「シュトラウス?」
影の魔物に堕ちたはずのシュトラウスは、私の胸の中で何かを伝えようと口を開く。
言葉にならないその声は、どこか苦しんでいるように感じた。
「……り、リーゼ……こ、殺し……て?」
ようやく聞き取れたのはそんな言葉だった。
私に殺してと、彼は影の魔物に堕ちても私に願った。
きっと彼の中でギリギリなのだろう。
意識を保っていられるかどうかの瀬戸際で、自分が影の魔物に堕ちるのを拒否したのだ。
彼の願いを聞いてあげるのが、本来正しいのだろう。
彼の尊厳を守るために、泣きながらも彼を殺すべきに違いない。
だけど、そんなこと私にはできなかった。
なにより私は一縷の望みを持ってしまった。
影の魔物に少しでも自我が、それも言葉を自らの意思で発せられるだけの自我が残っているケースなんて聞いたことがなかった。
もしかしたら影の魔物に堕ちたばかりであれば、多少の意思疎通も可能なのかもしれない。
そうであるならば、もしかしたらという期待を抱いてしまう。
「いまなら間に合うかも」
私は胸元に飛びこんできたシュトラウスをしっかり抱きしめ、紫の魔眼の力を総動員させる。
なんの根拠も理屈もない。
だけど何かが起こってくれと、私は自分たちのまわりに不思議をばら撒き続ける。
「……なに? 一体何が起きてるの?」
私はシュトラウスの姿を見て驚いた。
なぜなら彼の体から溢れだしてた黒い
まるで元に戻るかのように、黒い靄は彼の口から中に戻っていった。
黒い靄が完全に体内に入っていったかと思うと、シュトラウスから放たれていた危険な気配がすっかり鳴りを潜めた。
「……シュトラウス?」
私は彼の体を揺する。
見た目は完全にただのシュトラウスに戻っている。
魔王の姿ではなく、力を使い切った少年の姿で寝息を立てるシュトラウスは、とても死んだようには見えなかった。
「シュトラウス? シュトラウス!」
私は徐々に激しく彼の体を揺する。
もしかしたらという期待感とやっぱりという恐怖、その両方が一斉に胸にこみ上げてくる。
居ても立っても居られない私は、しかし他にやれることなんてあるはずもなく、必死に彼の名を呼び続ける。
「……あれ? リーゼ? 我は死んだはずでは?」
ゆっくりと開けられた彼の瞳には、弱々しいが生気が感じられた。
「シュトラウス! 良かった!」
私は彼の小柄な体を力いっぱい抱きしめた。
少しばかり彼の体が軋んだ気がするが、構うものか。
「痛い! 痛いぞリーゼ! ちょっと前まで死んでたんだぞ我は!」
シュトラウスの抗議の声をうけて、私は冷静さを取り戻して彼を開放する。
視界がにじむ。
気づけば私は泣いていた。
彼の姿を目に焼き付ける。
滲んで歪んだ彼の姿は、私に安心をくれる。
「な、なんで泣くのだ! 我は無事だったのだぞ?」
無事だったから泣いているのだ。
だけど彼にはそんなこと分かりはしないだろう。
鈍感でバカな貧血の魔王様……。
「しれっと失礼なこと考えなかったか?」
「いまに始まったことじゃないわ」
「今までもあったのかよ!」
シュトラウスと何度か言葉を交わしているうちに、涙は乾いてしまった。
良かった。本当に良かった。
「シュトラウス!」
私たちの様子をずっと窺っていたセリーヌが、こちらに飛び出してきた。
セリーヌは私以上の力でシュトラウスを抱きしめ、彼の体から骨でも折れたのではないかという音が聞こえた。
「お前、我を殺す気だな?」
「ごめんって」
セリーヌは謝りながら笑う。
シュトラウスは体をポキポキといわせながら、自分の体を確認する。
「どう? 問題はある?」
「いや、無いと思う。強いて言えばお前たちのハグで歪んだぐらいだ」
どうやら問題はないらしい。
一度死んで蘇っておいて、なにも問題が無いとはどういうことなのだろう?
吸血鬼だからなのか、それとも魔女にも同じことがいえるのだろうか?
「どうやって我を生き返らせた?」
シュトラウスは真面目な顔で私に尋ねた。
私はここまでの経緯を全て事細かに話した。
彼が影の魔物に堕ちた時から、いまの今まで。
「仮説だが、不思議の量が問題だったのかもな」
「どういう意味?」
「影の魔物は黒い靄を
黒い靄の正体?
たしかにあの靄は影の魔物であれば、どの個体も確実に纏っている。
個体差なんて存在しない。
しかしそれと不思議の量にどんな関係がある?
「不思議は、文字通り不思議であり神秘に連なるものだ。そして神秘の一つに魂の存在がある。通常、死んだ者から魂が流れ出て、世界に召し上げられて浄化されると言われているが、それが魔女の血による”呪い”として地上にとどまり続けたのが影の魔物ではないか?」
つまり魔女の血を吸い続けた吸血鬼が死後、影の魔物として動き出すのは魔女の血による呪いということになる。魔女の血が、死した吸血鬼の魂を地上に縛り付ける鎖なのだ。
「じゃあシュトラウスが生き返ったのは……」
「そう。リーゼの魔眼だ。紫の魔眼の力で不思議の濃度を極端に上げた結果、黒い靄として体に纏わりつくはずの魂が、不思議の外圧で体内に押し込められた」
「魔眼のおかげ?」
「おそらく。ただ実際、この方法は偶然が重なっただけの可能性もあるからな。我が何度も生き返ると思うなよ?」
シュトラウスは最後にふざけて見せた。
そうか……私のこの紫の魔眼は、私の大事な人を救ったのか。
ようやく私はこの魔眼を愛せそうだと思った。