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scene 23. アンブッシュ

 エイブラムスが現れたと無線で連絡が入ったのは、張り込みを開始してから四日めの夜のことだった。

 聞き込みでは思うような収穫は得られず、サムはリックたちをアパートメントに送ったあと探偵事務所兼自宅に戻り、張り込みの交代に備えて仮眠をとっていた。ベッドでは眠りが深くなってしまうと、応接室のソファで横になったのが夜の十時。目覚まし時計のアラームを一時に設定し、一時半頃にはネッドと交代する予定であった。

 だが、サムを微睡みから呼び起こしたのは真鍮製のベルをハンマーが叩くけたたましい音ではなく、無線機ウォーキートーキーから聞こえるノイズとネッドの声だった。

『――……ム、サム! 聞こえますか、対象が現れました!』

 サムははっとして半身を起こし、テーブルの上に置いてあった無線機を取った。

「聞こえてる。いま奴は?」

 応答しながら時計を見る。針は十一時半を少し過ぎていた。これだけ眠れば充分だ。

『自転車で戻ってきて、今は建物内です。ヴァーノンが尾けてますけど――』

「慌てるな。奴は長居しないでまた出ていくはずだ。俺もすぐに出る。あとでまた連絡をくれ」

『了解』

 エイブラムスがやっと姿を現した。サムはソファに掛けてあった上着を着ると、いつものように装備品の確認をした。ホルスターに銃、ベルトポーチ、予備弾薬――さあ、これからだぞと気を引き締める儀式だ。

 エイブラムスを尾行し、潜伏先をつきとめる。そうすれば、殺人の証拠がみつかる可能性がぐんと高まる。エミリオも発見できるかもしれない――生きていてくれとサムは祈った。サムたちの推理どおり、エイブラムスが犯行を目撃されて拉致したのであれば、必ず締めあげて吐かせてやる。

 無線機と車のキーを手に、サムは逸る気持ちを抑えようと深呼吸して事務所を出た。




       * * *




 サムに連絡を入れてからおよそ二十分後。間もなく深夜零時になるというその時刻、学生寮から出てきたエイブラムスは再び自転車に乗った。駐輪場に放置されていた錆びついた自転車を拝借し、植え込みの陰で待機していたネッドはエイブラムスの尾行を開始した。さらにヴァーノンの車が、エイブラムスに気づかれないよう充分な距離を空け、後に続く。

 どうやらエイブラムスが寮に戻ったのは、着替えのためだったようだ。エイブラムスは、現れたときに見たのとは違う色のウインドブレイカーを着ていた。背負っているバックパックもさっきは持っていなかった。あの中身も服の類なのか、それとも、別のなにかか。ネッドはずいぶん長いあいだ誰も乗らず、手入れもされていないらしい自転車が軋む音を響かせないよう、そして前を走るエイブラムスが気づかないよう、ゆっくりと丁寧にペダルを踏み続けた。

 二台の自転車とブルーメタリックのプリムス・フューリーは、眠りに落ちようとしている静かなシティを北東に向かって進んでいた。レストランやバーなどのネオンがまったく視界内にない、街灯だけがアスファルトを照らす人気ひとけのない通りで、車輪の回る音だけが耳を擽る。ネッドは振り返り、ヘッドライトがついてきているのを確かめた。

 エイブラムスは三叉路で一度左に進み、そのあとさらに北へ向かっていた。だらだらと続く上り坂を踏みしめるようにペダルを漕ぎながら、いったいどこまで行くつもりだろうとネッドがふぅと息をついたときだった――それまで一定のペースで走っていた自転車はいきなり加速し、住宅のあいだの細い路地を左に折れた。

「ちっ」

 気づかれていたのか。舌打ちし、ネッドは漕ぐ速度を早めながらその路地へと進んだ。きぃきぃと自転車が悲鳴をあげるような音をたてる。

 そして、不意にペダルが軽くなったと思ったそのとき。ハンドルがぐらつき、自転車が蛇行した。

「うぉっと――」

 バランスを失い転倒しかけて、咄嗟にハンドルから手を離して受け身を取る。そうしてネッドが顔をあげたと同時に、プリムスが路地の脇に停車した。

 ウィンドウを開け、「エイブラムスは!?」とヴァーノンが尋ねる。

「あっちだ! すぐに追う、車で先回りしてくれ!」

 ネッドがそう云い終わる前にプリムスが急発進する。ネッドも立ちあがってチェーンが外れてしまった自転車を飛び越えると、エイブラムスが走り去ったほうへと向かって駆けだした。

