいい。そんな感じで、帰りに迷った先に、
「偶々?」
「そう。偶々」
呆れ顔のジャクソンに肩を竦めてみせ、サムは話を続けた。
――大学の敷地内、西側の外れに位置する学生寮は、六階建ての立派なアパートメントだった。淡いクリーム色の外壁には太陽や花などをモチーフにしたらしい、カラフルでサイケデリックな模様が描かれている。美術系の学生が描いたものだろうか。
サムとネッドは、入寮を希望する新入生の家族といった
そして談話室やランドリーなど、一通りの場所を見てまわったあと。
「ところで、ここにサイモンもいるんだったかな? サイモン・エイブラムス。息子のいとこと友達で、ここの学生だって聞いたことがあるんだが」
「サイモンなら三階の奥から三番めの部屋ですよ。あ、でも今はいないんじゃないかなあ……。あいつ、ずっとここには戻ってきてないんですよ。具合でも悪くて親許に帰ったのかも」
「そうなのか。いや、いいんだ。ちょっと思いだしたから訊いてみただけでね」
そしてサムは案内をありがとうと礼を云い、ネッドといったん外に出て一周りしてからまた戻り、三階へ向かった。
奥から三番め、と向かった先の部屋のドアは開いていた。いないんじゃなかったのか? と緊張を走らせそっと中を窺うと、「サイモン?」と声をかけながらこっちを向いた顔があった。
緊張を解き、サムは部屋にいる人物の前に顔をだした。
「ああ、なんだ。てっきりサイモンが帰ってきたのかと……すみません。ところで、誰?」
「こっちこそすまんね。今度、うちの息子がここの学生になるんで……寮はどんなところかと見に来たんだ。そしたらここのドアが開いてたもんだから」
赤毛でそばかすの目立つ人懐っこそうなその学生は、それならどうぞとサムたちを部屋に招き入れてくれた。
部屋は二人部屋らしく、入ってすぐドアの両側はクローゼットになっていた。部屋の正面には窓があり、小さなチェストを挟んでデスク、その上にはウォールシェルフ。ベッドはぴたりと壁につけ、クローゼット側を足許にして設置されていた。その下には、ラゲッジと靴が置かれているのが見える。
「ふむ、まあ、典型的な学生寮の部屋だね」
「ええ、ちょっと狭いんですが……学年が上がったら一人部屋のある寮に移ることもできるんで。デスクはあるけど、僕なんかはここで勉強ってほとんどしないですよ。眠るだけ」
家具の配置は左右対称だが、左を向くのと右を向くのとでは印象はまったく違っていた。こんな感じ、と部屋を見せてくれている学生は、入って左側に立っている。そちらはデスクにたくさんの本が積まれ、その脇に小型のラジオとジャックに挿しっぱなしのイヤフォン、バックパックが置きっぱなしになっていた。ベッドの上にも脱いだシャツや帽子が散らばっていて、ありふれた若者の部屋という感じだった。
が、それに比べると右側は若者の部屋らしい雑多な印象を受けなかった。デスクには本が置きっぱなしになっているし、ペン立てもある。ゴミ箱にはマグ・オー・ランチの空き箱がいくつか――すべてマカロニ&チーズだった――棄ててあり、それなりに生活感はあった。しかし雑誌の類やラジオ、カセットテープなど趣味のものがまるでない。
あるのは、壁に貼られている新聞の切り抜きと、スケッチブックを破ったらしい何枚かの絵――そして、ぽつんと場違いな感じで棚に置かれている、髪色脱色剤のスプレーくらいのものだった。
「――エイブラムスが記事のコピーを依頼しなかったのは、必要ないからじゃなかった。奴の部屋には新聞記事の切り抜きと、ソガードを描いたらしい顔や、レインウェアを着てナイフを持った男のスケッチがピンで留めてあった。どうやら〝魅惑の殺人鬼〟の熱狂的なファンらしい。ソガードの写真が報道された記事はそのまんま欲しくて、こっそり抜き取っていたようだ」