 その路地は車一台がかろうじて通れるくらいの幅しかなく、緩く弧を描いていた。右側には木の柵がずっと続き、その向こうには遠く家々の灯りが見える。ネッドは必死に走りながら、その細い一本道にエイブラムスの姿を探した。柵の外は崖だった。やがて道の左側に住居らしき建物が見えてくると、ネッドは壁際に寄り、いったん立ち止まった。

 アパートメントかと思った建物は、タウンハウスであった。連なる同じ作りの家々は、どれも一階部分がガレージになっている。灯りのついている窓はいくつかあるが、街灯はかなり先に一基あるだけで、周囲はかなり暗い。ネッドは懐から小型のフラッシュライトを取りだして逆手に持ち、その上に右手を重ねて銃を構えた。路地の真ん中にエイブラムスが乗っていた自転車が乗り棄てられていた。ネッドは白く光るライトと銃口を向け、そろそろとガレージに足を踏み入れた。

 車の陰に注意を払いながら、一歩一歩、注意深く進んでいく。一台め、クリア。二台め、クリア。三番めと四番めのスペースは空っぽで、五番めに駐められていたのは大型のバンだった。緊張を保ったまま後ろまでまわってみる――クリア。六番め、七番めの車の陰にも、エイブラムスが潜んではいなかった。

 残るは一ヶ所だけ、と八番めのスペースに駐められた車の陰もチェックしたが、エイブラムスはそこにもいなかった。ガレージを出て、周囲を確認したあと路地の先をライトで照らした。――人影はない。

 そして同時に、『DEAD END行き止まり』と書かれた黄色い標識に気がついた。闇に紛れながら伸びていると思っていた細い道は、アパートメントの端で途切れていた。そこにはダンプスターが並び、後ろにはフェンスが張られている。

 では、エイブラムスは何処に消えた?

 ネッドは銃を構えたまま、再び辺りを注意深く見まわした。フェンスを超えたか、それとも柵の向こうへ下りたのか。でなければ、このタウンハウスのどこかに隠れ家があるのか。

 路地がどこかに抜けられると思って先回りするよう云ったが、ヴァーノンが戻ってくるのを待ったほうがいいかと、ネッドは銃を持った手をおろした。――そのときだった。

 背後から近づく気配に、ネッドははっと振り返ろうとした。しかしそれは叶わなかった――一瞬、見えたのは微かにライトが照らした肩口と、なにかが勢いよく振りおろされる、そのシルエットだけだった。

 頭のなかで直接、鈍い音が響いた。衝撃を感じ、眼の前に白い火花がちらついたと思ったのも束の間、すぐに追撃が襲ってきた。地面に昏倒し、逃げ去る足音となにかが倒れたような物音を聞きながら、ネッドは意識を手放した。





 ――ゆっくりと目を開けると、白く滲んだ視界のなかで影が動いた。

「ネッド、気がついたか……!」

 聞き慣れたその声に、ネッドは数回、強くまばたきをした。徐々に目が慣れて、自分を覗きこんでいるその顔が次第にはっきりとかたちを結ぶ。

「……サム……? すみません、俺……また眠っちまいましたか……?」

「寝惚けるな。まったく、無事でよかった。……このばかったれが、この仕事を始めて何年めだおまえは! 尾行していて後ろから殴られるなんぞ、ド素人もいいとこだ!」

 心配そうな色を浮かべていた顔がいきなり怒りだし、ネッドは自分になにが起こったかを思いだした。

「そうだ、俺……エイブラムスを見失って、後ろから――」

「現場に、柵に使われてたらしい板があった。修理で外したほうだろうな、真ん中にヒビが入って割れかけてた。そのおかげで軽症で済んだんだ。これが鉄パイプなら、おまえは今頃お陀仏Six feet underだぞ」

 銃も奪われず、おまえが握ったままだった。今は俺が預かってる、とサムは自分の腰の辺りを指した。ネッドは半身を起こそうとして、ずきんと傷んだ後頭部に手をやった。

「まじっすか……。死神にも嫌われちゃったんすね、俺」

「笑えないぞ。次に云ったらぶん殴るからな」

「うへぇ、勘弁してください……」

 再び「まったくおまえは」とこぼすと、サムは先生ドクターを呼んでくると云って病室を出た。





「――だから、そんなヘマはやってませんて。ちゃんと身を潜められそうなところを順に確認しながら進みました! そしたら行き止まりで、いったい何処に消えたのかと思ってたら、いきなり――」

「しかしネッド、現場は一本道だった。俺は倒れてるおまえを発見してすぐ警察に救急車と応援を頼んで、そのあとあのタウンハウスの後ろにまわってみたが、奥の端にフェンスが張られていて一周はできなかった。尾行している対象が、気づいたら背後にいたなんて考え難い」


 一夜明けて。ネッドは一晩だけの入院で必要な検査を済ませると、すぐ捜査に戻った。

 周囲を捜索していた警察もエイブラムスを発見できず、路地は封鎖して警官が監視、タウンハウスは一軒ずつ訪ねて確認したが、夜中にいきなり男が飛びこんできたというようなことはなかったと報告があった。

 ネッドはサムとヴァーノンと共に、自分が殴られた現場を朝の陽光の下でしっかりと確認したが、背後からエイブラムスが現れたなどどうにも解せないと首を傾げた。

「やっぱりおかしいっすよ。俺はエイブラムスがいきなり加速したんで、気づかれたと思って急いで後を追ったんです。で、自転車のチェーンが外れちまって、見失ったエイブラムスを走って追って――」

 タウンハウスのガレージのなかを確認しながら進んだと、ネッドは順を追って説明した。どう考えても自分をどこかでやり過ごして、背後から現れたとは思えなかった。ということは――

「……もうひとりいたんだ。それしか考えられない」

 サムが先に云い、ネッドは二度頷いて頭の痛みにきゅっと目を閉じた。「無理はするなと云ったろう」と云われ、「大丈夫っす。頭の代わりに指を動かすようにします」と人差し指を立てる。

「もし共犯者がいたんなら、他に解決する疑問もあります。六人めの被害者のウェイトレスですけど……、もうあと少しで家に着いたのに、被害者はその手前で暗い脇道に折れて殺された。どうしてか、ずっと気になってたんですが――」

 ネッドの云いたいことを汲んで、サムが頷きながら続けた。

「家の手前で、誰かに行く手を阻まれた」

「です。自分を尾ける怪しい奴から逃げていたら、前に仲間が現れた。被害者にとっては絶望的な状況です。脇道に入るしか選択肢はなかった」

 もう現場で見るべきものはなかった。三人は車へ戻ろうとタウンハウスの前を通り過ぎ、そこで一度振り返った。

「エイブラムスは建物の裏に隠れていたんだろうな。で、仲間がネッドを襲ってから一緒に車で逃亡した。俺は、まわりこめないとわかってすぐUターンして戻ったが、もうとっくに逃げたあとだったわけだ」

 失態に、ネッドが柄にもなくがっくりと肩を落としていると。

「そう悄気るな。おかげで模倣犯がひとりじゃないとわかったんだ。ハゲを作っただけの甲斐はあったさ」

 ぽんと肩に手を置き、サムがそう云った。

「ハゲ!? えっ、この包帯の下、ハゲちまったんですか!?」

「殴られたとき板に一房持っていかれたのと、傷を縫うときに剃ったのとでな。大丈夫。このくらいの大きさだ」

 サムが人差し指と親指で、少し隙間のある輪を作ってみせる。

「ちょ、けっこうでかくないっすか!? 傷が治って包帯がとれたらどうしたらいいんすか!」

 殴られたうえにハゲまで作られたのかと、ネッドは怒りに肚をむかつかせ――不意に襲ってきたその感覚に、くらりと額に手をやった。

「おい、真剣に無理はしないで、病院に戻ったほうが――」

 心配そうにそう云うサムに、ネッドは申し訳無さそうに答えた。

「違います……。サム、なんか旨いもの食って力をつけませんか。昨夜ゆうべからなんにも食ってなくて……」

 呆れたような顔をしながらも、サムは頷いた。

「チャイナタウンへ行こう。中華なら滋養のあるものが食えるだろう」

「やった、さっすがサム」

「誰も奢るとは云ってない――」

 そう云いかけ、サムが言葉を切って云い直す。「いや、奢ろう。……さっき、てっきりおまえがヘマをしたと思いこんで、ド素人って云っちまったからな」

 すまんかった、と外方を向いて云うサムの顔を、ネッドはにやにやと笑みを浮かべて覗きこんだ。

「なんだ」

「なんでも」

「……殴るぞ」

「なんでですか!」

 プリムスのドアを開けながら、ヴァーノンがふたりのそんなやりとりに溜息をつく。

「俺は本部に戻る。チームはクロウリーの線も残しつつ、もうエイブラムスを最有力容疑者とみて手配した。寮の部屋も捜索して、いま奴の交友関係から共犯者を洗いだしてるはずだ。俺もやることが山積みだ。――ネッド、おまえは今日一日くらい安静にしてろって云いたいが……」

「気持ちだけ受けとっておくよ」

 ネッドの答えに、ヴァーノンがやっぱりな、と再び息をつく。

「だろうと思ったんで、本部で資料の見直しをしてもらいたい。共犯者がいるって前提でな」

「それだけ? ……サムは?」

「ここまできてボズウェルも部外者だなんだとは云わんだろう。一緒に頼む、サム」

 サムは「了解。任せとけ」と頷き――ヴァーノンと視線を交わして、共犯者の笑みを浮かべた。

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