「他に、友人と撮ったらしい写真もベッド脇に何枚か貼ってあったんだが、エイブラムスはもともと茶色い髪で、ちょっとふっくらしたおとなしそうな見た目だった。けど最近の写真ではげっそりと痩せて、髪も金髪に変わってる。ありゃファンっていうか、狂信者って感じだよ。殺人鬼をまるで映画スターかなにかみたいに切り抜き集めて似顔絵描いて……いかれてる」
サムたちの話を聞いていたジャクソンは、組んでいた腕を解いて膝を掴み、ふたりの顔を交互に見た。
「……帰りに迷って、その先に寮があって、偶々容疑者の部屋のドアが開いていて、ルームメイトが部屋を見せてくれたって?」
「まあ、そう」
「そういうことだ」
ジャクソンはなんだか頭が痛そうだったが、サムは気にせずポケットから一枚の写真を差しだした。「ついでに、偶々こんなものが袖に入りこんでたもんで、今度もう一度返しに行こうと思ってる」
ぎょろりと落ち窪んだ目をした金髪の男の写真をみつめ、ジャクソンはふむ、と息をついた。
「もういい。面倒な話し方をするな。……髪色だけじゃない、スタイルも真似てるのか。確かソガードもこんなふうに前髪を流していたな」
「ああ。まだ状況証拠しかないが、ほぼ確実に犯人と見て間違いないだろう。寮に帰ってこなくなったのも、先月の中頃だったとルームメイトは云ってた」
「先月……五月の中頃か。四件めの犯行があったのと同時期だな。車は?」
「それが、調べたんだがエイブラムスは自分の車を持っていない。レンタカーを使ってるか、友達にでも借りてるのかもしれん」
「自宅には? 親の車に乗ってるのかも」
「俺もそう思って電話をかけた。母親がでたんで、適当に話をでっちあげて訊いてみたが、車は家にあるし息子はずっと帰ってきてないそうだ。大学に入ってから、電話の一本さえないと云ってた」
「家は何処だ?」
「ストックトンだ。母親と義理の父親と、歳の離れた弟と妹が住んでる」
「その弟と妹ってのは、種違いの?」
「そうらしい。……帰りたい家じゃないのかもしれんな」
暫し考えこみ、ジャクソンは迷うように顎を撫で――やがて云った。
「とりあえず、大学とストックトンの家でエイブラムスについて聞き込みをしてみよう。そのあと、自宅と寮の周りを張り込む。エイブラムスが戻ったら身柄を拘束して話を訊こう。判断はそれからだな」
「チームには?」
「もちろん報告はするが……今のところ、犯人がエイブラムスかクロウリーなのかは五分五分だろう。あっちはあっちで任せておいて、俺たちはこっちを追おう。そのほうが確実だし、ボズウェルも文句は云わんはずだ」
ジャクソンの意外な意見に、サムはにやりと笑みを浮かべた。
「心強い味方ができてありがたい」
「味方になったわけじゃない。話を聞いた限り、エイブラムスのほうが怪しいと思っただけだ」
「俺はもう、クロウリーの線はまずないと見てるがね」
「ボズウェルにもそう思えるまでやらせとけばいいさ」
ジャクソンはソファから腰をあげ、脱いでいた上着を手に取った。「ところで、腹が減らないか。このあいだ、旨いキューバ料理の店をみつけたんだが、一緒にどうだ……サム」
ネッド、おまえも。とジャクソンが続ける。なにがよかったのかわからないが、どうやらジャクソンはネッドと自分のことを捜査を共にする仲間として認めてくれたらしい。ネッドは顔が綻ぶのを抑えるように口先を尖らせ、ちらりとサムの顔を見たあと、答えた。
「もちろん付き合うさ、ヴァーノン」
なんとなくほっとしつつ、これでネッドを探偵事務所で雇うことはなくなったかな、とサムは微かに落胆している自分に苦笑した。